信号

 大学近くの交差点で、同居人を見た。大きめの車道を挟んだ向こうの歩道で、携帯電話を片手に立っている。空虚な表情をしているので、電話の相手が誰なのか気になった。電話中で相手に顔が見えていないとはいえ、彼が表情を欠くことは珍しい。よほど嫌な相手か、聞きたくない内容なのかもしれない。
 信号は青だったが、こちらへ渡って来る気配はない。俺が手を振ると、携帯を耳にあてたまま笑顔になった。空いている手で振り返してくる。
 俺は急いで交差点を渡ろうと駆け出した。しかし俺の足は、全体を映画の広告でラッピングされたバスによって阻まれた。交差点に踏み込む直前に信号が変わったのだ。
 同居人の姿がバスの車体の向こうに消える。夏休みの大作映画になんて興味はない。また笑顔を消しているのかともどかしい思いで信号が変わるのを待つ。やたらと車体の大きなトラックやワゴン車ばかりが目の前を通り過ぎて行く。
 やっと信号が青になった時、通りの向こうに同居人の姿はなかった。






 五限をまるまる寝て過ごしたのに、ちっとも疲れが取れない。むしろよけいに疲れた気がする。絶対に最後に見た夢のせいだ。あんな焦燥ばかりが募る夢。通り一本隔てただけの場所で辛い思いをしているかもしれない中戸さんを見ていることしかできないなんて。しかもやっと傍に行ける状況になったら消えているなんて。どんな拷問だ。
 ぐるぐるとそんなことを考えて腹を立てながら帰宅すると、キッチンスペースの流しの下に段ボール箱が置いてあった。蓋は開いていて、隙間から野菜がのぞいている。送り状は剥ぎ取られていたが、きっと同居人の実家から送られてきたものだろう。以前、彼の実家からの電話を受けた時、家庭菜園をやっているから、夏野菜が採れたら送ってくれると言っていた。
 荷受人である同居人の中戸さんはバイトにでも行っているのか、玄関には靴がなかった。
 俺は春先にあさりが送られてきた時、彼が何時間も箱の前に座っていたことを思い出し、バイトの帰りにコンビニに寄って缶ビールを購入した。深夜だったが、中戸さんは起きているという確信に近い予感があった。
 中戸さんにとって実家は、心休まる場所とは言えない。実家から何らかのコンタクトがあった夜、彼が安眠できるとは思えなかった。






