発煙筒

 俺の同居人はちょっと変わっている。
 今は渡加部さんという女の子と付き合っているが、実はバイセクシュアルで、その前は同性である男と付き合っていたらしいし、何年か前のミスコンに女装で出て優勝したほどの美貌の持ち主であるにも関わらず、初対面の俺に同居話を持ち掛けて来るほど警戒心がない。顔だけでなく頭も良いらしいが、驕ったところや気難しい雰囲気は微塵もなく、何が楽しいのか、いつもにこにこ笑顔を振りまいている。そんなだから、敬遠する者もいるのだろうが、それ以上に憧れる者も後を絶たない。らしい。




 こんな話がある。
 ある日、大学のキャンパスでも最奥にある研究棟の裏の方から紫の煙が上がった。警備員が何事かと駆けつけてみると、そこにいた学生は、発炎筒を作ったので試しに使ってみたのだという。呆れながらも怒り狂いそうになった警備員に、彼は火薬の臭いをぷんぷんさせながらも悪びれる様子なく、にっこり笑って言ったそうだ。それはそれは女性アイドルも顔負けの、天使の微笑みで。
「今ので効果も立証されましたし、よろしかったら一本いかがですか? 市販のものよりお安くしときますよ?」
 その学生というのが、俺の同居人の中戸さん。
 その笑顔にコロッといっちゃった警備員は、その発炎筒を買ってしまったとかしまわなかったとか。




 その日はたまたま休講が重なって大学に行っていなかったのも手伝い、俺はそんな話、本気にしていなかった。中戸さんはおかしな噂の多い人だが、その大半は嘘か誇張だろうと疑いたくなるようなもので、事実、そうだと思うのだ。
 そんな俺が、その話を事実かもしれないと思うようになったのは、コンピューター教室での講義中のことだった。俺の前の席に座っていたのが渡加部さんとその友人で、たまたま彼女たちのヒソヒソ話が聞こえてきたのだ。
「ワタちゃん、その鞄から覗いてるの何?」
 渡加部さんの隣に座っていた女生徒が指差したのは、筒状に丸められた新聞紙のようだった。ただし、先端が捩じってあるので、読むために持ち歩いているようには見えない。
「発炎筒。グンジ先輩に貰ったんだ」
「発炎筒? 彼女にそんなものプレゼントするなんて、中戸先輩ってやっぱ変わってるねー」
 渡加部さんの友人の言葉には、「彼氏からとはいえ(だからこそ?)、そんなもの貰って嬉しいか?」という突っ込みめいた疑問が見え隠れしているようだった。
「うん、でもねぇ、これ先輩の手作りなの」
 そう言う渡加部さんの表情は見えなかったが、声には甘い響きがあって。
「それにね、私が『ピンチの時この発炎筒で合図したら、助けに来てくれる?』って訊いたら、にっこり笑って『いいよ』って」
 キャーッ! と小さく歓声を上げる渡加部さんとその友人。
 まさかよもや彼女にあげるために発炎筒を作っていたわけではないだろうが、その会話で、やはり先日の煙の犯人は中戸さんかもしれないと思ったのだ。
 そんな疑念が確信に変わったのは、そのさらに数日後のこと。大学の帰りに土砂降りに遭い、愛用のスニーカーをぐしょぐしょにしてしまった俺は、バイトには予備のを履いていこうと、マンションの備え付けの下駄箱を開けた。すると中から出てきたのだ。渡加部さんの鞄から覗いていたのと同じような、円筒状になった新聞紙の束が。
 直径二、三センチくらいの紙筒の側面には、マジックで『赤』『橙』『黄』『緑』などと色の名前が書かれていた。その中に『紫』と記されているのを見つけ、俺はその文字が煙の色を表しているのだと気付くと同時に、噂の人物は、やはり中戸さんであったのかと溜息を吐いたのだった。






