フラット・ホワイト 04

「俊平くんてさ、鈍感ぽいのに、時々鋭いこと言うよね」
 中戸さんは相変わらず前を向いたままだったが、声には感嘆の色があった。
 やっぱりかと思う。
「鈍感はお互い様でしょう」
 望みがないなんて、どこを見て思ってたんだか。
 清酒の効果だろうか。喉の奥が、ぽっと灯がともったように熱くなった。
「何て言って断ったんですか」
「俺、男だよ? って」
「すげー嘘つき」
「嘘は言ってない」
 たしかに事実だが、普通そう言われたら、女にしか興味がないんだと思うだろう。それに。
「断るなら、あんな顔しなきゃいいのに……」
 あんな、見る者の心を鷲掴みにするような笑顔。とはいえ、好きなんだから仕方ないか。
「俺、変な顔してた?」
 中戸さんがこちらを向いて、首を傾げた。その髪に、ひとつ、またひとつと、花びらが落ちてくる。
 俺は答えずに立ち上がって、空になったコップを入り口付近にあった屑籠に捨てに行った。先程、中戸さんが河瀬遼太と立っていた辺りだ。そこで二人がどんな会話を交わしたのか、俺には見えるような気がした。
「俺、男だよ?」
「……そう、だけど」
「……俺が教えるのは、今日で終わりにしよう。ご両親には、俺から適当に言っとくから」
 そこで、なんで? と河瀬遼太が訊いたなら、中戸さんはこう答えたに違いない。
「遼太もこんなことの後じゃ気まずいでしょ」
 ちっとも気まずく聞こえないような言い方で、ほのかな笑みさえ浮かべて。でもきっと、その笑顔は悲しく痛ましいもので。
 河瀬遼太は、どこまで気付いただろうか。
 ベンチのところに戻ると、中戸さんも立ち上がって桜の樹を見上げていた。淡いピンクの花びらは、発光しているかのように闇から浮かび上がりながら散っていく。中戸さんは、落ちてくる花びら達を纏うようにして立っていた。
 そこへ風が強く吹いてきて、緩やかに降っていた花びらが狂ったように舞い始めた。ざあっと音を立てて木々が揺れ、舞い散る花びらがひときわ淡く白く光る。それは中戸さんの華奢な身体に降り注いで。
 俺は思わず駆け寄って、中戸さんの二の腕を掴んでいた。
「何?」
 きょとんとした顔で振り向かれ、慌てて手を離す。
 桜に攫われて、消えてしまうかと思った。
「花びら付いてますよ」
 俺はそう誤魔化して、中戸さんの頭に手を伸ばした。花びらがついていたのは本当で、肩や頭、あちこちに引っ掛かっている。それらを乱雑に払うと、一枚だけが髪に残った。摘んで取ろうとするが、もう少しのところで花びらは逃げ、前髪の方へと落ちていく。それを追って前髪を摘むように手を下ろしていくと、中戸さんはきゅっと目を瞑った。花びらが長い睫毛に着地して、俺の手がやっとそれに追いつく。空いた手で肩を押さえ、目を傷めないよう慎重に睫毛を撫でて花びらを取ると、薄い瞼が僅かに震えた。
「取れた?」
 中戸さんが俯けていた顔を上げながら、ゆっくりと眼を開く。睫毛が重たげに持ち上がり、大きめの瞳が姿を現す。俺はその様子をつぶさに見た。間近にある瞳と視線がぶつかる。何かを問うように瞳が揺れ、形の良い唇が薄く開いた。
 それは吐息が触れるほどの距離で。
「俊ぺ……・・・くん?」
 『くん』の部分は、俺の耳元で発せられた。
 唇が唇を掠めそうになり、やばいと思って中戸さんの正面から外した俺の顔は今、彼の肩先に埋まっていて。
「有り得ねー……」
 何か言わなきゃと思って発した言葉はそんな言葉で。
「頭クラクラして、心臓爆発しそー……」
 俺は焦って、もっと墓穴を掘った。何本当のこと言ってるんだ。馬鹿か俺は。中戸さんは、俺が彼にこういうことをすることはないと信じているから同居しているのに。ああもう、今日から宿無し決定かも。
 キスを回避しようとした俺は、あろうことか中戸さんを抱きしめていた。
「中戸さん……俺……」
 マンション出てかなきゃだめですか?
 中戸さんは「うん」と言って、少し身じろぎした。仄かなシャンプーの香りが、鼻先で揺れる。
 早くこの身体を解放しなければと思う。しかし、そう思えば思うほど、抱きしめる腕に力が入って。
「……俺、……苦し……」
 離したくない。離れたくない。誰にも渡したくない。息が苦しい。胸が苦しい。眼が熱い。身体が熱い。熱いのに寒い。もうわけが分からない。
 中戸さんは、横に垂らしたままだった手を俺の脇に添え、そのまま俺の身体を支えるようにして身を離した。俺の顔を覗き込んで、申し訳なさそうにごめんと呟く。
 いやいいんです。こうなったら出てくしかないし。覚悟はしてたし。涙が出てくるのは次の部屋がすぐ見つかるかどうか不安なだけで。止まらないのは自分が情けないからで。決してあの部屋に他の男が入るのが嫌とかいうわけじゃなくて。
 溢れてくる涙を見られないように両手で目を覆っていると、大丈夫? と声を掛けられた。
「大丈夫? ごめん。日本酒だめだったんだね」
「へ?」
 日本酒?
「俺、何も考えずに買っちゃったから。ほんとごめん。吐き気もある?」
 片方の手が脇から離れ、背中をさすられる。俺は慌ててかぶりを振ってから、うっとなってしまった。
 蹲る俺に付き合って、中戸さんも傍らにしゃがみこむ。
「首振っちゃだめだよ。よけい酔いがまわるって」
 酔い……?
「……ああ、そっか。それでか……」
 俺は、強風に舞う花びらのように、遠心分離機にかけられたような頭でどうにかこうにか理解した。心臓のポンプが壊れそうなくらいばっくんばっくんいっているのも、身体がこんなに熱いのも、そしてどこからともなく湧いてくる涙も不安も、みんな酔いのせいなんだと。
 おそらくは、中戸さんがとても儚く妙に色っぽく見えたのも。



口当たりが良かったから気にせず飲んだのだが、俺はそんなに日本酒と相性が良くないらしい。






 帰りのタクシーの中。うつらうつらしている俺の隣で、中戸さんが呟いた。
「こりゃ俊平くん、今日は途中から完全にブラックアウトだね」
 それを聞いた俺は、たとえ明日全ての記憶が残っていたとしても、途中から憶えていないことにしようと心に決めた。どこまで憶えているかと問われれば、絶対にこう答えてやる。
「ゴミを捨てに行ったところまではなんとなく。でも、その後のことがサッパリ」
 どこの記憶を欠落しようとも、この台詞だけは憶えておかなければ。全身全霊をかけて。






水漏れは翌日来た業者がすぐに修理してくれた。これ以上銭湯代を払わなくて良くなった代わりに、あの銭湯の湯を全部制覇しようという俺の夢は、先送りにされたのだった。








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