 蝉どころか蛙の声も静まり返った真夜中。俺は中戸さんの部屋から微かに灯りが漏れているのを確認してから、ダイニングの電気を点けた。流しの下にあった段ボールは、野菜もろとも消えていた。
 ダイニングテーブルの上にビールを二缶だけコンビニ袋ごと置き、残りは冷蔵庫に入れて、ダイニングの西側に面した彼の部屋の戸を軽くノックする。
「中戸さん、起きてるんだったらちょっと飲みませんか? バイト終わって外出たらあんまり暑かったから、コンビニでビール買っちゃったんです。飲まなきゃ眠れそうになくて」
 電気を消し忘れて寝ている可能性もないではなかったが、中からはほどなく返答があった。
「あー、飲む飲む」
 予想通り、寝ていたような声ではなかった。一瞬、喜んでしまったことに罪悪感を覚えながら、コンビニ袋からビールを取り出す。しかし、Tシャツにハーフパンツで出てきた中戸さんは、すでに発泡酒を手にしていた。
「実は一人で飲んでたんだよね」
「なんだそうだったんですか」
 俺がエアコンのスイッチを入れて窓を閉めている間に、中戸さんは定位置になっている西側の席に腰かけた。俺もその向かい(やっぱり定位置)に座ってビールのプルトップを引く。
「俊平くんは働いてるのに、悪いなーとは思ったんだけど」
 やっぱり暑くてと中戸さんは言い訳したが、たぶん嘘だろう。
「別に悪かないですよ。俺も中戸さんが研究室に泊まり込んでた時、遊んでたし」
 口に含んだビールに、キーンと冷えたあの美味さはなかったが、気泡がごつごつと喉に当たる感覚が、疲れた身体に心地良い。
「俺も俊平くんが四年になったら遊んでやる」
「その頃中戸さんも修士論文でしょ」
「あ、そうか。忘れてた。ま、院に行けたらだけどねー」
「中戸さんなら推薦でいけるんじゃないですか。内部受験だし」
「んー、けど、試験は受けなきゃいけないから」
 今は就職難で院への進学希望者も多く、倍率も高くなっているらしいという話は、俺も耳にしていた。
「いつですか?」
「九月」
 盆過ぎの合宿終えたらまた受験生だぁ! と言って、中戸さんは発泡酒を煽った。それまでは卒論に集中しているのかと問えば、そっちに集中するのは七月の中間発表までで、別件で共同研究もやっているという。その共同研究のプレ発表が、盆明けの合宿であるのだそうだ。
「発表は中心になってる修士の人がやってくれるんだけど、レジュメ作成とか手伝わないといけないらしくて」
「なんか、四年って大変そうですね」
「三年のが大変だよ。授業数多いし、うちは三年の間に研究室も決めなきゃいけないし」
「うえー。じゃあ、八城教授の研究室じゃなければ、もっと楽ですかね?」
「どうだろ? でも、うちって結構楽だと思うよ。原則は、週一のゼミしか出なくていいから。共同研究の方は希望者だけだから、今忙しいのは俺の自業自得。卒論のテーマをそれに関連したことにすれば楽ができると思って鹿間と希望したんだけど」
 なんだかんだと共同でやる方に合わせなければいけなくて、拘束時間が増えてしまい、半分あてが外れたと彼は言った。
「セコイこと考えちゃだめだねー」
「バイトは?」
「続けてるよ。適当に」
「身体壊しませんか」
 中戸さんは塾の講師と家庭教師のバイトを掛け持ちしている。研究室に泊まり込んでいた間も、バイトには行っていたらしい。教え子の中には受験生もいるから仕方ないのだろうが、彼だって本職は学生なのだ。俺は心配になってきた。
「なんだか痩せたみたいですけど」
「そうかな。とうぶん体重計乗ってないから分かんないや。俺から見たら、俊平くんのが夜勤なんかで身体壊さないか心配だけど」
 そう言って、空になったらしい発泡酒の缶を持って立ちあがろうとする中戸さんのTシャツは、心なしか身体にたいして大きく見える。誤ってワンサイズ大きなのを着てしまっているように。
 俺は流しに行こうとしているらしい彼を制して、買ってきたビールを差しだした。
「せっかく買って来たんだから、こっち飲みましょう。たまには奢りますよ」
「いいの?」
「そのつもりで買ったんで。あ、軽くつまみも作りましょうか? たしか冷蔵庫に生レバーがあったはず」
 バイト仲間の栗城の部屋で飲んだ時に奮発した残りだ。栗城はそんなに好きじゃないからと、俺が持たせてもらった。もう生では食べられないだろうが、火を通せば大丈夫だろう。
「やりぃ! 俊平くん大好き! プリン体万歳!」
 中戸さんははしゃいだ様子で、細くなった腕を伸ばしてきた。
「俺じゃなくてプリン体が好きなんでしょ。痛風になりますよ」
 ビールを渡しながらかろうじて普通に返したが、飲んでいる時にむせそうになるようなことを言わないでほしい。いや、本気なら大歓迎なんだけど。しかし、続けて出てきたセリフには、むせるどころかビールを喉に詰まらせるかと思った。
「んじゃ野菜も食べる? 今日実家から送って来たんだ」
 中戸さんはなんでもないことのように淡々と言う。
「玉ねぎとじゃがいもはベランダ。あとは野菜庫に突っ込んでる」
 俺はビールを置いて席を立った。「なんだろなんだろ」と鼻歌混じりに言いながら冷蔵庫へ向かう。ちょっとテンションがわざとらしすぎたかもしれないが、中戸さんは平然と、
「きゅうりとかトマトとか」
「きゅうりあるならいりこ味噌買っとけば良かった。もろきゅうできたのに。でも、何もつけなくても美味そうですね」
 野菜庫の中は、不格好だが新鮮そうな野菜で賑わっている。
「俊平くん、俺いない時でも適当に食べて。俺は腐らせるのがオチだから。形は悪いけど無農薬だって」
「ありがとうございます。助かります」
 冷蔵庫から顔を上げると、中戸さんは頬杖をついてビールを飲んでいた。
「偉いよねー。生鮮食品が送られてくると、インスタントのが助かるのにって嫌な顔する奴も多いのに」
「うちはどっちも送ってくれないんで」
