知りゆく

 人間、一年近くひとつの教室に押し込められていれば、たいていのことは分かったような気になるもんだ。クラスメイト全員とはいかないまでも、親しくなった人たちのことくらいは。でも、所詮一年足らずで分かることなどたかが知れている。バレンタインは、そのことを如実に思い知らせてくれる行事のひとつなのかもしれない。






 今日の俺は、朝から次々に出てくる新事実に驚いてばかりいた。分厚い眼鏡を掛けたしかめ面がトレードマークの委員長が実は上級生に人気があるとか、いつも女子に取り囲まれている部長より硬派な副部長の方がたくさんチョコを貰っているようだとか。クラスで一番可愛いあの子の本命がモヤシとあだ名されてる地味な奴だとか、なのにモヤシは彼女を振ったとか。クラスの女子全員からと称して配られた手作りチョコがプロ並みの出来栄えで、それを作ったのがクラスで一番肥ってる女子だったのにも驚いたが、「食うのが好きだから、作るのも好きなんだろ」と仲のいい奴に一蹴された。
 しかし、俺が何よりも驚いたのは、その仲の良いクラスメイト、中戸群司に関することだ。新事実というより、これは疑惑に近い。俺がそう思いたいだけかもしれないけど。






 その疑惑は昼休みに浮上した。
 教室の隅でひとり寂しく携帯をいじっていると、同じ陸上部で隣のクラスの守田がやってきた。きょろきょろと室内を窺いながら入ってくる。ちょっと怪しい。
「早瀬、今ひとりか? グンジは?」
「あいつなら女子に呼び出しぃー。彼女いるのに、あんなののどこがいいのかね」
 グンジは結構女子にモテる。グンジ自身が女子みたいな外見をしているせいで話しやすいのかもしれないが、隣の女子高に通う彼女と並んでいるのを見ると、まるで女同士のカップルだ。グンジが整った顔をしているのは認める。でも、俺よりたくさんチョコを貰っているのは認められない。俺はクラスの女子全員からの一個っきゃ貰ってねーんだけど。
「あいつよか、俺のが断然男らしいと思わね?」
 グンジなんてチビで女顔のくせにさ、と不貞腐れて見せる。
「男らしいってより、汚らしく見えんじゃねーか、早瀬の場合。男子寮って独特の臭いするしなー」
「っせ! おまえだってその臭い男子寮生だろうがよ!」
 殴る真似をする俺をかわして守田は笑ったが、すぐに表情を曇らせた。妙に深刻な顔をして、さっきまでグンジが座っていた俺の前の席に腰をおろす。
「その、グンジのことなんだけどよ」
 俺が座っているのは、窓際の後ろから三番目の席だ。守田は廊下側へ向かって教室中を見回すようにしながら、低めた声で切り出した。
「あいつ、早瀬に俺のこと何か言ってなかったか?」
「守田のこと? 特に何も言ってなかったと思うけど」
「そうか。おまえなら何か聞いてるかと思ったんだけどな」
 がっかりしたように、それでいてどこかホッとしたように肩を落とす守田に、何かあったのかと水を向ける。奴は言いにくそうに顔をゆがめ、頬を染めた。
「……今朝、俺とグンジが朝練の片付け当番だったろ?」
 俺は頬杖をついてうなずいた。部活の片づけは、一年が当番制でやっている。今日は守田とグンジが当たっていた。
「それで、片付け済ませて一緒に教室まで来たんだけど、途中、トイレに寄ったんだ」
 あまり人の来ない職員室近くの男子便所で連れションをしながら、グンジは何気ない調子で訊いてきたそうだ。チョコは好きかと。
「今日はバレンタインだし、まぁ普通にチョコは好きだったから、『うん』って答えたんだ。そうしたら」
 ――んじゃ、これ守田にやる。
 トイレを出たところで、茶色い紙包みを渡された。いびつに結ばれた赤いリボンから、素人の手による包装であると知れた。
 ――みんなには内緒な。
