沁みゆく

 盆に里帰りしたついでに、母校に顔を出そうと足を延ばしたら、最寄り駅で見覚えのある背中を見つけた。蝉の声だけが鳴り響く、ひと気のないホーム。色褪せたベンチに、力なく腰掛けている。記憶の中よりも幾分痩せたように見えるが、あれはたぶん……。
「グンジ!」
「ん? あ、早瀬。久しぶり」
 どこか中性的な顔が、人懐こい笑みを浮かべる。背は少し伸びたようだが、顔はあまり変わっていない。出会った頃は年相応だったのに、今じゃすっかり童顔の部類だ。高一の頃のように女に見えるほどではないにしろ、二十歳過ぎた男には、到底見えない。
 グンジが隣の椅子から荷物を避けたので、俺もベンチに腰をおろした。
「高校卒業以来だから、三年……半ぶりか?」
「おまえ帰ってこねーんだもん。成人式もすっぽかしたろ」
「あー、そうだったっけ」
 俺とグンジの実家は離れているが、同じ市内だ。俺は式の時、同級生から、グンジは盆正月も帰省していないらしいと聞いていた。
「今年は帰ってたのか」
「うん」
 学校が忙しいのだろうか。奴は、日帰りだけどねと微笑んだ。
「早瀬は? 実家はこの駅じゃないだろ」
「んー、高校に顔出そうと思ったんだけど」
「盆だから誰もいなかったろ」
「そ」
「相変わらず脳みそ筋肉だなー」
 グンジはカラカラと笑った。俺は首に掛けていた汗拭きタオルで奴を叩いた。
「うっせ。身体の筋肉も増えたぞ。……おまえはちょっと痩せたな」
 ちょっと、どころではなかった。どんな過酷な生活をしているのかと問い質したくなるほど、正面から見るグンジは痩せ細っていた。もともと無駄な脂肪などついていなかったが、高校時代に培ったはずの筋肉も、ほとんどなくなっているようだ。
「ちょっと夏バテ中でね」
 顔は変わっていない。そう思っていたのに、気だるそうに言う横顔は、頬の肉が減った分、大人びて見えた。
「そういや早瀬、今年の箱根、選手登録してあったじゃん。おめでとう」
「ちっともめでたくなんかねーよ。登録してあっただけで、走ってねーし」
「でもすごいじゃん。W大の向井が九区に来なきゃ、おまえ裏の二区走ってたわけだろ。惜しかったなぁ」
 駅伝において、どの走者をどの区間に配するか。それを決めるには、賭けと駆け引きが必要になる。箱根駅伝の場合、登りや下りの五区六区はある種の身体能力が要求されるからともかく、他の区間は他校が誰を持ってくるかによって、花形走者を投入できるよう準備しているものだ。うちの大学の場合もそうだった。俺は九区に抜擢されたものの、W大の向井が走る区間は、補欠登録している主将が走ると決まっており、見事向井とかち合ってしまった俺に、出番はなかった。
「……グンジは、もう走ってないのか?」
 再会したら、ずっと訊きたいと思っていたことだ。
 グンジは、駅伝のインターハイで区間賞を獲ったにもかかわらず、あっさりと陸上をやめ、陸上部のない大学へと進学した。部には入らなくても、走ることは続けられると言っていたが、今の彼を見る限り、とてもスポーツをしているようには見えない。
「んー、毎日一キロくらいは走ってんじゃないかな」
「たった一キロって……。それ、ちゃんとしたジョグじゃねーだろ」
「ま、ね」
 こいつとは高校時代、同じところを見ていたせいで、険悪になったこともある。どちらかと言えば、俺が一方的に敵視していたのだが。でも今、穏やかに話しながらも、まったく違う方向を見ているということが、少し寂しかった。
 ――もう失くしたくないから、陸上はやめる。
 友達を失くしてまで続けた陸上を、なぜやめるのかと問い詰めた時のグンジの言葉。あれは、こういうことだったのだろうか。目標を同じくして好敵手になれなかった俺の卑小さが、俺たちを今のような関係にしてしまったのだろうか。だとしたら、この寂しさは自業自得でしかない。
「卒業したら帰ってくるのか?」
 俺は気を取り直して訊いてみた。過去を悔いても仕方ない。目標は違っても、友達じゃなくなるわけじゃない。
 しかし、グンジの返事はどこか歯切れが悪いものだった。
「いや、そのつもりはない。でも、三月あたりにまたこっち来ると思う」
「じゃあ、ケー番教えろよ。今度飲みに行こうぜ。なにもここじゃなくても、俺がおまえんとこ行ってもいいし、おまえがこっちに遊びに来てもいいし」
 どうしようもない田舎の高校に通っていた俺たちは、高校を卒業するまで携帯なんてもんとは無縁の生活を送っていた。学校の近辺はほとんど圏外だったのだ。寮暮らしをしていた俺なんて、住んでいる場所自体が圏外だった。
「そうだな」
