おはよう

 「鍵閉ってますよ」
 玄関ドアを開けようとする同居人の背後に立って言う。
「こんな早くからどこ行く気ですか」
 頼りない背中は、震える声で散歩と答えた。昨夜と同じ答えだ。
 無理矢理こちらを向かせ、精気のない顔を覗き込む。
「信じると思いますか」
 俺が強い調子で言うと、水滴が一筋、頬を伝った。






 これは夢だと分かっていても起きられないことがある。今がそうだ。
 まぶたの裏がうっすらと明るい。それでも俺はまだ夢の中で薄暗い玄関の靴脱ぎに立っていて、ガラス玉みたいな瞳をみつめていた。少しでも眼をそらせば、その隙をついて中戸さんが消えてしまいそうで。
 現実の世界でも中戸さんはこうして出て行こうとしているのかもしれない。そう思って目覚めなければと焦るのに、眼を開けることができない。この夢の中の中戸さんから眼が離せない。
 昨日帰省してきた中戸さんは、夜中、眠る頃になって自失状態に陥った。本人も気付かないうちに外出しようとし、俺に止められたのだ。そこで彼が夢遊病になって抜け出さないよう、俺が一緒に寝て見張ることになっていたのだが……。
 どうやら寝てしまったらしい。
「ごめん……」
 感情のこもらない声で、夢の中の中戸さんが言う。頬を滑っていた滴が唇に消え、人形のように瞬きをしなかった眼が伏せられた。
「ごめ……」
「謝らないでください。俺がちゃんと見張ってなかったから」
 中戸さんの隣で眠れるわけがないと高を括っていたのが仇になったのかもしれない。子どもみたいな寝息を聞いているとなんだか安心してしまい、精神的に疲れていたのも手伝って、邪な気持ちが眠気に負けた。ゲイになるつもりなどなく、中戸さんと同居を続けていきたいと考えている俺には喜ばしいことだ。普段なら。
 いざという時、頼れる男になりたかったのに。俺の傍なら安心して眠れると思って欲しかったのに。死人のような痛々しい寝顔に約束したのに。
 夢の中ですら、俺はこの人を守ることができない。
 俺は突っ立ったままでいる中戸さんの腕を引き寄せた。布地を引き摺るような感覚とともに、華奢な身体が胸元におさまる。飛び出した肩甲骨が、取っ手のように手にひっかかった。
 こんな身体になるまで気付けなかったことが申し訳なかった。自失状態になるのを止められなかったことが情けなかった。せめて、俺が眠っていなければ――。
「ごめ……なさいっ!」
 後半部分は、掠れた声が実際に鼓膜を打つのが分かった。俺は声を発したのだ。夢の中ではなく、現実世界で。それと同時に、やっと俺はまぶたを上げることができた。
 まぶたの裏を照らしていた、カーテンの向こうの光。よれている敷布団。低く唸るクーラーの音。そして、脇に挟み込むようにして抱きこんでいる、骨ばった身体。
 目尻が熱かったけれど、俺は拭うこともできずに、夏蒲団の中から見上げて来る視線を受け止めた。
「おはよう」
 俺の胸元で、中戸さんが微笑む。
「おはよう……ございます」
 頭が現実についていけずに呆然としていると、窮屈そうに伸びてきた手が俺の目元を滑った。
「辛い夢でも見た?」
「や……辛いっていうか、中戸さんがまた夢遊病になって……俺、気付けなくて……申し訳なくて……」
 心配そうな表情が、またふにゃりと笑顔に変わる。
「なんで俊平くんがそんなこと思うの。そうなったらなったで俺の自業自得なんだから、隣に寝てたからって俊平くんが気に病む必要ないんだよ。それに、」
 中戸さんは伸ばしていた手を引っ込めると、俺の左腕にかけ、少し掠れた声で言った。
「俊平くんはちゃんと捕まえててくれたよ?」
 その腕は、がっちりと中戸さんの背中にまわされていて。
「すっ、すいません! 窮屈だったでしょう」
 俺は慌てて手を引っ込めて飛び起きた。よくよく考えてみなくても、今の今まで俺は中戸さんと同衾していたわけで。いやまぁ本当にひとつの蒲団で眠っただけなんだけども。
 ……朝から死ねそう。
 大丈夫だよと笑いながら、中戸さんものそりと起き上がる。
「俺いま省スペース設計だから、あんだけスペースあれば十分」
「省スペースって……」
 俺は布団の上に座ったまま、横についた自分の左手をみつめた。そこには、中戸さんの飛び出た肩甲骨の感触がありありと残っている。硬くしっかりしているけれど、掴めてしまうほど痛々しいその感触。
 健康美や男らしさからは程遠いが、これはこれで耽美な魅力が増しているようで、宝塚やサナトリウム文学の好きな女子や、『ヴェニスに死す』のグスタフ先生みたいな野郎がひっついてきそうで怖い。
 これでしばらくは帰省もしなくていいわけだし、これからは中戸さんの食欲も徐々に回復するだろう。なんとかして肉を付けさせなければ。
「ありがとね」
「え、何が」
 俺が心の中で拳を固めて決意していると、突然向かいから中戸さんが覗き込んできて驚いた。
「一緒に寝てくれて。俊平くんこそ狭かったろ。無茶言ってごめんな」
「や、俺、見張ってるつもりが寝ちゃったし……」
 どさくさに紛れて抱きしめてたし、とも思ったが、ちゃんと引き留めてくれたじゃん、と言われたので、そこは結果オーライか。どうやら俺は、目覚めた中戸さんが俺を起こさないようにそっと布団から抜け出そうとしたところを、すかさず引き寄せたらしい。夢の中で彼の腕を引いた時に感じた摩擦は、実際に敷布団を引き摺った感覚だったわけだ。
「ちょっとは役に立ったみたいで良かった」
 どういう顔をしていいか分からずに、額にできかけていたニキビをいじっていると、薄い夏蒲団を畳んでくれながら、「ちょっとどころじゃないよ」と中戸さんが言った。蒲団を四つ折りにして、ぽんと叩く。
「目が覚めた時、俊平くんがいてくれてすごく安心した」
 安心するなんて好きな人に言われたら、本当は終わりなのかもしれない。でも、そう言ってはにかんだ中戸さんの笑顔は、こっちが嬉しくなるくらいまばゆくて。
 中戸さんにとって安心できる存在。中戸さんが心安らかなまま、至近距離で朝の挨拶ができる存在。彼が望むなら、俺はそういう存在でいいような気がした。それで少しでも、彼に必要とされるなら。
 俺はカーテンを引いたままの部屋で目を細めた。












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