 グンジは照れたように笑ってそう言うと、さっさとトイレ横の階段を登りはじめた。まるで、守田から逃げるように。
「まさかそれ、グンジが守田に……? 何かの間違いじゃね? あいつ彼女いるし」
 隣の女子高に通う知佳ちゃんとは上手くいっているはずだ。今朝も、グンジの朝練の時間に合わせて登校してきた彼女にチョコを貰ったと言って、嬉しそうにしていたし。
「俺だって間違いだと思ったよ。でも、そうとしか考えようがないだろ。中にこんなのまで入ってたし」
 守田は机の上に二つ折りにされた空色のカードを置くと、額を押さえてうつむいた。俺は、今日はエイプリルフールじゃないぞと突っ込もうとして、やめた。今朝、部活で会った時の守田は元気そうだったのに、今目の前にいる彼は明らかに憔悴している。演戯だとも思えなかった。黙ってメッセージカードを開く。
 俺は、中を見て絶句した。
「そりゃグンジはうちのクラスの女子よかずっと可愛いし、性格も悪くないし、正直女だったら即オッケーだけどよ、あいつ男じゃん? 女みたいな顔してても胸ぺったんこだし下だって付いてんだろうし。でも、仲間だから変な断り方して気まずくなるのも嫌なんだよ」
 守田は両手で顔を覆ってうなだれた。
「自分でも情けねーけど、もう俺ひとりじゃどう対処していいか分かんねーんだよ。内緒だって言われたけど、早瀬なら何か相談受けてるかと思って」
 俺は放心したまま、何もとかぶりを振った。
 俺は何も聞いてない。あいつは知佳ちゃんを好きなんじゃないのか。いやその前に、グンジが守田を好きだって?
 カードには丁寧な文字で、『ずっと好きでした。クラブの後、体育館裏の記念樹の所に来てください。』としたためられており、最後に筆記体でG.N.と記されていた。
 G.N.
 グンジ・ナカト。
 他に該当する人物など、考えられなかった。






 掃除当番だったこともあり、同じクラスのグンジより一足遅れて部室に行くと、引退した木内先輩が来ていた。他の部員はまだなのか、グンジと二人で話していたらしい。
「あ、それじゃ俺、そろそろバスの時間だから行くわ。二人とも頑張れよ。他の奴らにもよろしく言っといて」
「えー、もう帰っちゃうんすかー。俺、今来たばっかなのに」
「悪ぃな。時間つぶしに寄っただけなんだわ」
「先輩も受験頑張ってください」
 時計を見てそそくさと出て行く木内先輩を、俺は頬をふくらませて、グンジは笑みを浮かべて、それぞれ見送る。その時のグンジの笑顔が砂糖菓子みたいで、俺はちょっとどきりとしてしまった。
 昼休憩からこっち、俺はずっと落ち着かない気分でグンジを観察していた。分かったことといえば、思っていた以上に、奴が女子の視線を集めていることと、守田の言うとおり、そこいらの女子より綺麗な顔立ちをしているということくらい。でも、それらの発見は、俺に小さくはない衝撃を与えた。
 女子に人気があることは知っていた。女に間違えられるくらいには可愛らしい面をした奴だとも思っていた。その笑顔に、時々自分と同じ男とは思えないような何かが過ることにも気付いているつもりだった。しかし、奴の睫毛が瞬きすれば音がしそうなほど長くボリュームがあることや、その睫毛が影を落とす肌がとても滑らかであること、また、肩幅が俺の三分の二くらいしかないことに気付いた時には鳥肌が立った。腰なんて、ねじればちぎれてしまいそうなほど細い。
 まさか本当に女なんじゃないだろうな。
 部室や寮や更衣室、何度も同じ部屋で着替えていたにも関わらず、そんな疑念が浮かぶ。そういえば今朝は、どこか甘い匂いまで漂っているような気がした。あれは知佳ちゃんのチョコのせいかと思っていたけれど、クラスの女子に貰ったチョコは、あんな匂いはしなかった。チョコレートとは違う、もっと濃厚で甘ったるい、花の蜜のような匂い。
