解けゆく

 朝のバス停は、なんとなくわくわくする。雨でも晴れでも、どこか明るい雰囲気に満ちているような気がするのだ。朝の清潔な空気がそう見せるのだろうか。一年の俺にはまだ経験がないが、連日屋根から氷柱が垂れ下がるような真冬にだって、朝のバス停は心を浮き立たせてくれるんじゃないかと思う。
 逆に、夕方のバス停は、どこか寂しくて物悲しい。陽が長い夏の日の、まだ明るいバス停だって、部活が終わって前を通る時には、胸に重いものが落ちてくる気がする。バスなんて停まっていたら、それはより一層重くなる。
 理由なんて分からない。俺は学校のすぐ近くで寮生活をしているから、自宅生に置いて帰られる気がして寂しいのだろうと指摘されたこともあるが、俺は決してホームシックになんてかかったことはないし、実家よりも寮の方が、ツレがたくさんいて楽しいと思う。
 それでも今、街灯の灯り始めたバス停にいることがまったく苦ではないのは、これから実家に帰るせいかも知れず、明日の部活が休みになったせいかもしれず、今日は自宅生の友人が泊まりに来るせいかもしれなかった。






 うちに泊まりに来るグンジと連れ立ってバスに乗り込むと、ひとつ前のバス停にある女子高の生徒が手を振ってきた。俺たちの方を見る瞳が輝いて見えるのは、たぶん気のせいじゃない。正確には、俺たちではなく、俺の前を行くグンジ一人を見てだろうが。
「グンジくんもこのバスだったんだね。今日は早瀬くんも一緒なんだ?」
「うん。明日は部活休みだから、早瀬も実家帰るんだって」
 明らかに弾んだ声を出す彼女に、グンジもにこやかに答える。二人は恋人同士なのだ。
「せっかくグンジと二人でバスに乗れるところだったのに、邪魔して悪いね、知佳ちゃん」
「邪魔だなんてことないよー」
 知佳ちゃんはそう言ったが、グンジと二人でバスに乗れることを期待していたに違いなかった。帰宅部の彼女がこんな時間にひとりで帰っているということは、俺たちの部活が終わるのに合わせたとしか思えない。
 俺は、知佳ちゃんの前の席に座ろうとしていたグンジの頭を掴んで、それとなく奥の方へと押しやった。チビのグンジは、上目遣いで俺を睨んできたが、俺が顎で知佳ちゃんの隣を示すと、照れるでもなくそこに腰掛けた。お節介かとも思ったが、腰を下ろした時のグンジはもう上機嫌になってにこにこしていたし、知佳ちゃんも嬉しそうだったから、これで良かったのだろう。それに、グンジは女心に疎いから、俺が気を回してやらなければ、すぐに振られそうな気がする。
「早瀬くんの実家ってどこなの?」
 木々の影しか見えない真っ暗な車窓を眺めていると、知佳ちゃんに問いかけられた。
「市内だよ。端っこだけど。ほぼ県境」
 振り向いて町名を答えると、知佳ちゃんは大きな瞳を零れそうなくらい見開いて、遠いんだねと言った。すかさずグンジが突っ込みを入れる。
「遠いから寮暮らししてんだよ、早瀬は」
「あ、そうだよね」
 そしてグンジは子供みたいに、知佳ちゃんははにかんだように笑い合った。
 知佳ちゃんとグンジが一緒にいると、妹が欲しがっているスーパードルフィーとかいう人形が並んでいるみたいだ。知佳ちゃんは色白で、グンジは日に焼けているが、二人とも瞳が大きく線が細い。そして小さい。妹の話によると、あの人形たちの顔にはそれぞれ個性があり、性別もあるらしいのだが、俺には一様に同じに見える。
「グンジくん、今日はいつもより楽しそうだね」
「そう?」
「うん」
「そういえば俺、行きのバスは好きだけど、帰りのバスって嫌いなんだよね。でも、今日は楽しい」
「そりゃ、朝のバスは知佳ちゃんに会えるけど、帰りは会えないからだろ。そんで今日は、帰りのバスでも知佳ちゃんに会えたから嫌じゃなくなったんだろ」
「あ、そっか。そうかも。早瀬、よく分かるな」
 俺はからかうつもりで言ったのに、グンジは真顔で感心している。真顔でノロケてんじゃねーよと、頭の一つも叩いてやろうと思ったが、知佳ちゃんが白皙を上気させてうつむいたので、やめておいた。グンジに惚気たつもりはないだろう。俺が叩けば、やたらと冷静に「別に惚気てないけど」なんて言うに決まってる。
 グンジはチビでガリで女みたいな顔をしているくせに、なぜか女にモテる。時々下駄箱に古風なものが入っているし、知佳ちゃんがいると分かっているのに、バス停で告って来た女子もいる。曰く、カワイイのだそうだ。たしかにグンジの顔は、女みたいだけど整ってはいる。でもそれって、妹が人形を愛でるのと変わらないように思っていたのだが。
「はいはい、ごちそーさん」
 俺は、頭を叩こうと出しかけていた手をひらひらと振って、座席に座りなおした。俺たちの学校は山の中にあるのだが、だいぶ下って来ていたらしい。窓に頭をもたせ掛けると、木々ばかりの暗闇だった車窓は、少々遠くとも民家の明かりを映し始めていた。しかし、夜気に冷えて来た窓から頭に伝わる振動は、小さいながらもしつこく頭蓋骨を攻撃してくるので、俺は頭痛がする前にと頭を離した。
