秘めゆく

 「いらないなら交換しろよ! その脚と俺の脚、取り換えてくれよ!!」
 悲痛な声で義成が叫ぶ。まるで追い詰められているかのように。しかし、実際に壁際に封じ込められ、首を絞められているのはグンジだった。
 だから今日はグンジを寮に泊めたくなかったんだ。
 黙って首を絞められているグンジの顔色が変わってきている。義成の気が済むのを待とうかと思っていたが、そろそろ限界だろう。俺はため息をひとつ吐いて、義成の肩を掴んだ。
「もう止めとけ。冗談じゃ済まなくなるぞ」
「でも……!」
「おまえの気持ちは解るから。俺もこの前、同じようなことやったし」
 諭すように声をかけると、義成は信じられないというように振り向いた。首を絞めていた手の力が緩んだのか、グンジが前のめりになってせき込む。
「早瀬が……? だっておまえ、グンジが陸上やめるから仲直りする気になったんじゃ……」
「あのなぁ! 俺、そこまで心狭くねーぞ!」
 グンジと疎遠になったのは、高校生活のほとんどを賭けていた陸上で負けたからだが、また話すようになったのは、奴が陸上をやめると言ったからでは決してない。そのことについて問い詰めたのが友人関係の復活につながったのだから、きっかけはそれだったかもしれないが。それを、そんな風に取られていたとは心外だ。
「俺だってグンジには陸上続けてほしかったし、今でも続けてほしいと思ってるよ! 悔しいのは自分だけだなんて思うな!」
 今度は俺の頭に血が昇って、気がつけば義成の胸倉を掴み上げていた。その腕を弱々しく引っ張るものがある。怒りの形相のままそちらを見ると、首に指の形を浮かび上がらせたグンジだった。
「早瀬、斧か何かあったら持ってきて。いいよ、義成。交換しようぜ」






 俺が、グンジの第一志望が陸上部のない大学であると知ったのは、つい一週間ほど前のことだ。全国高校駅伝で区間賞まで獲り、あちこちからスカウトの話も来ていたはずなのに、彼はそれをすべて蹴って、一般入試で陸上のない大学を受けるという。将来脚で食べていけるとは思えないから、という奴の理由は頭では理解できるものだったが、心はそれを拒絶した。その結果、俺はその日のうちに、自分にも納得できる理由を求めてグンジを呼び出した。
「なんで!? なんで陸上やめんだよ? ダチが離れてくのが分かってても、おまえ走るのやめなかったじゃん! 彼女と別れても、他の何を捨てても、走るのだけは続けてきたんだろ!」
 結局、納得できる理由なんて得られなかったけれど、自分の気持ちをぶつけたことで、俺はある程度満足できたらしい。
 高校に入ってから陸上を始めたグンジは、ある程度の才能を持っていたのだろう。最初短距離を専攻していたのが二年の途中で長距離に転向し、あっという間に俺たち同学年の長距離選手を追い越した。その頃から気まずくなり、一言も言葉を交わさなくなっていた俺たちだったが、あの日を境に、すっかり元通りツルむようになった。一年近くも互いにそっぽを向いていたのが嘘のようだ。
 それで今日、久しぶりに、グンジが寮住まいの俺の部屋に泊まりたいと言ってきたのだが。
「うちの寮に陸上部員だった奴何人いると思ってんだよ? おまえがスカウト蹴ったの快く思ってない奴いっぱいいるんだぜ。しばらくはやめた方がいいって」
 俺は一度、忠告の意味も込めて断った。俺はそんなに優秀な選手ではなかったため、入っている寮は陸上部専用というわけではなかったが、陸上部員が多数いるのは確かだ。グンジが陸上をやめるという話が広まりつつある今、寮の中は嫉妬と悔しさ、そして憎しみで充満している。いくら努力してもなかなか手に入らないものを持った憧れの存在が、ひょいとそれをポイ捨てしたのだ。たとえそれが、俺たちの勝手な憧憬だったとしても、裏切られたと感じている者は少なくない。
 しかしグンジは、それを承知の上で、泊まりたいと言ってきたらしかった。
「俺のこと殴りたいって人には大人しく殴られるから。……って言っても、やっぱ駄目かな」
 いいわけねーだろ!