 それからも観察を続けたが、教室でも部活でも、グンジはいつもどおりに見えた。けれど、怪しいと思えばどこまでも怪しく見えるもので、夏場でもあまりランニングにならなかったのはなけなしの胸を隠すためじゃなかったのかとか、だぼだぼのジャージを穿いているのはサイズがなかったのではなく、前が付いていないことを誤魔化すためではないのかなど、俺の疑心はあらぬ方へと膨らんでいった。
 とはいえそんな疑いは、以前連れションをした時のことを思い出して、すぐに解消されたのだが。
「今日、寮に泊まってもいい?」
 さすがに、部活終りにそう言われた時には血液が逆流しそうな気がした。
 俺がなかなか返事をしないので不安になったのか、グンジは口をすぼめて付け加えた。
「昨日から母親が親戚の家に行っててさ、晩飯ロクなもの期待できねんだもん」
「守田に頼めばいいだろ」
 どうにもぶっきらぼうな言い方になってしまう。
 グンジの態度は、守田に対してもいつもどおりに見えた。でも、よく見ると、他の奴に笑いかける時よりも、守田に微笑む時の方が甘い顔をしている気がする。若干糖度が上がったような、それでいて少し甘酸っぱいような。しょっちゅう寮に泊まりたがるのも、少しでも守田の近くにいたいからかもしれない。
「なんで守田?」
 シラを切るつもりなのか、グンジは荷物を鞄に詰め込んでいた手を止め、きょとんと俺を見上げてきた。俺はざっと部室を見渡した。グンジは守田と片づけ当番をしていたから遅くなっていて、グンジを待っていた俺の他は、すでにみんな帰っている。守田は一応、体育館裏に行ってみると言って、グンジより先に部室を出て行っていた。結局俺は、いい知恵を出してやることが出来ず、何と返事をするのかとこっそり訊いたところ、その場で考えるという答えだった。
 グンジは守田を呼び出していることなど忘れているかのようにのんびりと帰り支度をしている。
「おまえ今日、守田にチョコやったんだろ」
「ありゃ、守田しゃべっちゃったのか」
 好きな人と一緒に同性愛者だということもばれたというのに、グンジはあっけらかんとしている。俺の方が緊張で、喉が渇いてきた。
「認めるってことだな」
 グンジは明るく「うん」と肯首する。
「守田、チョコ好きだって言うから。早瀬もチョコ好きだった?」
「え、まぁ」
 何で俺? と思いながらも肯定すれば、グンジは初めて寮に泊まっていいと言った時のように顔を輝かせた。
「じゃあこれ全部貰ってくんね?」
 言いながら、再び手を動かし始める。ただし、今度は物を入れるのではなく、引っ張り出そうとしている。黒いスポーツバッグから徐々に出てきたのは、スーパーのビニール袋だった。半透明なそれから透けて見えるのはカラフルな箱の数々。そして、むわっと飛び出す甘い匂い。
「え、これ、全部チョコ?」
 にこにことうなずくグンジ。しかし俺は、袋の中に見覚えのある包装を見つけて怒鳴ってしまった。
「おまえこれ、知佳ちゃんに貰ったやつじゃん! ダメだろ、他人にやっちゃ。知佳ちゃん悲しむぞ」
「んー、だからこのことは黙ってて欲しいんだけど」
 だめ? と今度は捨て犬のような目を向けてくる。
「俺、甘いもん苦手なんだよ。でも、くれるって言うの断れなくて」
 頼むよと両手を合わされ、俺は渋々ビニール袋を引き取った。途端にグンジの顔が明るくなる。
「ありがと早瀬! やっぱいい奴!」
「でも、知佳ちゃんの分はひと口だけでも食えよ」
「ひと口でも食べたら、今晩泊めてくれる?」
「だからそれは守田に……」
 頼めと言いかけて、俺はあることに思い当った。グンジは甘い匂いもダメなのか、顔をしかめながら知佳ちゃんに貰ったチョコのリボンを解いている。
