最後の朝食

 ダイニングの掃き出し窓から、ぼんやりとした陽が射している。俺は朝食の支度を整えると、昨夜配達してもらったドラセナを玄関からダイニングに移動させた。真夏は直射日光の当たらない玄関の方がいいかもしれないが、今はまだこちらの方がいいだろう。仕上げに、食器棚の奥から出してきたものを土の中に埋める。
「おら、起きろ! メシできてるぞ」
 自分の使っている洋間に戻って、俺のベッドで未だぐーすか寝息を立てている男から布団をはがすと、彼は少し寒そうに身を縮めた。
「……まだ眠い」
「いくら『契約』だからってな、最後くらいきちんと起きて見送ろうという殊勝な心掛けはないのか」
「だから昨夜は一緒にメシも食ったしその後も……。わかった、起きます」
 彼は布団にしがみついてブツブツ言っていたが、急に正気に戻ったように身を起こした。たぶん、ここが自分の部屋でないことに気付いたのだろう。
「十時にここ出るんでしたっけ?」
「ああ、十時過ぎたらおまえは自由だ。だから朝飯くらい付き合え」
「自由、か」
 彼はひとりごちると、端正な顔を見事なまでにゆがませて大あくびをかました。そしてベッドの下に落ちていた文庫本とスウェットのズボンを拾い上げると、穿きもせずに手で持って部屋を出て行った。剥き出しの脚に、いくつも朱印が散っているのも構わずに。
 相変わらず、感情の読めない奴だ。約一年一緒にいたが、何を考えているのかさっぱりわからない。でも、やっと朝まで俺のベッドで熟睡する程度には懐いてきていたのに。そう思うと、ここを出ていくのが惜しくなる。






 ジーンズと長袖のTシャツに着替えてダイニングに出てきた彼は、テーブルの上を見て感嘆した。
「朝からすげぇ。美味しそう」
 マッシュポテトに焼きトマト、グリルしたマッシュルームにカリカリに焼いたベーコン、そして半熟の目玉焼きとソーセージ。寝起きに見ると胸やけしそうな日本人も多いが、彼は違う。細身の割に大きな胃袋を持っているのか、あまり味に頓着しないのか、寝起きだろうが寝る直前だろうが、油っこいものでも気にせず食べる。ただし、その反動からか、丸一日何も食べないこともある。
「いただきます」
 丁寧に両手を合わせて挨拶すると、彼は目の前の大皿を空にしにかかった。別の皿に載せていたトーストを齧りながら言う。
「これって、先輩んちに来て最初に食べた朝食と同じじゃないですか?」
「そうだったか」
「あの時はこれに煮豆があったと思うけど」
「ベイクドビーンズな。グンが昨日クリスティーを読んでたからこうしたんだが。イングリッシュ・ブレックファスト」
 覚えていたのかと嬉しく思いながらも、無表情に答える。クリスティーを読んでいたからだなんてこじつけだった。彼の言うとおり、最初に共にした朝食を再現したのだ。
「だからコーヒーじゃなくて紅茶なんですか」
「そう」
 コーヒー好きの彼は、少し不満そうに紅茶の入ったカップを口に運ぶ。不思議と優雅に見えるその所作に、俺がいつも目を奪われてきたことを、たぶん彼は知らない。俺も彼の考えていることがよくわからないでいるが、彼もまた、俺の本心などわからないでいるだろう。変人の酔狂に付き合わされたくらいに思っているに違いない。
「餞別、こっちに移動させといたから」
「あ、はい。俺もこっちに移動させようと思ってたんです。ありがとうございます」
 俺が掃き出しの脇に置いたドラセナを指差して言うと、彼はふっと顔を綻ばせた。紅茶から上る湯気のように香り立つ笑顔。
「本当は俺が餞別あげなきゃいけないのに。ごめんなさい」
 彼が紅茶に視線を落としてつぶやいた。長い睫毛が瞳を隠す。
「いいさ、俺がいらないって言ったんだ」
 彼から形あるものを貰えば、俺はきっとそれに縛られる。たとえ現金でも、一生使わずに持ち歩いてしまうだろう。それが容易く想像できたので、餞別はいらないと先に断っていた。
「でも、就職祝いすらあげてないし、この部屋だって……」
「気にするな。後輩にもらうほど落ちぶれちゃいない。部屋は今月からおまえ名義にしてあるから、昨日渡した印鑑失くすなよ。あと、家賃も八月分までは払いこんであるから」
「え、でも、『契約』は今日で切れるのに」
「いきなり今月からおまえひとりで払えと言っても無理だろ」
「……古川先輩ってどこのボンボンだか知らないけど、お金の使い方間違ってますよね」