 汗ばんでいたのか、グンジはTシャツの横っ腹あたりで手を拭いて、尻ポケットからシルバーの携帯を取り出した。どうやら電源を切っていたらしい。奴はまず、携帯を開くと電源ボタンを押した。その途端、見計らったかのように小型機器が震える。グンジは、わり、と俺に断りを入れてから、通話ボタンを押した。
「……ごめんごめん。やっぱ場所的に切っとかなきゃいけないかと思って切ったの忘れてた。……ん、大丈夫。……今? 駅のホーム。……ううん、まだ鈍行の。……あーそのことだけど、今回はいいよ。なんもなかったし。…………は、はい。そうですね。すみません、ごめんなさい。……えーっと、十九時五十三分着だったかな」
 高校時代、彼女にふられそうになってもボケーッとしていたグンジが、なにやら携帯に向かって平身低頭している。珍しく焦っている様子は見物だったが、俺は面白くない気持ちで、それを眺めていた。
「今の彼女か?」
 グンジが携帯を閉じると、俺は内心の不機嫌さを隠し、にやけ顔を作って肩を突いた。すっかり華奢になってしまった肩に、ひわりとして思わず身を引く。
 かすかに漏れる声から、相手が男だということは分かっていた。
「違う。同居人」
「ふーん、ただの同居人が、帰る時間まで訊きに電話してくるのか」
「飯の都合とか、いろいろあるんだよ。っつっても、あんま一緒に飯とか食ったりしねーけど。最近、俺がバテてたから、心配してくれてんだと思う」
「まるで世話女房だな」
「はは、どっちかっていうと、保護者みたいだけどな。気は優しいし料理はうまいし、時々説教かまされるけど、すんげーいい子だよ」
 すんげーいい子。その言葉に、胸の奥がつんとする。高校時代、グンジに「すんげーいい奴」と言われるのは、俺の専売特許みたいなもんだった。
「おまえには勿体ないな」
「俺もそう思う。でも、早瀬にはやんない」
「は? まさかおまえ、マジでそいつ好きなのか? 男だろ」
「なんだ、女じゃないって分かってたんじゃん」
 からかっていたつもりが、逆にからかわれていたらしい。おそらく俺が、「そんなこと言わずに紹介しろよー」とでも言っていれば、「男だけどいい?」なんて笑いものにするつもりだったのだろう。
 携帯の赤外線を使って連絡先を交換し、ついでに時刻を確認する。電車が来るまで、まだ五分ほど時間があった。あと五分、そして、グンジと別れる駅までが十五分。でも、電車に乗ったら、きっとあまり話はできない。けれど、話さなければと思えば思うほど、気ばかりが焦って話題が出てこない。大学のこと、彼女のこと、部活のこと、就職のこと、話したいことは山ほどあったはずなのに。
 結局口から出てきたのは、からかいの言葉だった。
「グンジ、おまえ同窓会があったら絶対来いよ。S高のマイケル・ジョンソンが男と同棲してるなんて、まじウケるから」
 グンジは高二の頭まで、二百と四百の二種目を専門としていた。そこで先輩たちに付けられたあだ名が、M・ジョンソン。
「同棲じゃねーって」
「でも、好きそうじゃん。電話切った時のおまえの顔! めっちゃ嬉しそうだったぞ」
 肯定されたらショックを受けることは分かり切っているのに、どうして俺の口は自分を苛めるようなことを喋るのか。高校の奴らのが好きだったよ、とか、早瀬との方が仲は良いけどな、なんて返事でも期待してるのか。馬鹿馬鹿しい。
 でも、グンジが嬉しそうにしていたのは事実だった。いつもふわふわと笑っているような奴だったが、あんなに穏やかで感情のこもった笑顔を見たことは、たぶんない。今の風貌から想像される彼の生活は、とても荒んだものとしか思えないのに、グンジはなぜか、以前よりも幸せそうだ。それが、俺の心をよけいに苛む。俺だって、グンジのいない大学で結構楽しくやっているのに、勝手なものだ。
 とりあえず、笑って否定するだろうと思っていたグンジはしかし、予想外の否定のし方をした。
「……俺はさ、俊平くんを好きなんじゃなくて愛してんの。だから、あの子を幸せにしてくれるような可愛い女の子になら喜んであげるけど、早瀬みたいなむさい男には、絶対やんない」
「なんだそれ」
「なんだろねー」
 高校時代よりも幾分かシャープになった頬の線が、ゆるやかに丸みを帯びる。グンジが顔を綻ばせたのだ。とても幸福そうに。それは、去年の夏の飲み会で見た、月下美人が花開く時のようだった。年に一晩しか咲かなくても花は花。いくら珍しくても可憐でも、胸に迫ってくるものなどなかったのに。人間がそんな風に見えると、走ってもいないのに心拍数が増してしまう。
 意外と女子に人気のある奴だとは思っていたけれど、こいつ、こんなに綺麗だったか!?