「ひょっとしておまえ、守田にも人から貰ったチョコをやったのか?」
「そうだけど」
「チョコが苦手だから?」
 鼻をつまんで生チョコを口に入れながら、グンジはこくんとうなずいた。少しもぐもぐっとして、すぐさまポカリで流し込む。
「じゃあ、あのメッセージは何だよ!?」
「メッセージ?」
 俺は学生服のポケットをまさぐって空色のメッセージカードを取り出した。開いてグンジの目の前に突き付ける。
「これ、ずっと好きだったって書いてある。G.N.っておまえだろ!?」
 少なくとも、女の署名ではないはずだ。ガ行で始まる女の名前など思いつかない。
 グンジはカードを受け取ってまじまじと見つめていたが、やがて顔を上げてにぱっとした。
「これG.N.じゃなくてS.N.だよ」
「え!?」
 グンジは俺の方へカードを向け、筆記体のGを指差した。
「この下のカーブが出っ張りすぎてるからGにも見えるけど、これはSだよ」
「なんでそんなこと分かるんだよ?」
「守田に渡したチョコをくれたのが、野崎澄美子さんて人だったから」
「誰それ?」
「バレー部の二年生だって」
 どうやら相手は、グンジの方では面識のない先輩だったらしい。今朝バスから降りた時、いきなり自己紹介されて包みを渡されたのだという。
 俺より背が高くてショートカットのボーイッシュな人だったよ、というグンジの話を聞いて、いよいよもって、女子たちはこいつを愛玩動物か何かだと思っているような気がしてくる。こいつの砂糖菓子の笑顔を近くで見たいという気持ちは分からなくもないが、自分より小さくて可愛らしい男と歩くのって、嫌じゃないんだろうか。
「知佳ちゃんいるのに、俺がこんなカード書くわけないじゃん」
 からからと笑うグンジに、俺は「そうだよな」と苦笑いで返した。
「なんか悪かったな、疑って」
 まさかGがSの間違いだったなんて。筆記体なんかで書くから紛らわしいことになるんだ。いやそれよりも、グンジがちゃんと説明せずに守田にやるからこういうことになるんだ。でも、あのカードをグンジの手によるものと思い込み、本気で悩んだ俺たちが一番アホだ。
「今晩泊めてくれるなら許してしんぜよう」
 甘い物の苦手な親友は、甘いものそのもののような笑顔で言う。
 そうだ、何度も突発的に俺の部屋に泊まりに来て、布団がないからとしょっちゅう俺と同じベッドで平然と寝ているこいつが、ホモでなどあるはずがない。ましてやあの柔らかみのない身体が、女であるはずがないのだ。
 いつも背中に感じる塊は、頼りなく骨ばっている。たしかに存在しているのに、ふいに消えてしまいそうな心許なさがある。まるで、まだ神の領域にいる子どもと背中をひっつけて寝ているような。でも、そちらを向いて存在を目で確かめることは憚られた。もしもそんなことをしたら、何かが壊れそうで怖かった。それが今日気付いたことと関係しているのなら、今晩グンジを泊めるのは得策でない気がしたが、今更どうしようもない。
 覚悟を決めてさぁ帰るかと荷物を持ち上げたところで、グンジが「あ」と奇声を上げた。
「さっきのカードのってやっぱ、行かないとまずいかな」






 守田が二年の野崎先輩と交際を始めたのが発覚したのは、その翌日のことだった。
 そして、グンジが木内先輩にもチョコを流していたことが判明したのは、もっとずっと後のこと。それがあの、クラスの女子全員からという名目で配られた立派な手作りチョコだったために、またしても誤解を呼んでいたらしいのだが、それはまた別の話。










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