「一年間飼い殺しにさせてもらった礼だ。退職金とでも思って黙って取っとけ」
「飼い殺しってことはないと思うけど。いろいろ教えてもらったし。でも、ありがとうございます」
 俺と彼との『契約』。それは、恋人のふりをすることだった。俺の借りていたこの2DKの部屋に彼を住まわせ、マンションの外ではもちろん、中でも恋人同然として振る舞うよう約束させた。もちろん契約中は、本物の恋人を作ることは許さない。代わりに、ここの家賃や光熱費一切は俺が持つ。もともと俺一人でここに住んでいたのだ。家賃と光熱費の負担など、容易いことだった。彼の憶測どおり、どこぞのボンボンで仕送りもたんまりある。
 男で、しかも女の子に不自由しない程度に愛想も容姿も良い彼を、形だけでも自分の物にするには、そんな手段しか思い浮かばなかった。
「心まではいらない。でも、身体くらいは相手してもらう」
 契約の際、そう言った俺に、彼はさして興味もなさそうに首をかしげた。
「……そういう趣味なんですか? 女性にも人気ありそうなのに勿体ない」
「いや、女の子は好きだ。たしかに不自由もしていない。でもおまえ、面白そうだから」
 俺は不敵に笑って見せたが、内心笑うどころではなかった。こんな話、良くても冗談で終わる、悪くすれば軽蔑されるとまで考えていたのだ。俺のキャラ的に、周囲の人間に喋られたところで大したダメージはないと踏んでいたが、彼に軽蔑されるのだけは避けたかった。
 黒目勝ちな瞳、花が咲いたような笑顔、細い首、華奢に見える身体。面白そうなんてレベルじゃなかった。初めて見た瞬間に、自分の物にする方法を考えていた。今思えば、一目惚れだったのだろう。
 男なら十人中十人が断りそうな話だが、彼はこの条件をあっさり飲んだ。すべてにおいて、どこか他人事のように振る舞う彼にとっては、この『契約』も他人事だったのかもしれない。彼にとって俺が初めての男というわけではなかったことも、関係していたのかもしれないが。
 そう、彼は男が初めてというわけではなかった。しかし、慣れているわけでもなさそうだった。
「おまえ、初めてじゃないだろ。なのに、すげぇ苦痛な顔すんのな。そんななのに、なんで好きでもない俺の誘いに乗った?」
 彼がここに来て初めて迎えた朝、今日と同じメニューにベイクドビーンズを加えた朝食を突きながら俺は問うた。薄ら笑いを張り付けていたが、内心では嫉妬で腸が煮えくり返っており、たかだか一度抱いただけの男相手に、そこまで独占欲を感じる自分に驚いてもいた。女にだって、そこまで入れ込んだことはなかった。
 彼は少しだけ考える素振りをして、遠くを見るような目で答えた。
「……初めてじゃないから、じゃないですか?」
 それからにっこり笑って、
「でも、恋人のふりをするなら、表向きは一目惚れってことにした方がいいんですかね?」
 あれから俺たちの関係には大した変化もなく一年が経ち、俺は博士課程も含めて述べ十年在籍した大学を卒業。そして五月も半ばの今日、この部屋を出ることになった。いや、出ることにしたのだ。『契約』に、この不毛な関係に終止符を打つために。今断ち切らなければ俺自身が狂うという、確信に近い予感があった。
 彼が女ならば結婚という道もある。けれど彼は男だ。どんなに金で縛って閉じ込めようとも、いつか現実を見据え、俺の庇護下から出ていこうとするだろう。そうしたら俺は、きっと彼を殺してしまう。
「ま、もう会うこともないだろうけど、元気でな」
 内心の寂しさを押し殺し、焼きトマトを頬張りながら、こともなげに言ってみせる。
「次帰国するのは五年後でしたっけ?」
 彼もまた、なんでもない顔で応じてきた。
「ああ。でも、向こうで永住権取るつもりだからわかんねーな。どのみち、次帰国する時には、おまえも卒業してる」
 俺は、祖父の経営する企業へ潜り込み、海外の研究所へ飛ばしてもらった。簡単には帰って来られない状況を作ってしまわないと、彼を断ち切れないと思ったからだ。そういう引力みたいなものが、彼にはある。
 まるで麻薬だ。体内でアルカロイドを生成し、二酸化炭素と一緒に吐き出しているか、粘膜を通じて人に注入しているのではないかと疑いたくなるほどその引力は強烈で、一緒にいればいるほど離れられなくなる。もっともっと欲しくなる。これで破滅しても構わないと思うほどに。
