暮れゆく

 等間隔に並んだ机と椅子。それらを西日が照らす中、窓際に立っていた彼がゆっくりと振り向いた。日に焼けた髪が、暮れかけの光を受けてオレンジに輝く。
「珍しいな。早瀬が俺に話があるなんて。何だよ?」
 逆光で表情は見えない。でも、奴の眼が、不思議そうな視線を俺に送っているのは感じた。穏やかで、けれどいつもどこか遠くを見つめているような、黒目勝ちな瞳。
「グンジ、おまえ陸上やめるのか!?」
「やめるって……俺らとっくに引退してるじゃん」
 詰め寄るように机の合間を縫って近寄った俺に、グンジは今更何を言っているのかとでも言いたげ反応をする。
「今のことじゃない!」
「筋肉推薦蹴ったこと?」
「それだけじゃなくて、おまえ、陸上部のない大学志望してるって……」
「あ、あそこ陸上部ないのか」
「知らなかったのかよ!?」
 我が校のマイケル・ジョンソンは、軽い調子で頷いた。
 






 うちの高校は陸上部にかなり力を入れている。公立なのに、顧問が中学までスカウトしに行くほどだ。積雪の多い(またはそこを通らなければ登校できない)地域に住む生徒用に設けられている寮にも、陸上部員なら優先的に入れる。しかし、それは長距離に関してだけで、短距離の選手層は決して厚くない。グンジは高校から陸上を始めたという、うちの学校にしては異例の生徒で、当然、短距離を専攻していた。全国高校駅伝の常連校であるうちの陸上部には、長距離を走る優秀な学生は腐るほどいたからだ。
 奴はずぶの素人だったが、素質はあったらしい。最初は二百メートルのみを専門としていたのだが、遊びで計った四百が思わぬ好タイムを叩き出し、二年の頭にあったインターハイの地区予選では、両方の種目に出場するまでになっていた。といっても、これは、その年にたまたま四百を希望する奴がいなくて、グンジが四百を走れという命令を断り切れなかったからなのだが。そんな経緯はともかく、そこで先輩たちに付けられた異名が、S高のマイケル・ジョンソン。これは脚の速さのせいよりも、陸上をする奴には珍しく、二百と四百の両方を専門としたことに起因する。実際、奴は、自己ベストは更新したものの、予選ではあっさり敗退したのだ。
 だが、奴の脚のすごいところは、短距離に関してはではない。グンジは地区予選後、急に顧問に長距離への転向を言い渡され、これまた断ることができなくて、ころりと転向。腐るほどいる中学からのベテラン(と言っていいのかどうかは謎だが)長距離ランナーを差し置いて、駅伝の選手として抜擢された。当然の如く、他の部員からはブーイングが出たが、この年も出場できた全国高校駅伝大会で二区の区間賞を獲ってしまってからは、誰も何も言わなくなった。
 ちなみに、俺は差し置かれた長距離ランナーの一人である。
 






 長距離は短距離と違い、才能がなくても努力である程度は伸びると言われている。が、こんな短期間に出し抜かれるように追い越された俺は、当たり前のように奴を敵視するようになった。今もそんなに大柄ではないが、入学当時はもっとずっと小柄で女みたいだったグンジに、中学から陸上をやっていた俺が抜かれるなんて考えてもみなかったのだ。
 強い嫉妬と羨望。
 奴とは三年間同じクラスだったが、次第に俺は、グンジを避けるようになった。俺の気持ちを察したのか、グンジも敢えて話しかけてこようとはしなかった。そうして、一年の時には教室でもクラブでもべったりつるんでいた俺たちは、二年の半ばには目も合わさなくなった。
 正直に言うと、グンジに対する妬みや憎しみは、駅伝大会の奴の走りを見て霧散していた。あまりに綺麗で、見ているだけで風を感じるほど気持ちよくて、自分のやっかみをとても卑小に、そして恥ずかしく感じた。
 他の奴らも似たような感想を持ったのだろう。大会後、ほとんど友人のいなくなっていたグンジの周囲は、少しずつ以前の活気を取り戻していった。
 でも、俺は他の奴らと違って、それですぐ以前のような関係に戻るなんてことはできなかった。戻るには、以前の俺たちは少し親密になりすぎていたのかもしれない。
 陸上の『り』の字も知らず、どこかふらふらしていて危なっかしい上、一見女のようなグンジを、俺は高校で最初の友達として、一年以上世話をしてきたという自負があった。チビで素人のグンジを馬鹿にする陸上仲間との仲を取り持ったり、意外にもてるグンジにふて腐れる彼女をとりなしてやったりしたこともある(生意気にも、グンジは俺より先に女をつくりやがった)。合宿の帰り、何故か家に帰りたくないと言い出した奴を、寮にこっそり泊めてやったことだって、一回や二回じゃない。
 そんな俺と出場枠を取り合うことになる種目への変更を、グンジはあっさり受け入れた。俺に一言の相談もなく。俺にはそれが、何より許せなかったのかもしれない。
 






