線香花火

 俺が風呂から上がると、掃きだし窓の向こうに中戸さんの姿があった。窓を背に、ベランダにしゃがみこんでいる。
「何やってんですか。暑いでしょう」
 俺は掃き出しを開けて問いかけた。俺を振り仰いだ中戸さんの前には、水を張ったバケツが置かれている。そしてベランダに立ち込める香ばしい火薬の匂い。
「……花火、ですか」
 今日、実家に帰省してきた中戸さんは、駅のコンビニで俺にジュースを買ってくれた。その時一緒に買ったものだろう。てっきり研究室の合宿で遊ぶために購入したのだと思っていた。
「俊平くんもやる? 線香花火しかないけど」
 中戸さんがビニール袋に入ったそれを差し伸べてくれる。俺は、こよりを一本抜いてから、サンダルが足りないことに気付いて玄関に引き返そうとした。ベランダには、一足しかサンダルを置いていないのだ。
 そんな俺を中戸さんが引き留めた。自分の身体をずらして、サッシの際にバケツを持ってくる。
「いいよ。バケツこっちに置くから」
 俺は部屋の中からバケツの上へ花火を垂らした。こよりの先に、中戸さんがライターで火を付けてくれる。水の中には、すでに何本かのカスが浮かんでいた。
「どうしたんですか。急に一人で線香花火なんて」
「父親の初盆で里帰りしたのに、墓参りも行かなかったからね。ほら、花火って送り火だって言うじゃん」
「中戸さん……」
「一日か二日早いけどね」
 中戸さんは苦笑しながら、新たな一本を抜き出した。「いただきます」と俺の花火に近づけてくる。ぱちぱちと弾ける火花がたちまち倍になり、微かな音も少しだけ賑やかになる。
 俺は、自分の中にくすぶっていた不安が大きくなるのを感じた。
「俊平くん」
 狭いバケツの中で小さく散っていく火の粉を黙って見ていると、中戸さんに呼びかけられた。顔を上げると、中戸さんも顔をうつむけて、地味な花びらが次々に零れるのをじっと見ていた。チチッ、チチッ、と微かに爆ぜる音がする。
 中戸さんは視線を落したまま言った。
「俺、たぶん俊平くんが思ってるほど、父親のこと嫌ってないよ。怖いと思うことはあったけど、感謝はしてる」
「……嫌っていたとは、思ってないですよ」
「そっか」
 むしろ逆だ。
 中戸さんは帰省すると、戻ってくる時に必ずと言っていいほど我を失い、見ず知らずの男に抱かれようとする。それが、今回初盆を迎えた養父の虐待と関係しているのは間違いないだろう。
 俺は最初、血筋の濃い人間との交わりを消したくて、忘れたくてそうなるのかと思っていた。継父とはいえ、彼らは血縁者だ。
 でも、最近は思うのだ。
 中戸さんは、自分でも気付かないくらい心の奥の方で、亡くなった養父のことを深く愛していて、彼の代わりを求めて見ず知らずの男の腕に縋ってしまうのではないかと。
 俺の火が落ちて、中戸さんが自分のから新しいのに火種を移して手渡してくれる。俺の花火が勢いよく弾け始めると、間もなく中戸さんの線香花火も消えた。
 中戸さんは、先の無くなった花火をバケツに落として、自分にも新しいのを取り出す。俺は火種を取り易いように、気持ち中戸さんの方へ花火を傾ける。
 カチッ、カチッ、ヂヂ、ヂッ。うまくこよりに火が移って、先端が赤く丸い玉になる。ぼうっとそれを見つめていると、中戸さんが言った。
「これからどっちの花火が長くもつか競争! よーい、どん!」
「はぁ? 何子どもみたいなこと言ってんですか。俺はしませんよ」
「ノリ悪い子には権限行使してやる。ってことで先輩命令」
「ちょっ! ずるっ! 中戸さんのが新しいんだから、中戸さんが勝つに決まってるじゃないですか!」
「分かんないよ。時々いやに早く終わるやつあるじゃん。負けた方は何でも一つ、相手の言うことをきくこと」
「どんなルールですかそれ!」
 ええい、妨害してやる! と、自分の花火を中戸さんの花火に向けて振り回すと、先端の火玉が飛んで、中戸さんの先端の火玉にくっついた。二倍になった火玉は、細い柄で支えるには重すぎたのか、ぽろりと取れて仲良く水の中に落ちていった。
「あーあ、心中しちゃった」
「しっ、しんじゅ……って、」
 どういう表現してくれるんだ、この人は。
「中戸さんがずるい勝負するからですよ!」
「くーう、勝ったら俊平くんにあれもしてもらおう、これもしてもらおうって考えてたのに」
「負けた方が言うこときくのは一つだけでしょ。どんだけ働かせる気ですか!」
「あはは。まぁ、今回は引き分けだね」
 中戸さんは笑いながら、空になったビニール袋を持って立ち上がった。花火はあれで終わりだったらしい。バケツをエアコンの室外機の横に寄せ、明日片付けると言ってサンダルを脱ぐ。
 俺は中戸さんがサッシを閉めるのを見計らって、東側からカーテンを引いた。中戸さんも西側から引いてくる。カーテンレールでぴたりと金具同士がくっついたのを確認しながら、中戸さんが言った。
「そういえば、まだ言ってなかったよね」
「何をですか?」
 キッチンスペースの方へ戻りかけていた俺は、振り向いて彼を見た。レールを見上げていた中戸さんも、カーテンから手を放して俺を見る。
「今日は待っててくれてありがとう」
 儚く散る線香花火の火花のようにちらふわと揺れる短髪の中で、大輪の花が咲いた。










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