一万年のかなた(by.ism様)

 まだまだ秋だと思っていたのに、立冬を過ぎてから急に冷え込み始めた。暦に忠実すぎるのもどうかと思うぞ、と冬将軍に心の中で説教しながら、かじかむ手で鍵を取り出す。今日はかなり遅くなったから、中戸さんが先に帰っているだろう。暖房のついた(あるいはついていたであろう)部屋でぬくぬくしたい。
 手に息を吐きかけながら玄関に入った俺の顔に、冷風がふきつけてきた。
「うわ寒っ」
 思わず呟いてから、え、と首をかしげた。まだ帰っていないのか、と靴を確かめると、きちんといつもどおりの場所にそろえられている。けれど、暖房はおろか照明すらついていない。大体、暖房が入っていないにしても、部屋の中から風が吹いてくるのはおかしくないか? どういう状況だ?
「中戸さん?」
 寝てたら申し訳ないな、と控えめのボリュームで呼びかけてみる。
「おかえり」
 窓の方から、聞きなれた声が返ってきた。なんとなくほっとして「中戸さん居たんですか」と見ればわかるようなことを言いながら近づくと、全開の窓のそばで中戸さんが酒を呑んでいるのが見えた。ああ、だから部屋が冷え切っていたのか。
 夜空を背にして、こっち来なよ、と中戸さんが手招きをする。青春映画のワンシーンみたいな完璧さに、なんだか変なことを言ってしまいそうになった。何か言わないと、と焦れば焦るほど、言葉がこぼれて真っ白くなっていく。
「……風邪、ひきますよ」
「ちょっとだけ。俊平くんもどう?」
「遠慮しときます」
 差し出されたカップ酒が既に半分ほど減っているのを見て、押しとどめるように掌を向けた。飲みかけじゃないですか、それ。他人が口をつけたものに対して生理的嫌悪を感じるほど繊細ではないし、別に中戸さんだからどうこうということもない。が、このシチュエーションでこの人から飲みかけの酒をもらったりしたら、万に一つの間違いが起きそうで怖ろしい。いつもと違う対応を怪しまれるかとひやひやしたが、そっか俊平くん日本酒だめだったっけごめんね、と勝手に納得してくれた。
「星が肴ですか」
「あー、まあ、そんな感じかな」
 答える笑顔はどこか疲れていて、嘘をついているのが感じ取れた。けれど「嘘ついてますね」のオブラートに包んだ言い方が思いつかない上、それを暴いたところでそのあとどうするのかをさっぱり考えていなかったので、とりあえず黙って中戸さんと同じ方向に視線を向ける。
 天候のせいもあり、満天の、だの降るような、だのという冠はつかない寂しい空だが、ぽつぽつとあちこちで白っぽい点が自己主張をしている。うすく雲がかかっていても見えるくらいあかるいのだから、どれもこれも舌噛みそうなかっこいい名前がついてるんだろうが、俺は知らない。知っていても今現在役に立たないだろうし構わない。
「一光年ってさ、秒速三十キロメートルのロケットに乗っても一万年かかる距離なんだって」
「はあ」
 静かに酒を口に運んでいた中戸さんが、突然喋った。
 一光年が時間ではなく距離の単位だ、と中学の理科で知った俺には馴染みがなさすぎる話題で、咄嗟にうまい相槌がうてない。それでもお構いなしに中戸さんは続けた。
「二秒あったら余裕でフルマラソン終わるような速度でも一万年かかる距離。天文学って途方もないよね」
「……ですね」
「それくらい遠いところまで行ったら、」
 不自然に言葉を切って、喋り始めたときと同じくらい唐突に中戸さんは黙った。行ったら何なんだ。とても気になるけれど、続きを促すのもためらわれたので、じっと再び口を開くのを待つ。
「……俺のことでなんやかんや言われて、俊平くんが迷惑することもないだろうね」
「俺ですか?」
「俺のこと知ってる人いないじゃない」
「つーか、俺ら以外に人類がいないでしょうそれは」
 別に地球から飛び出さなくたって、日本国内でも充分そんな場所は探せると思う。いや、この人のことだから変なところに顔と名前が知られている可能性もあるのか。駅伝に出てたわけだし、それ以外にも何かやっていそうだ。
 今日の中戸さんは普段以上に何を考えているのかわからない。長い旅路の向こうからやってきた光を探すように遠くへ視線を投げる、まるで子供のような横顔を見ながら、言葉を探し探し言った。
「まあ……中戸さんに惚れた人たちがつっかかってきたりすんのはちょっと疲れますけど、俺、基本的には迷惑とか思わないですよ。むしろ俺のせいで中戸さんに迷惑かかるほうがイヤっつうか」
「俊平くんのせい? ないよ、ないない」
「そうですか? ならいいんですけど、まあ、とにかくそんな感じです」
 うまくまとまらなくなって、最後は適当に濁した。どんな感じだよ、と俺の脳内で有川がツッコんでくる。うっせ。
「俊平くんは優しいなあ」
「んなことないです」
「優しいよ。一光年先まで一緒に行ってくれるんでしょ」
「ええ?」
 何をどうしたらそうなるんだ、というツッコミが思い切り顔に出ていたのだろう。ふふっと笑って、ら、と言った。
「ら?」
「俺ら以外に、って言ったじゃない」
 指摘されて初めて、自分の発言に気づいた。うわあナチュラルに俺らっつってた。つうか行く気満々か俺。疲れてる時って怖ろしいなホント。
「やー……まあ、中戸さんがいなくなったら色々困りますし、お供しますよ。一光年先だろうが一万光年先だろうが宇宙の果てだろうが」
 半ばヤケになってそう答えると、中戸さんがふきだした。余程ハマったらしく、肩を震わせてくっくっと笑っている。
「なんかプロポーズっぽいよ、それ」
「何言ってんすか」
 駄目だ、酒ものんでないのにドツボにはまっていっている。今日は疲れているからだろう、何を言っても墓穴を掘ってしまうらしい。もう黙っとこう。
 ひとしきり笑ってから、涙をぬぐって(笑いすぎです中戸さん)ぽつりと言った。
「でも、ありがと」
「……どういたしまして」
「宇宙の果てまでよろしくね」
 からかうような声だったのに、それはそれは楽しそうににっこり笑って言われたせいか、軽口すら返せなかった。
 それどころか、ああこの笑顔が見られるなら宇宙の果てまでついていくのも悪くないかもしれない、なんてあほくさいことを一瞬本気で考えてしまったのも、たぶん、疲れのせいだろう。










inserted by FC2 system