 そう言おうとして止めたのは、グンジの家庭の事情を思い出したからだ。
 グンジは幼い頃に実の両親を亡くしていて、親戚の家に厄介になっている。親戚といっても実の子も同然に育ててもらっているようだが、おばさん側の肉親には受け入れられていないようなのだ。そのせいか気づまりになることがあるらしく、親しくしていた一年生の頃などは、よく俺の部屋に泊まっていた。
「しょーがねーな。飯はコンビニで買って帰ろう。食堂なんか行けないからな。着いたら部屋から出るんじゃねーぞ。トイレは仕方ないとして、風呂は我慢しろ。いいな」
 そう条件を出して連れ帰ったのだが、俺の入浴中に訪ねて来た義成に見つかり、締め上げを喰らったようだ。誰か来たら隠れろと口を酸っぱくして言い聞かせていたのに、グンジはうたた寝をしていたらしい。






 沈黙が部屋を支配した。俺は義成から手を放し、義成はその場に座り込む。グンジはその間も、感情の見えない瞳でじっと俺を見ていた。
 何考えてんだ、こいつ。
 俺は容赦なくグンジのつむじに拳を振りおろした。
「っだー! 受験生なのに、馬鹿になったらどーしてくれんだよ!」
「馬鹿野郎! 脚切断すんだったら、これどこじゃねーぞ! だいたいおまえ、殴りたい奴には大人しく殴られてもいいって言っただろ! 俺だってずっと殴りたかったんだ!」
 義成、おまえも殴っとけ!
 そう言ってへたり込んでいた義成を引っ張り立たせると、彼は静かに泣いていた。悔しそうに顔をゆがめ、音もなく涙を流して泣いていた。
「思ってもないこと言うんじゃねーよ! どうせできないからって、軽々しく交換してやるなんて言うな! 人を馬鹿にするのも大概にしろよ!」
 義成は、喘ぐように叫んでグンジに殴りかかった。義成の苛立ちを代弁するような右ストレートが、グンジの左頬に入った。グンジは頬を押さえて、肩で息をしている義成を真っ直ぐに見つめた。右手を伸ばし、義成の頬を伝う涙を拭う。
「馬鹿になんかしてない」
 静かな声音だった。義成の涙のように静かに流れる声だった。
「俺は、義成みたいに走りたかったんだ。最初に会った時、先輩にカツアゲされそうになって逃げた義成見て、あんなふうに走りたいってずっと思ってた。あんなふうに逃げられたらって思って陸上部に入ったんだ。だから、交換してもいいと思った」
「うそつけよ。俺よりずっと速く走れるようになったくせに!」
「嘘じゃない。俺の脚じゃだめなんだ。いくら速くなっても、この脚じゃ一番逃げ出したい時に走り出せない。足が竦んで動けなくなる。肝心なところで役に立たない」
「区間賞獲れたじゃないか」
「それはそうだけど。俺が欲しかったのは、もっと違うものだから」
 グンジは右手を下ろして目を伏せた。長い睫毛が頬に影を落とす。
 義成は子どものように顔を覆ってかぶりを振った。
「分かんねーよ! 全然わかんねーよ!」
 分からないと繰り返しながら、床にくず折れる。
「ごめん。けど、本当に憧れてたんだ。義成の脚に。でも、やっぱり交換なんて無理だもんな。俺は脚じゃなく、他の手段でそれを手に入れる。馬鹿なこと言ってごめんな」
 それは謝罪であり、訣別の言葉でもあった。グンジがどこまで本気で義成の走りに憧れていたと言ったのかは分からない。しかし、この先はもう、彼のようになりたいとは思わないと宣言したのだ。陸上とともに、義成への憧れも断ち切ると。
 俺は、床にうずくまる義成を促して、彼の部屋へ連れて行った。ここはグンジに出て行けと言うべきところかと思ったが、最終バスも出てしまい、他の寮生にも反感を買っていそうな今、俺の部屋から追い出すわけにもいかなかった。






 義成の部屋は、明かりが点いたままだった。勉強をしている途中だったらしく、英語のノートと参考書が開いたままになっている。床に落ちていた赤本は、駅伝で有名な大学のものだった。
 俺はパイプベッドに義成を座らせた。
「悪かったな。早瀬の部屋で揉め事起こして」
「いいよ。他に誰も来なかったし、こんな時にあいつ泊めてる俺も悪いし。でも、流血沙汰なら自分の部屋でやってくれよな」
 肩をたたいてニッと笑うと、義成も弱々しい笑顔を見せた。
「俺な、拠り所だったんだ、グンジの陸上始めた理由が自分だってのが」
「え?」
「さっきグンジが言ってたこと、前にも聞いたことあるんだ。二年のインハイの前、あいつほとんど誰にも口きいてもらえなくなってたじゃん。あの時、こんな状態でも何でクラブ辞めないのかって訊いたら、俺みたいに走りたいからだって」