 それで俺は、まだ自制心の残っている間に離れることにしたのだ。しょっちゅう海外へ高飛びしていた俺には大した距離でもないのだが、仕事が入れば違うだろう。
「そうかもしれませんね。先輩も、お体には気をつけて」
「ああ」
 まだかろうじて十代の彼には平気でも、俺にこの朝食はちょっと重かったかもしれない。ベーコンの油の多さに少々げんなりしながらフォークを突き刺し、それを口ではなくドラセナに向けた。
「それよりあれ、幸福の木だからな。枯らしたら不幸になるぞ」
「え、幸福の木ってもっとちっちゃくなかったっけ? あれ、俺の胸くらいまでありますけど」
「でかくもなるんだよ。そうだ、名前でも付けとけ。おまえでも少しは愛着が湧いて世話する気になるかもしれない」
「名前、ねぇ」
 言いながら彼もベーコンを口へ運ぶ。油で艶めいた唇が、朝だというのになまめかしい。首筋に残る、俺がつけた痕も。
 彼はしばらく卵やトマトを食べながら考えていたが、ふいに俺の名前を呼んだ。
「透」
「なんだよ、急に」
 年下の彼は、いつも俺を「古川先輩」と呼ぶ。名前で、しかも呼び捨てにされたのなんて初めてで、俺は一瞬動きを止めてしまった。
「や、あれの名前。古川先輩がくれたから、古川先輩の名前でいいかと思って」
 彼の視線の先にあるのはドラセナだった。
「最後なんだからさ、ずっと古川先輩のそばに居たいから、くらい言えねーのかね、まったく」
「ずっと古川先輩のそばに居たいから」
 見事な棒読み。餞別の観葉植物に俺の名前を付けるなんて期待させるようなことを言っておいて、これだ。
 彼のこういうところに、俺は振り回され続けてきた。周囲からは、俺が彼を振り回していたように見えただろうが、実際は逆だ。現実に東奔西走していたのが彼であったとしても、精神的に一喜一憂していたのは俺の方だ。
「ま、大事にしてやってくれ」
「枯らさないよう気をつけます」
「おう」
「部屋も、俺使わせてもらいますから」
「部屋?」
「先輩の使ってた洋間。机もベッドもあるし。俺の使ってる和室は物置にでもします」
「おう、使え使え。おまえ身一つで来て、ほとんど何も買ってないもんな。買ってやると言ってもいらないと言うし。食器とかも全部置いてくから、使うなり人にやるなり適当にしてくれ」
 この部屋を出るにあたって、俺はほとんどの物を置いていくことにしていた。家電や家具などの大きな物から、本やCDなど小物まで。彼との生活を思い出すような物はすべて。
 そして、八月分までの家賃を支払うことで、俺は彼をこの部屋に縛り付ける。俺の使っていた物たちと、俺と過ごした空間に、彼をひとり閉じ込めるのだ。俺が居なくなった後、彼がどれくらい俺を想ってくれるかはわからない。それでも、すぐに忘れられることがないように、俺は無駄な努力をする。首筋の痕もその一つだ。今はまだ、彼の身体中に鮮明に残っている。
「でも、あの餞別だけは人にやるな。枯らしてもいい。おまえが持ってろ。ここを出ていく時も持っていけ。持っていけないなら捨てろ。いいな?」
 あの土の中には、俺が演技に紛らせてしか口にできなかった言葉が入っている。彼にだけは言えない、俺の本心が。
 彼はソーセージを咀嚼しながら黙って聞いていたが、特に反論することもなく素直にうなずいた。
 やがて大皿の上のものをきれいに平らげた彼は、居住まいを正して再び両手を合わせた。
「ごちそうさまでした。それと、今までお世話になりました。あとは俺が片付けておきますから、先輩は支度してください」
 ぺこりと頭を下げて席を立つ。カチャカチャと耳障りな音を立てて皿を重ねる彼に、俺は軽く呼びかけた。
「グン」
「はい?」
 椅子から立ちあがっていた彼の細い首に両手を伸ばし、引き寄せて唇を合わせる。彼の手の中で、食器がかすかな音を立てた。
 首筋に手を添えたまま、吐息がかかるほどの至近距離で告げる。
「愛してる」
 誰にも触れさせぬよう、このまま絞め殺してしまいたいほど。さっきの食事に混ぜて、自分の血肉にしてしまいたいほど。
「俺もです」
 彼は清清しいほどの笑顔で応えた。しかしそれは、俺のことが好きだからではなく、契約が終わることへの晴々しさから来るものなのだろう。
「馬鹿たれ。こういう場面でそういうことを言う時は悲しそうな顔をするもんだ」
「して欲しいですか? 悲しそうな顔」