 後ろから、二人の話す声が聞こえてくる。グンジは明日の休みのことを知佳ちゃんに話していなかったのか、彼女は、部活が休みになったのなら遊びに行かないかと提案していた。俺たちの所属している陸上部は、平日休日問わずほとんど休みがない。ゆえに、二人は休日のデートとは無縁のようだった。朝練のあるグンジに知佳ちゃんが合わせて登校することで毎朝顔は合わせているようだが、同様の理由から下校時間を合わせるのは難しく、放課後デートも数えるほどしかしていないらしい。
「今日、帰りに会えて良かったぁ。会えなかったら、明日休みだなんて知らなかったもん」
 知佳ちゃんの声ははずんでいる。
「付き合い始めてから、初だよね。グンジくんの部活が休みになるの」
「あ、うん。そうなんだけど」
 グンジは歯切れ悪く言葉を切り、心底申し訳なさそうに謝った。
「ごめん。明日はダメなんだ。これから早瀬んちに泊まりに行くことになってるから」
「そう……なの。約束があるんなら、仕方ないよね」
 悲しげな知佳ちゃんの声を、俺は寝たふりをしてやり過ごした。会話を聞いていたことが分かったら、デートを優先させてやらないわけにはいかなくなる。いつもベッタリくっついているようなカップルならともかく、二人は休日デートすらしたことがないのだ。でも俺だって、高校の友人が実家に泊まりに来るのなんて初めてで、それなりに楽しみにしていた。うざったくもあるが、家族だって布団や食事の用意をして待っている。
「本当にごめんね」
「ううん。実は私も、友達に買い物に誘われてるから。今度休みがあったら、早めに教えてね」
「ん、」
 気丈に微笑んでいるだろう知佳ちゃんの顔を想像して、俺はグンジに腹が立った。そうだ、おまえがとっとと知佳ちゃんに休みのことを言っていれば、こんなことにはならなかったんじゃないか。
 部活の休みが決まったのは、もう一週間以上前のことだ。それから毎日のように、久しぶりの休みに何をするか、どこへ行くかとはしゃぐ仲間たちの中で、グンジ一人元気がなかった。いつもどおり笑っているのに、どこか物憂げな印象を受けた俺が理由を訊くと、奴は情けなさそうに苦笑したものだ。
「俺、休みの予定ないんだよね。母親たちはその日出かけるから、家で留守番かぁと思うと、なんか憂鬱で」
「そんなら俺んち泊まりに来るか? 俺、前日から実家帰るから。徹夜でウイイレやろうぜ」
「いいのか!?」
 何気ない俺の誘いは、薄暗かった部室に朝陽が差し込んできたかのような笑顔を、グンジから引き出した。だから俺は、グンジはとっくに知佳ちゃんに休みのことを話し、見事に振られたのだと推察していたのだが、そういうことではなかったらしい。知佳ちゃんなら、先約があってもグンジを優先しそうだ。
 普通なら、真っ先に伝えたい相手のはずなのに、どうしてこいつは言っていなかったのだろう。家にいるのが憂鬱だったなら、尚更。まさか、俺が邪魔をした? 俺が誘ったりしなければ、あれから今日までの間に、グンジは知佳ちゃんに声を掛けられたのだろうか。でもあの時、グンジは暗闇から引き揚げられたかのように、微笑んだのだ。救われたとでも言わんばかりに。
 狸寝入りをしながら悶々と考えている間に、俺は本格的に寝入っていたらしい。気づけば知佳ちゃんはすでに降車しており、グンジが隣に座っていた。どこか締まりのない顔をして、震動に揺られている。
 俺はうつむいて寝ていたのだが、顔を上げた気配がしたらしい。グンジは、「起きたのか」とこちらを見上げてきた。
「何にやにやしてんだよ。知佳ちゃんのことでも思いだしてんのか?」
 俺は両腕を上に伸ばして伸びをすると、そのまま肘で奴の頭を小突いてやった。
「や、俺、今日帰りのバスが憂鬱じゃなかったのって、知佳ちゃんいるからかと思ったけど、そうじゃなかったみたい」
「そうじゃなかったって?」
「んー、やっぱそれもあるかもしれないけど、知佳ちゃんが降りてった今も、なんか楽しいんだよね。たぶん今日は、早瀬ん家に泊まりに行くから楽しい気分でいれんだと思う」
 そう言って微笑んだグンジは、女子が騒ぐのも仕方ないと思えるほど魅惑的だった。妹がこんな人形を欲しがるのも、当然と言えなくはないかもしれない。
 でも、こいつがモテる理由は、きっと顔だけじゃない。こいつがモテる本当の理由。それは。
「早瀬ってホントいい奴だよな。誘ってくれてすげー嬉しかった。ありがとな」
 こういうことを臆面もなくさらりと言ってのけるところかもしれない。
「急に何言ってんだよ。アホか、おまえは」
 俺は、知佳ちゃん並みに上気していそうな顔を見られないように奴の頭を上から押さえつけながら、グンジが寮に泊まりに来た時も、バス停の前を通っても寂寥感を覚えなかったことを思い出していた。










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