 高校入学当時、グンジはチビで、義成はヒョロヒョロだった。そんな二人は、初めて二人で購買に行った時、三年の先輩にカツアゲされそうになったのだそうだ。凶悪だと有名な先輩だったが、相手は一人でこちらは二人。そこで義成は、先輩の気がグンジ一人に集中した瞬間を突いて逃げ出した。もちろん、すぐに助けを呼んで引き返すつもりだった。しかし、相手が分かると教師までもが助けに行くのを尻込みした。友達を見捨ててしまったことに半分泣きそうになりながら現場に戻ると、グンジは目を輝かせたそうだ。
「義成ってすごいな! あんなふうに走れるなんてすげーよ! 俺も陸上やりたい!」
 髪はボサボサ、ネクタイはよれよれ、ワイシャツの第二ボタンまでは行方不明。その上、口の端に血を滲ませていたにも関わらず、グンジは四葉のクローバーか流れ星でも見つけた子供みたいに、頬を興奮気味に上気させていた。
「あの時の俺の走りが忘れられないからだって、グンジは言った。俺なんか、インハイの予選にすら出られなかったのにだぜ? 一瞬、馬鹿にしてんのかってカッときたけど、あの時のキラキラしたグンジの目思い出したら、何も言えなくなった。咎められてもおかしくない状況だったのに、あいつは本気で感動してくれてたから」
 ――タイムじゃないんだ。あの時の義成みたいに走りたいんだ。
 そう言ったグンジの目は輝いてはいなかったが、とても真剣な光を持っていた。
 それを聞いてから、義成はグンジの活躍が自分のことのように嬉しいと思うようになった。義成自身、高一の時がピークで、その後いくら走り込んでも自己記録を更新できない状態だっただけに、余計グンジのことを励みにするようになったのかもしれない。
 それなのに今、グンジは義成を理由に始めた陸上をやめようとしている。自分の限界を知ってなお、陸上から離れ切れない義成を置いて。
「引いたか?」
 義成は下に垂らしていた脚を上げ、ベッドの上に胡坐をかいて言った。ハーフパンツから覗く脚には、ほとんど毛がない。毎日のトレーニングにより、ジャージとの摩擦で体毛が擦り切れてしまうためだ。義成の脚を見て、努力が足りないからタイムが伸びないのだと言える人間はまずいないだろう。それは同時に、彼にとって酷すぎる事実を表すことでもある。
「引かねーよ。俺だって、区間賞獲るような奴に、あなたの走りに憧れて陸上始めましたなんて言われたら、誇らしいだろうと思うもん。拠り所どころか、自慢にするよ」
 不安げな義成にもう一度笑いかけると、彼はバツが悪そうに額に手を当てた。
「悪い。さっき俺、本当は早瀬に文句言いに行ったんだ。グンジが陸上やめんの、早瀬のせいかと思って」
「俺?」
「おまえらが話さなくなったのって、グンジが長距離に抜擢されたせいだろ? グンジの奴、早瀬と仲直りしたいから陸上やめるのかと……」
「それなら普通、引退前にやめてるだろ。それに俺ら、別に喧嘩してたわけじゃねーし」
 グンジはどうだったのか知らないが、俺はただ、怒りや嫉みが消えても、話しかけるきっかけが掴めなかっただけだ。
「でも、グンジが陸上切るって分かってからじゃん? 早瀬と昔みたいに話すようになったのって。なんか悔しかったんだ。陸上始めた理由が俺で、やめる理由が早瀬なら、俺は早瀬のために切られたんじゃないかって」
「義成、おまえ……」
「気持ち悪いよな。自分でもそう思う。罵ってくれていいよ。でも、グンジにだけは言わないでくれ」
 俺は、分かったとだけ言って部屋を出た。罵る気も蔑む気も起きなかった。起きるはずがなかった。
 この三年間、義成にとってグンジは、走ることの象徴であり、意味だったのだろう。尊敬してくれる友人として。立場が変わってからは、挫折してなお、焦がれて止まない才能の具現化として。
 追われる側から追う側へ。それは、俺にも言えることだった。
 グンジの走りは、時に残酷すぎる夢を俺たちに見せる。なまじ触れられる位置にいるだけに、頑張れば届くのではないかという錯覚に陥らせるのだ。グンジに気取ったところがない分、現実を知った時の傷はよけいに深くなるにも関わらず、俺たちはまんまと引っ掛かる。そして思い知らされる。たとえ触れても、届くことはないということに。






 自室に戻ると、グンジが英語の問題集から顔を上げた。
「義成、落ち着いた?」
「ああ。ったく、冗談でもやめてくれよな。人の部屋で脚切断するとか言うの」
「ごめん。冗談のつもりはなかったんだけど。って、それじゃ、よけい悪いか」
 片膝を立てて頭をかくグンジの太ももも、脱毛した女の子の脚みたいにツルツルだ。頭髪を除く体毛はすべて男性ホルモンが影響しているのだから、睫毛にボリュームのあるこいつの体毛がもとから薄かったはずはない。グンジだって努力していたのだ。義成に負けないくらい。