「グンジさぁ、俺をおまえから牽制してるわけ?」
「なんかどっかで聞いたことあるセリフだな。なんで俺から牽制する必要があんだよ? 俺は俊平くんから牽制してんだけど」
 俊平というのが同居人の名前らしい。そんな会ったこともない野郎になんか、牽制されなくても惚れたりするわけねーだろが。それに、俺には今、超可愛い彼女がいるんだよ。そう言って終りにしようと思ったのに、口から出たのはまったく違う文句だった。
「気付いてたんじゃねーのかよ」
 しまったと口を押さえても、覆水盆に返らず。友達仲を復活させようと思うなら、蒸し返す話ではないのに。今日の俺の口は、とことん俺を裏切ってくれる。
「何を?」
「何をって……」
 あの頃、たぶん俺はこいつに焦がれていた。どこか感情の追いついていない笑顔に、走りの才に、危うげで妙な色香を持つ、その存在に。親友として傍にいながら、めちゃくちゃにしてやりたいと、心のどこかでずっと思っていた。俺とは感情的な話をしたくないと言ったグンジは、そんな俺の衝動を見抜いていたのではないかと思ったのだが。
 不思議そうに問い返して来る黒目勝ちな瞳は、本当に何も知らないかのようだった。とぼけるのがうまくなっただけなのか、本当に何も気づいていなかったのか。
 どちらにしろ、これは俺にとって好都合な展開のはずだった。適当にはぐらかして、何もなかったことにしてしまえばいい。
 しかし、俺の口はまたもややってしまった。
「俺だったら、グンジの女房役より旦那役のがいい」
 こんな本音混じりの冗談、性質が悪すぎる。それとも俺は、こいつに知らしめたいのだろうか。知らしめて、動揺するこいつを見たいのだろうか。
 あの頃だけじゃない。もしかしたら俺は今も――。
 見開いていた眼が、ついと俺から外される。俺はいたたまれない気持ちでそれを見ていた。奴の細い首筋を汗が伝っていく。透明な雫は、白いTシャツの中へ消え、やがて薄っすらとシャツを透かす。そしてまた、新たな雫が首筋に生まれる。
 蝉の声がうるさい。うつむくと、額から流れた汗が、コンクリートにぽたりと落ちた。それは、ひび割れた地面を一瞬だけ濃くしたが、すぐさま夏の陽気に乾いて消えた。しかし、汗は次から次へと落ちて、地面に染みを作る。否定しても否定しても浮き上がってくるこの感情のように、消えたそばから次々と。
 俺とツルんでいた時より、今の方が楽しいなんて思って欲しくない。俺の知らない奴の話なんか、嬉しそうに語らないで欲しい。俺の知らない、俺でない奴の話など。
 グンジが同居人に抱いている感情を友愛とするならば、俺がこいつに感じている愛情の種類は――。
 どこまで気付いたのか、グンジがぽつりと呟いた。
「早瀬、趣味わりーよ」
「おまえと違ってまともなだけだ」
 そう切り返したところで、電車の到着を告げる音楽が鳴った。
 安心しろ。俺には超可愛い彼女がいるから、男のおまえになんか興味はねーよ。そう続けようと思ったのに、音楽が鳴りやんでも、なぜか言えなかった。グンジも「ちっともまともじゃねーじゃん」などと言い返してはこなかった。










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