 一事が万事この調子。おかげで甘甘カップルという周囲の見解とは裏腹に、二人でいる時にそんなに甘い雰囲気になったことはない。身体を繋ぐ時でさえ、どんなに乱れさせても、彼にはどこか事務的な様子があった。
「先輩こそ無表情で言っても真実味ないですよ。いつも俺にダメ出しするけど、先輩のが演技下手じゃないですか」
 彼はおそらく、俺の口から出る愛の言葉はすべて演技だと思っている。そう仕向けたのは他でもない、俺自身だ。
 今まで、本気だということを伝えようと考えたことがないわけではない。しかし彼は、ただの遊びだと思っているからここにいるのだ。俺が本気だと知れば、早々に逃げようとしただろう。何を考えているか分からない相手ではあるが、このことだけには妙な確信があった。
 俺が男だからではない。男だろうが女だろうが、本気の付き合いはしない。そういう雰囲気が、彼にはある。
「でも、誰も俺らが振りしてるだけなんて気付いちゃいない」
「そりゃ、所構わずあんなことしてれば誰だって……」
 俺は彼に、大学でも堂々と恋人の振りをするよう強要していた。わざと人目のある所で抱き寄せ、睦言を囁いたりキスをしたり。だからこそ、甘甘カップルと思われているのだ。彼は、俺が周囲の反応を見て面白がるためにやっていたと思っているようだが、実際の目的は、彼を狙う者を牽制するためだった。俺と同じ目で彼を見ている者は、男女問わず大勢いる。彼は率先して見せつけることこそなかったが、特に抵抗もしなかった。
「だけど、先輩のおかげで俺、この先もなんとかやっていけそうな気がします。ありがとうございました」
 改まってそんなことを言う彼に、思わぬ期待をしてしまう。俺は、彼に何か残すことができたのではないかと。彼の未来に、彼の人生に繋がる何かを。この、霞のように掴みどころのない、それでいて強烈な印象を人に植え付けてしまう彼に。
「グン、もしおまえが本気で……」
 言いかけてやめた。皿を流しへ運びながら、彼が先を促す。
「本気で、何ですか?」
「いや、いいんだ、何でもない」
 おまえが本気で俺のことを好きならなんて、あり得ないことを言って傷付くのは俺の方だ。代わりに、あのドラセナを人にやらないように念押しした。
「分かりましたって。ちゃんと大切にしますから安心してください」
 苦笑しながら請け合う彼が、あの鉢に隠されたものに気付くことはあるだろうか。気付いた時、少しでも嬉しいと思うだろうか。
 俺はドラセナの土の中に、フランスの有名ブランドのラブリングを埋めた。マイナススリ割りビスをかたどった模様が等間隔で並び、ひとつにはダイヤがはめ込んであるプラチナの指輪。ペアになるよう、同じものを自分も持っている。内側にはフランス語で『真実の愛』、そして『 TtoG 』と彫ってある。俺から彼へ。ただし、俺が持っているものに、内側の文字彫はない。彼から俺へなんて、自分で入れてしまうほど悲しいことはできない。それでも、何か繋がりを持っていたかった。たとえ一生、彼が気付くことがなくても。
 彼を思い出すものはすべて捨てていくと決めたのに、土壇場でこんなものをつくった自分はどうしようもなく愚かだ。俺のことを自信家で孤高の変わり者と評している友人や後輩たちが知ったら、あまりの女々しさに失神するまで笑い転げるだろう。たしかに俺は自信家だ。しかし、彼に関して自信が持てたことなど、一度もない。
「どうだかな。おまえは、俺が出てった直後に今の会話を忘れそうだ」
「そんなに物忘れひどそうに見えますか、俺」
 学年首席の彼がそんな風に見えるわけがない。俺は残った皿を重ねながらかぶりを振った。
「薄情って意味だ。会話どころか、俺の存在自体記憶から消しさるんじゃないか。ま、契約切れたらおまえの自由だ。それもいい」
 彼は、肯定も否定もしなかった。
「もし忘れたとしても、今日みたいな朝食をたべるたびに思い出しますよ」
「イングリッシュ・ブレックファスト?」
「そう、それ。あ、ついでにあの本も貰っていいですか? 『そして誰もいなくなった』。まだ途中なんで」
 昨夜から彼が読んでいる本だ。あの話のように、真実は誰もいなくなってから無関係の人間にだけ知られればいい。
「ああ、やるよ」
 俺は最後の皿を彼へ渡し、ダイニングの席を立った。










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