ブレンド

 他人の嗜好なんてどうでもいい。
 が、同居する以上、ある程度は知っておく必要があるのかもしれない。
 たとえば喘息持ちで煙草の煙がダメとか、蕎麦アレルギーがあるとか。風呂場に髪の毛が落ちていると嫌悪感を覚えるとか、実は男が好きだとか。
 そう、たとえば。






 彼女に部屋を追い出され、友人のサークルの飲み会にもぐり込んで、その場で知り合った先輩と同居を決めたのが昨夜のこと。昨日の今日だというのに、今朝大学に行くと何人もの奴がそのことを知っていた。しかも皆、口を揃えてこう言うのだ。
「おまえ、ホモになったのか」
 揶揄するように言われるだけならまだしも、それで彼女と別れたのかなどと納得するように頷かれたりすると、なんでそうなるんだと突っ込まずにはいられない。しかし、彼女に振られたから同居することになったのだというのも情けない話しだし、途中から否定するのも疲れて黙っていたら、さらに驚くようなセリフが次々に出てきた。
「まぁ、グンジ先輩ならアリかな。かわいいし」
「うん。ババアやとんでもないブスよりはアリだな」
「ま、あの人、来る者拒まずっていうから気苦労多そうだけど、頑張れや」
 いやいやいやいや、アリませんから、頑張りませんから。てか、二十歳過ぎた成人男性にかわいいってないだろ。や、俺もちびっとは思ったけど。その前に、なんで皆そんなに俺の新たな同居人を知ってるんだ!?
「おまえ、あちこちにふれ回ってるんじゃないだろうな!?」
 荷物を運ぶのに有川に出してもらった車の中。俺は、俺達が同居話をしていた現場にいた彼を問い詰めた。こいつは中戸さんがゲイだと俺に吹き込んだ犯人でもある。同居の話とセットで言いふらしていないとも限らない。
 しかし有川は、心外だと言わんばかりに否定した。
「俺じゃねーよ! グンジ先輩の情報って何故かすぐ広まるんだって。ファンクラブでもあるんじゃねー?」
 ファンクラブって……。
 俺が内心で呆れているのを知ってか知らずか、有川も呆れたように俺を見る。
「おまえこそ、本当に先輩のこと知らなかったのかよ。あんなにいろいろ噂あるのに」
「噂って?」
「首席で入学してて、入学後はほとんどの試験を始まって三十分で退席してるにもかかわらず、成績はAプラスばかりだとか。去年、口頭試験で鬼の矢城教授を言い負かしたとか。一昨年、何かの罰ゲームで、学際のミスコンに女装で出場して、優勝をかっさらったとか。いつぞやの箱根駅伝で、五区の区間賞を獲ったとか」
「ちょっと待て。うちの大学、箱根駅伝なんて出てないだろ」
「大学からは出てないけど、ほら、選抜チームとかなんとかって、タイムのいい学生を寄せ集めたチームあるじゃん。あれで出たらしいぜ」
「なんか、ものすごく苦しい言い訳に聞こえる」
「ま、真偽のほどは定かじゃないけどな。グンジ先輩って、自分のことあんま話さないし」
 七割方は嘘か誇張だと思うが、どうやらものすごい人物であるらしいことは伺えた。知名度が高かったのもなんとなく頷ける。
「でも、よく耳にするのは男関係だな。昔の恋人はヤクザだったとか、准教授と関係があったとか。去年のクリスマスに、五人切りをやったとかやらないとか。そのせいで恋人に刺されそうになって、年末年始は行方を晦ませていたとか。このテの話はゴマンとある人だよ。まだ訊きたいか?」
 こちらを見る有川に、俺はもういいとかぶりを振った。
「どうせ噂だろ?」
「まぁな。でも、火のないところに煙は立たないって言うぜ?」
 有川は前方の赤信号を見据えたまま、やけに真面目な顔で言った。てっきり、にやにやと可笑しそうに笑っているものと決め付けていた俺は、毒気を抜かれて黙り込んだ。