 俺は、グンジとローテーブルを挟んで向かいに腰をおろした。
「そんなに逃げたいか? 家族から」
「え、ひょっとしてさっき言ったこと? なんで家族だよ? 違うって」
 グンジは一瞬ぎょっとしたが、すぐにヘラリと笑って問題集に視線を落とした。
「じゃあなんで、俺のとこに泊まりに来るんだよ」
「だって、早瀬んとこのが家にいるより楽しいし」
「おまえを最初にここに泊めた時は、楽しそうだから泊めてくれなんて言わなかったよな。そもそも、おまえは泊めてくれなんて言わなかったんだ」
「そうだっけ? もう忘れた」
「おまえはただ、『家に帰りたくない』って、そう言ったんだ」
 まだ知り合って間もない一年の頃、こいつは、悲痛な面持ちでそう呟いたのだ。死の病に侵された人間が、死にたくないと言うように切実に。その表情に若干の色気を感じてしまったのは、当時のグンジがよく女子に間違えられていたせいと、セリフのせいだろう。女の子とのデートの帰りにはにかみながら言われたなら、あらぬ期待をしてしまいそうなセリフだ。しかし、そんなことの積み重ねがあるから、陸上云々を除いても、俺は義成を嗤えない。
「そんなことよく覚えてんな。大きなお世話だろうけど、もっと別のこと覚えてた方がいいんじゃない? ここのスペル違ってる」
 レイニングはing付けるだけでいいのにと、間に二つ並べて書いてあった片ほうのnにシャーペンでバツ印を付ける。よく見るとそれは、俺の問題集だった。
「ああ、大きなお世話だよ。俺の言うことも大きなお世話だろうけどな、こちとら泊めてやってんだ。ちったぁまともに答えろよ」
 俺は問題集をひったくって身を乗り出した。
「そんなにあの家族が嫌いか? そりゃ、血の繋がりがなくて、俺にはわかんねー苦労とかあるんだろーけど、人の脚と交換してまで逃げたいと思うほど嫌いなのか?」
 グンジは長い睫毛を瞬かせて俺を見ていたが、やがて義成に話しかけた時のように静かに答えた。
「……好きだよ。両親も兄貴たちも、みんな好きだよ」
 偏見かもしれない。でも、高三の男子が素直に家族を好きだと言うこと自体が、彼らの関係の歪さを物語っているように、俺には感じられた。
「じゃあ、なんで逃げようとすんだよ? なんで帰りたくないんだよ? そんなの心の問題だろ。誰の脚と交換したって、逃げれるわけねーじゃん」
「分かってるよ! 俺が俺である限り、身体のどこを交換したって同じだってことくらい」
 でも、と呟いてうつむく。
「……好きだから。みんな好きだから、俺は逃げなくちゃいけないんだ」
 意味が分からなかった。グンジがいることで、家の中がギクシャクしてしまっているのだろうか。でも、おじさんやおばさんは、俺の見た限り、グンジをとても大切にしているように見えた。では、兄たちと? 地の繋がらないこいつが大学進学を希望していることを、義兄たちが不快に思っているのだろうか。ひょっとして、陸上をやめるのも何か関係があるのだろうか。
 しかし、逃げなければならないというのは、言い回しとしておかしな気がした。それにグンジは、陸上で成果を出しても逃げられなかったから、他の手段を取ると言ったのだ。その手段とは、陸上に頼らない進学のことであるように、俺には思えた。
 グンジはうつむいたまま何も言わない。疑問は次から次に湧いてくる。それでも、それ以上追及しなかったのは、グンジがあの時と同じ表情をしていたからだった。家に帰りたくないと言った時の、悲愴な表情。グンジはこの二年半でかなり身長も伸び、女子に間違えられることもなくなっていたが、今の彼にも、あの時と同じ色香があった。
 俺はグンジへ伸ばそうと上げかけていた手を、テーブルの下で握り込んだ。
 これ以上は、禁忌だ。
 その判断が正しかったのかどうかは分からない。俺がもっと問い詰めれば、グンジは心を開いて話してくれたのかもしれない。
 でも俺は怖くなったのだ。これ以上踏み込んで、義成のように切られるのが。あの小さな積み重ねが臨界点に達して、彼への気持ちが別の領域に入ってしまうのが。
 いやもう、そんなものはとっくに超えていたのかもしれない。
 義成の邪推したとおりなら、グンジに走り続けてほしいと思っていた俺は、自分の態度を後悔するはずだった。なのに今、そうなら嬉しいのにと思っている自分がいる。
「しょーがねーな。いーよ、いつでも泊まりに来いよ。ただし、流血沙汰はなしにしてくれよな」
「やったー! サンキュ! 早瀬って、やっぱいい奴!」
 ころりと表情を変え、いつものように人懐こい笑みを浮かべる彼を、俺はまともに見ることができなかった。










inserted by FC2 system