モカ

 大学の帰り、自分の荷物を取りに、今まで住んでいたアパートに寄った。先に電話をしておいたせいか、真衣が玄関先で出迎えてくれた。
「見つかったの? 住むところ」
「うん。だからハイ」
 持ったままだった合鍵を差し出す。真衣は、猫が欠伸をするくらいの間じっとそれを見つめ、おもむろに俺の掌から摘み上げた。
「荷物、一応まとめといたけど、足りない物があったらまた連絡して」
「ん、サンキュ。もう少ししたら有川が車出してきてくれるから、それまで確認させてて」
 俺は上がり口に固めてあった自分の持ち物をざっと点検した。荷物のほとんどは、講義で使う資料やテキスト類だ。あとはラップトップのパソコンと、持ち出していなかった衣類など。共同で買ったCDやDVDはほとんど置いていくことにした。
「車まで出してくるほどでもなかったんじゃない?」
 俺から受け取ったCDを仕舞いながら、真衣が言う。
「いや、これから布団買いに行くから」
「布団?」
「うん。俺はこたつにしようかと思ったんだけど、こたつでごろ寝してたら風邪引くって同居人が言うから」
 昨夜、俺が寝かせてもらったのは、どうやら中戸さんの部屋であったらしい。前の同居人が使っていた部屋にしては、物がありすぎるなとは思っていたのだ。実際に俺が使わせてもらう部屋は、押入れの中まできれいさっぱりすっからかんの和室だった。
 そんなわけで今、あのマンションには布団が一組しかない。昨日は、酔っ払っている俺が風邪を引かないようにと中戸さんが気を遣ってくれたのだが、ずっと布団を貸してもらうわけにもいかないので、今日、この足で買いに行こうとしているのだった。
「同居人て、有川くんじゃないの?」
「ああ、有川のサークルの先輩」
「よく知ってる人?」
「いんや、昨日初めて知り合った」
 初めてと言っても、それは俺の方だけで、向こうは俺を知っていたらしい。今朝目覚めて、改めて疑問に思ったので訊いてみたのだ。昨日知り合ったばかりの俺なんかを住まわせちゃっていいんですかと。
「どんな奴かも分からないのに。俺が泥棒とかするような奴だったりしたらどうすんですか」
 もうちょっと警戒心を持った方がいいんじゃないかと思って言ったのだが、相手はのほほんとしたものだった。棚から新しいカップを出してきて、コーヒーメーカーにお湯を注ぎながら答える。
「いや、よくは知らないけど、そういうことはしないだろうってくらいは分かってるよ。きみ、よくうちのサークルの飲み会に紛れてタダ食いしてたでしょ。そこで断片的にだけど話聞こえてたし。仕送りがほとんどないから、彼女に迷惑かけないように、一人の時はああいう飲み会なんかに紛れて食費浮かしてるとか。セコイけどしっかりしてるなぁって思って感心してたんだ」
「知ってたんですか……」
「うん。名前までは知らなかったけど、顔はなんとなく憶えてた」
 だから実は初対面じゃなかったんだよねと、中戸さんは警戒心ゼロの笑顔で俺に淹れ立てのコーヒーを出してくれた。
 俺が言ったのはそっちじゃなくて、サークルの飲みに紛れてタダ飯食ってたことの方なんだけど。
 気恥ずかしい思いで、カップを受け取って口に運ぶ。すいませんと呟くと、何が? と返された。
「いや、今度からはちゃんと金払います。というか、もう行きませんから。サークルの飲み会」
「ああ、そのこと。うん、その方がいいかもね。でも、昨日は来てくれてて助かったよ。俺、もう少しでココ出てかなきゃならないとこだったし。捨てる神あれば拾う神ありだね。ありがとう」
「いや、あの、お礼言うのはこっちなんで」
 俺からすれば、拾ってくれた神は中戸さんの方で。あの場でルームシェアの話を持ちかけられなかったら、野宿決定だったんだから。
 コーヒーの香ばしい匂いが充満したダイニング。後光よろしく朝日を背負って微笑む中戸さんに、俺は心の中で手を合わせていた。






 「まさか女?」
 少し非難めいた声音で真衣が言う。別れたのだからそれでも文句を言われる筋合いはないはずなのだが、俺は反射的に言い訳するような口調になっていた。
「中戸群司先輩って男の人。ちょうど家賃折半してくれる人を捜してたらしい」
「え? ちょっと、有川くんのサークルの中戸って……」
 真衣は口許を手で覆い、明らかに動揺の色を見せている。そういえば、真衣と中戸さんは同じ学年だったと思い、知ってんの? と訊くと、知らないの? と逆に訊き返された。
「知らないの? 中戸群司って言ったら、ゲイで有名じゃない」
「有名って……」
 まぁ、今日だけで、何人もの奴にホモになったのかと言われて閉口してはいたのだが。だけど、本人に確認したわけじゃないし。それに。
「でも、いい人そうだよ」
「いい人だから良いってもんじゃないでしょ! これじゃあ、あたしが男にシュンを取られたみたいじゃない」
「なんだ、そういうことか。だったら、俺が真衣に失恋して、男にはしったと思われるかもしれない」
「そうなの?」
「いんや、」
 真衣はとても大きな溜息を吐いた。彼女が息を吐き出すのと同時に、細い肩が上下する。
「あたしがいきなり出てってって言ったのが悪かったのよね。ごめん。本当にすぐ出て行くとは思わなくて……。ちゃんとした住まいが見つかるまでうちに居ていいから」
「え、いいの?」
 思わず問い返していた。
 年上の元恋人は、長い髪をくしゃりと掴んで、小さくうんと呟いた。
「有川くんに電話しなよ。今日はもういいって。コーヒーでも淹れるね」
 真衣はそのまま髪を梳くと、立ち上がって食器棚の中からこの前買ったばかりのインスタントコーヒーを取り出した。彼女が蓋を開けると、香ばしい匂いが狭い1Kに充満していく。
 ――捨てる神あれば拾う神ありだね。ありがとう。
 ふいに、今朝の中戸さんの笑顔が浮かんだ。
 野宿寸前だった俺を拾ってくれた中戸さん。彼もまた、同居人が決まらなければ部屋探しの旅に出なければならないのだ。
 それでも彼ならば、俺が彼女のところにまだ居られることになったと言えば、にこにこしながら「良かったね」と送り出してくれるのだろう。まだよく知らない人だが、その場面は容易に想像できた。






「真衣、俺、やっぱいいわ」
 俺は有川に掛けようとしていた携帯を閉じると、荷物を持って立ち上がった。











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