 噂話などどうでもいい。首席だろうが前科者だろうがヤクザの元恋人だろうが構わない。
 しかし、実害があるなら話は別だ。本当に中戸さんがゲイだったとして、平凡な俺などとても好みには当てはまらないだろうが、それでも何かで血迷って、寝込みを襲われでもしたらかなわない。そんな人には見えないが、人間外見じゃ分からないこともある。
 別に、そうだったからといって同居を解消しようとまでは思わないけれど、知っていれば何らかの対策を講じることだってできるわけで。
 そこで単刀直入に訊いてみた。
「あのぉ、つかぬ事をお伺いしますが、中戸さんてゲイなんですか?」
 今日から正式に住むことになった2DKのマンション。少ないながらも部屋に荷物を運び込み、昨夜箱辺さんとうまくいったらしい有川がいそいそと帰った後。コーヒーでも淹れようかと部屋から出てきた同居人は、対面式のキッチンの向こうできょとんとした後、吹き出した。
「本当に知らなかったんだね、俺の噂。今朝の様子からして、そうかなとは思ったけど。俺の周囲じゃ暗黙の誤解みたいになってるから、本当に知らないとは思わなかった」
「暗黙の誤解ってなんすか。やっぱガセなんですか」
 ダイニングテーブルに頬杖をつきながら、だったらいいのにとちょっと思う。やはりその方が生活に支障が少ない気がする。
「うーん、ガセっていうかね、全部間違いってわけでもないんだけど。俺、どっちでもいいんだよね、基本的に。性別とか気になんないっていうか」
「バイってことですか」
「たぶんそう。大学入ってから付き合ってたのが男ばっかだったからゲイだと思われてんだろうけど、女の子も好きだし。あ、でも、ノーマルの男の子襲ったりしないから安心して。基本的に自分からどうこうってことないから、俺」
 恋愛に関して、主体性があんまないみたいなんだよね。
 他人事のように言いながら、中戸さんはコーヒーを出してくれた。そういえば、来る者拒まずなんて話もあったっけなんて思いながら、俺はカップを受け取った。芳醇な香りがふわりと拡がる。
「って言っても気持ち悪いか。嫌だったら遠慮なく出てってくれていいよ。先に言わなかった俺が悪いんだから。新しい部屋見つかるまで、あの和室使ってくれていいし」
 中戸さんは自分の分をマグカップに注ぐと、そのままテーブルにはつかずに自室の方へと歩いていく。
「え? 部屋帰っちゃうんですか」
 思わず引き止めていた。てっきり彼もここで飲むものと思っていたのだ。だからこそ、俺は椅子に腰掛けて待っていたのだし。
 中戸さんは、マグを持ったまま振り向いた。
「やー、こういう話すると、気まずいかなと思って」
 行動の割にはあっけらかんと言うので、全然気まずそうに聞こえない。
「今戻るとこの先よけい気まずくなりませんか? 俺、出てく気ないし」
「んー……でも、俺と住んでると、周りからいろいろ言われるかもしれないよ? 昨日は知ってると思ってたから、深く考えずに連れて帰っちゃったけど」
「ああ、俺、そういうのあんま気にしませんから」
 実害さえなければいいのだ。噂なんてどこまでいっても噂でしかない。第一、人の気持ちほどアテにならないものもないのだから、他人にどう思われるかなんてどうでもいい。諸行無常なのは何も時世や環境に限ったことじゃない。人の心が一番、移ろい易いものなのだ。
「……きみ、変わってるって言われない?」
「中戸さんほどじゃないと思いますよ」
 中戸さんを真似て、にっこり笑ってみる。俺が微笑んでも、彼のようなほっこりした笑みではなく、妖怪のようなニタァーっとした顔にしかならないだろうが。
 俺の無理な笑顔が功を奏したのかどうかは分からないが、中戸さんもここで飲むことにしたようだ。マグをテーブルに置いて椅子を引く。
「ありがとうね」
 俺の向かいに腰を下ろして、意外に気を遣う同居人はふわりと微笑んだ。
「いや、お礼言われるようなことはしてないと思いますけど」
 思わず自分のカップに視線を落としてしまう。真正面から向けられた邪気のない笑顔に、恋愛に関して主体性のない中戸さんが何故『来る者拒まず』とまで言われるのか、少し分かった気がしたのだ。
 それは『来る者』がいなければ有り得ない噂なわけで……。





 ……もうちょっと主体性持った方がいいと思いますよ。





 俺はその言葉を、コーヒーと一緒に飲み込んだ。











inserted by FC2 system