 そう言う中戸さんも、決して嫌な顔はしないのだろう。どんなに嫌でも、ありがたく受け取るのが贖罪だと思っているように、俺には見える。笑顔でないとしたら、辛そうに、申し訳なさそうに、彼はそれを受け取るのではないだろうか。
 レバーをにんにくとオリーブオイルで炒めたものと、適当に切ったトマトにしょう油や酢を混ぜて作ったドレッシングのようなものをかけて出すと、中戸さんは見る見るそれらを消費していった。大した量もなくすぐになくなってしまったので、きゅうりとにんじんもスティック状にして生のまま氷水に浸けて出した。
 俺たちは明け方までとりとめもなく話した。俺たちと言っても、話していたのはほとんど俺だ。バイト仲間の中で花札とウノが流行っていること、ウノで俺は八連勝中であること。ウノの地域によるルールの違いについて。共通の知人である有川が、彼女と同棲したいと考えていること。でも、それをまだ彼女の箱辺さんには言えないでいること。家賃値上げのこと。それに関連して、バイトを変わろうかと悩んでいること。
 中戸さんの実家で採れた野菜をつまみにしておいてなんだけど、彼が実家のことなど考える隙がないよう、俺は必死で話を続けた。途中、室内の温度が下がりすぎたのか、自働運転にしていたクーラーの稼働音が止まった。中戸さんは俺の下手くそな話に、相槌を打ったり茶々を入れてきたり、時にはアドバイスをくれたりしながら、ビール片手に野菜をポリポリ齧っていた。
 その姿を見ていると、中戸さんは心身ともに健康そのものに見える。痩せたなんて気のせいで、Tシャツはもともとサイズを間違えて購入していたのかもしれない。実家からの宅配物なんか見たから、憔悴しているように見えたのかも。いや、ひょっとしたら今回は、実家からの荷物にだって動揺なんかしていなかったのかもしれない。俺の知らない間に、何か吹っ切れるようなことがあって、だからあんなに美味しそうに実家からの作物を食べているのではないか。
 嬉しそうに食べている中戸さんを見ながら喋っていると、そんな考えが俺の中で大きくなってきた。すべては俺の勝手な取り越し苦労で、中戸さんが起きていたのも本当に偶然だったのだとしたら。
「わ、すいません。外明るくなってきちゃった」
 カーテンの向こうが白んできことに気付き、俺は焦った。中戸さんも首をめぐらせて焼酎の入ったコップを置いた。テーブルの上には、今飲んでいる焼酎の瓶の他に、俺が買ってきた六缶パックに加え、中戸さんがストックしていた発泡酒三本の空き缶も並んでいる。五分の四は中戸さんの胃袋の中だ。
「ありゃ、ほんとだ。俊平くん、今日授業は?」
「あるけど講義だから寝られるんで。こんな時間まですいません」
 中戸さんが実家からの荷物に何も感じていなかったとすれば、俺がやったことは、彼にとってただの睡眠阻害でしかない。俺は申し訳ない気持ちでいっぱいになってきた。先週まであまり眠れない日々を送っていたのに、勘違いで徹夜させてしまうなんて最悪だ。
「俊平くんが謝ることないよ。俺も切り上げようって言わなかったし」
「でも、先週中戸さん寝てないのに」
 言いながら、流しに持って行こうと空き缶を掻き集めていると、放っておけばいいからと制された。昼まで出掛ける必要がないから、適当に起きて片付けてくれると言う。
「まだ五時前だから、俊平くんは少しでも寝て」
 そう言われて、俺は渋々部屋へ引っ込むことにした。本心を言えば、もう少しここにいたかった。せめて中戸さんが眠ったと分かるまで。往生際が悪いかもしれないが、中戸さんの部屋に面したこのダイニングなら、うなされていてもすぐに気が付けると思ったのだ。しかし、俺がここにいたら中戸さんが寝に帰り辛そうだったので諦めた。不思議と眠気はなかった。
 パチリと音がして、ダイニングが薄青くなる。中戸さんが電気を消したのだ。俺もリモコンを取ってクーラーを消した。中戸さんはベランダに続く掃き出し窓を開けている。カーテンをめくって隣に立つと、目の前の森林公園が朝露にけぶっているようだった。網戸の目を通って来る早朝の空気は、夜中の湿度が嘘のようにさらりと肌を滑る。まだ動き出していない角の信号機が、黄色を点滅させている。ベランダの室外機の横には、昨日の段ボール箱が置かれ、中から玉ねぎがのぞいていた。
 欠伸混じりに伸びをする中戸さんを見て、俺は「おやすみなさい」と踵を返した。やはり、実家からの荷物のせいで眠れないなんて俺の勝手な思い込みだったのだ。俺がダイニングで待機したって、中戸さんにはありがた迷惑なだけだろう。
 しかし、俺が自室にしている和室のふすまに手をかけた時、窓の方から声がした。
「ありがとう。助かった」
 驚いて振り向く。まさか、中戸さんは俺の意図に気付いていたというのだろうか。
 彼はカーテンの間から、ゆっくりと振り向いた。
「楽しかった。ご馳走さま」
 気のせいかもしれない。俺の感情が、そのまま彼の表情にうつって見えたのかもしれない。でも、その時の中戸さんの笑顔は、とても満ち足りて見えて。






 中戸さんのシグナルはいつも小さくて分かりにくい。本心はいつも、どこまで本気か分からない笑顔の下に巧妙に隠されている。そのせいで、反応するものが限られているにも関わらず、気が付くと手遅れであることが多い。
 だから俺は、少し行きすぎなくらいに先回りする。空回りかもしれない。間違っているかもしれない。でも、どんなに些細な符合でも見落とすことがないように細心の注意を払わなければ、きっと重大なことを見落としてしまう。中戸さんの表情ほどあてにならないものはないから。
 失敗することもあるだろう。でも、俺はきっと、青でも黄色でも、時には赤でも駆けつけてみせる。
 あの夢のように、気が付いたら目の前から消えていた、なんてことならないように。








数をこなす30題

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