 陽が傾いていく中、俺はグンジに詰め寄った。出会った頃よりもぐっと高くなった目線はしかし、まだ俺よりも下にある。
「なんで!? なんで陸上やめんだよ? ダチが離れてくのが分かってても、おまえ走るのやめなかったじゃん! 彼女と別れても、他の何を捨てても、走るのだけは続けてきたんだろ!」
 親友の俺を捨てても。
「おまえだったら、出雲だって全日本だって箱根だって夢じゃねーじゃん!」
「早瀬には関係ねーだろ」
 俺を見上げるグンジの眼は、やはりどこか遠くを見つめているようだった。俺を見ているようで見ていない。俺の叫びなんて、枝毛の先ほども届いちゃいない。そう告げているような眼だ。
 俺は怒りと焦燥に駆られて、薄っすらと筋肉のついた肩を押し倒した。派手な音をたてて、列をなしていた机が統制を乱す。
「関係なくない! 俺を捨てて走り続けたくせに、そんなあっさりやめられてたまるか!」
 机に押さえつけられたグンジは、それでも眼差しに動揺を過らせはしなかった。立って向かい合っていた時と変わらない、何もかもを透過させているような、感情の見えない眼で、俺を見上げている。
 薄紫に沈んでいく教室の中で、やや乱れた奴の開襟シャツだけが、やたら白く見えた。
 






 あれは、俺たちが二年に上がったばかりの頃だったか。先輩たちがおかしな話をしていたことがある。
「グンジってさぁ、時々なんか色っぽいんだよなぁ」
 部室でボソッと洩らされた副部長の言葉に、部屋の隅で着替えていた俺はギョッとした。しかし、おいおい副部長って……と思ったのは俺だけのようで、他の先輩たちまで同調して盛り上がり始めたのだ。
「あー、たしかにな。部室に入ってあいつが一人で着替えてると、つい謝りそうになる」
「見ちゃいけないもん見たような感じ?」
「そそ。俺、この世に倫理のブタ原とグンジしかいなくなったら、迷わずグンジにはしるわ」
「それ、グンジじゃなくてもブタ原にゃはしんねーだろ」
「えー、デブ専の奴ならブタ原いくっしょ」
「つーか、普通にブタ原女でグンジ男だしな」
 当り前のことなのに、三年生たちは「そーだったそーだった」と失念していたかのように笑い合う。しかし、次にとある先輩が言ったことには、その場にいたみんなが沈黙した。
「ブタ原かグンジかはともかく、俺、あいつ見てると、めちゃくちゃにしたくなることがある」
 先輩の言う『めちゃくちゃ』がどういったことを意味するのか、室内に流れた異様な沈黙が物語っていた。他の先輩たちに、同じような経験があることも。
 まだグンジとつるんでいたその頃の俺は、部室から誰もいなくなるまで、ロッカーの影に隠れていた。影に隠れて震えていた。怖かったのだ。先輩も。そして、自分も。
 グンジは一番仲のいいダチで、でもどこかで守ってやんなきゃなんない存在だと思っていた。グンジは決して自分から助けを請うようなことはしなかったし、いつもにこにこ笑っていたけど、その笑顔は時々痛々しく見えたから。
 だけど、守ってきたその存在を壊したいと思ったことは、たしかに俺にもあったのだ。
 あの、時々感情の追いついていない笑顔をぶっ壊して、思い切り泣かせてみたい。ギリギリまで追いつめて、声の限り俺に助けを求める姿を見てみたい。
 俺は自分の中にある衝動を、その時初めて自覚した。
 






 めちゃくちゃにしたい。
 静かに、しかし、感情などないかのように見上げてくる瞳に、本気でそう思う。
 高校在学中に三人もの女と付き合って、とっくに筆おろしも済ませているだろうに、何も知らない無垢な子供みたいな顔をしているこいつを。俺がいくら望んでも手に入らないものを、俺を捨ててまで手に入れたものを、あっさり捨て去ろうとしているこいつを。
 もうギリギリで止めるなんて余裕はない。俺の手で、一生這い上がって来られないようなところまで、汚して、堕としてしまいたい。
 憎しみからでも絶望からでもいい。この瞳が、きっちりと俺を映すように。
「また捨てるのかよ!? 二度も俺を捨てるのかよ!」
 何とか言えよ! とグンジの頭の横あたりに拳を叩きつける。奴が怯えた様子はまったくもってなかったが、表情は、少しだけ悲しげに歪んだ。
「……捨ててない」
 低い声が、机から昇ってくる。
 グンジは机に肩をおしつけている俺の手首を、自由になった方の手でそっと掴むと、静かな声音で続けた。
「行きたい大学に、たまたま陸上部がなかっただけだ。走るのは気持ち良かったけど、別にクラブに入らなくても走れるし」
「ツレ失くしても続けてきたのに!?」
「そうだな。もう失くしたくないから、陸上はやめる」
「そんなっ、」
 そんな理屈が通るかと怒鳴りつけようとしたところで、掴まれていた手首が悲鳴をあげた。容赦のない力で、奴の肩から手を外される。入学時よりはるかに筋肉がついたとはいえ、俺よりも細いこの腕に、簡単に動かされたことに驚愕した。
 最後の足掻きを見せる太陽の残滓を浴びながら、グンジがゆっくりと身体を起こす。
「失くしたくないから、早瀬とこれ以上感情的な話もしたくない」
「なっ、どういう意味だよ!?」
「そのままの意味だよ」
 グンジは一瞬だけ射抜くような視線を俺に寄越し、すいと立ち去ろうとした。
「ちょっ、待てよ」
 視線の意味を知りたくて肩を掴む。今日初めて、きっちりと俺を見据えた瞳。解れよとでも言うような、言い聞かせるような眼差し。その意味を。
「話はまだ終わってない! 俺は……」
 無理やり振り向かせたグンジは、まるで俺の口を封じるかのように微笑んだ。いつも傍にあった、穏やかで人懐っこい笑みで。
「早瀬は箱根目指してN体大受けるんだよな? 頑張れよ。俺、応援してる」
 その笑顔に痛々しいところはどこにもなく、俺は、自然と掴んだ肩から手を離していた。
「あ、やべ、もうバス来るわ。早瀬、じゃな」
 すっかり暗くなった教室を、白い背中が走り出ていく。短距離と長距離、どちらも経験している奴の走りは、ストライドとピッチの境界にあるように見える。抜かれた俺たちが馬鹿にしたその歩幅を、顧問はバランスが取れていると評した。
 危なっかしく見えるだけで、あいつは、人に守られるような必要なんてなかったのかもしれない。
 ――話はまだ終わってない! 俺は……
 あの後、俺は何と言おうとしたのだろう。
 列からはみ出してしまった机を直しながら考えてみたが、脳みそ筋肉の俺の頭に、答えなど浮かんではこなかった。
 






 あれからグンジは、第一志望だった国立大学を蹴って、二流の私立大学へと進学した。なんでそんな勿体ないことするんだよと問い詰めると、奴はにへーと笑って、
「学費がタダになったから」
 うちの高校には、成績を貼り出すという習慣がないので分からなかったが、どうやらグンジは勉強もできたらしい。国立にも合格はしたが、私立へは首席で合格できたから、学費が免除になったのだと、俺の前でだけ小躍りしていた。
 今から考えてみると、グンジにはもともと執着心というものがなかったのかもしれない。
 俺はといえば、どうにか第一志望の大学に滑り込み、箱根駅伝出走を目標に、特訓と酒宴の日々を送っている(体育会系って、なんであんなに飲むんだろう)。友人の紹介で、嬉しはずかし初めての彼女もできた。彼女は、自分の女だというだけでとても可愛くて、大切にしなければと思う反面、ふいに壊してしまいたくなることがある。丹精込めて育てた可憐な花を、手折って踏みつけてしまいたくなるような、そんな衝動。
 そんな時、決まってグンジに対するあの衝動を思い出す。
 彼女に対するこの矛盾した気持ちを恋と呼ぶのなら、あの頃奴に感じた衝動の源はひょっとして、妬みでも怒りでもなく――。
 





 






 

inserted by FC2 system