 中戸さんとは基本的に生活習慣が違うので、同居していてもあまり顔を合わすことはない。もともと友人でもなければ知人でもなかったので、わざわざ一緒に飯を食ったり相手の帰りを待って起きていたりということもない。彼との同居生活は、人の気配のする空間で一人暮らしをしているようなものである。だからこそ、俺は彼の数ある噂話もよく知らなければ、その真相も知らないのだ。
 しかし最近はちょっと違う。深夜のバイトから帰宅すると、時々中戸さんが起きて待っていることがある。理由は渡加部さんで、つい最近まで彼女のいた俺に、女の子の好きそうな近隣のデートスポットを紹介してくれというのだ。彼は俺よりここの生活は長いのだが、大学に進学してから男とばかり付き合っていた(その前は女の子とも付き合っていたらしい)ため、女の子の好む場所の知識がないらしい。
 今日も何処かいい所はないかと悩んでいるのか、バイトから帰って玄関扉を開けようとしたら、廊下に細く灯の筋が延びた。
「あ、俊平くん、おかえり」
 よほど切羽詰ってるのか、お出迎えつきである。三つ指はついていないが、中戸さんは俺の湿ったスニーカーにドライヤーを当ててくれていた。三和土には、新聞紙が敷かれている。
「俺の靴ベチャベチャになって乾かしたからさ、ついでに俊平くんのもと思って」
「あ、りがとうございます」
 別にデートの場所を相談したかったわけではないようだ。乾かし終えたのか、中戸さんはドライヤーのコードをコンセントから抜くと、新聞紙を回収し始めた。彼のおかげで明日はいつものスニーカーを履けそうなので、俺も今履いていたものを仕舞おうと下駄箱を開く。すると必然的にあの筒が目に入って。
「あ、そういえばこれ、発炎筒ですよね? なんでこんなに大量にあるんですか」
 俺は紙筒を二本ほど手にして中戸さんの前で振った。
「ああ、地震とかの自然災害で電気もガスも使えなくなったら、これでお湯沸かしてコーヒー飲もうと思って」
 どうやら最近あった地震で危機感を覚えたらしい。が。そこまでしてコーヒー飲みたいのか、この人は。
「まさか、そのために発炎筒手作りしたんですか?」
 しかし、思わず口をついて出た俺の問いには、さすがの中戸さんもかぶりを振った。
「ううん。友達に作ってくれって頼まれて。高速でエンコして車の発炎筒使っちゃったらしい」
「で、ガッコで紫の煙出して、一本警備員に売ったんですか」
「よく知ってるねー。売ったのは二本だけど」
 中戸さんは新聞紙を丸めながら目も丸くした。噂になってますよと呆れたように言ってやると、結構目立つ煙だったしなぁと少々見当違いなところで納得する。
 目立つのは煙よりもあなたの行動です。
「あ、俊平くんも一本いる? お金はいいよ。元手なんてほとんど掛かってないから」
 丸めた新聞紙を再び三和土に下ろすと、中戸さんは下駄箱からさらに数本の発炎筒を出してきて、どの色がいいかと訊いてきた。
「困った時に煙を上げれば、俺が助けに向かいます」
 気が付けばだけどねーとにっこりする彼にちょっと心臓が跳ねてしまい、俺は自分にも、そして俺に向かってそんな台詞を吐く彼にも、おいおいおいおいと突っ込みを入れそうになった。
 何で嬉しい気がしてるんだ、自分。いやでも、ほら、中戸さん頭良いらしいから、テストの時とかに助けてもらえたら百人力って感じするじゃないか。いや、今は俺よりも中戸さんだ。何考えてんだ、この人。
「それ、渡加部さんにもあげたでしょ」
「うん、あげたよ。欲しいって言うから。意外と喜んでた」
「しかもあげる時、同じこと言ったでしょ」
「ありゃ、そこまで筒抜けなのか」
「他の人には言ってないでしょうね!?」
 三和土に立ったまま俺が詰め寄ると、中戸さんは狭い玄関で身を竦めた。
「ほ、他は言ってない」
 中戸さんはかぶりを振って否定したが、『他は』と『言ってない』の間には『まだ』という単語が入っているような気がして。
「いいですか!? 発炎筒は誰にあげてもいいけど、その台詞は絶対に言っちゃだめですよ!」
「う、ん。でも、なんで?」
 この野郎、女の子が発炎筒なんか貰って喜ぶわけがないだろう。
 小さくなりながらもきょとんとする中戸さんに、渡加部さんに今の会話を全部話してやろうかという気になる。
 渡加部さんが喜んでいたのは、それが中戸さんのお手製だったからで。そして何より、自分がピンチの時に中戸さんが助けに来てくれるというオプションがあったからで。それが他の人にも適用されていると知れば、彼女は落胆するか、怒りを顕わにするに違いない。
「渡加部さん、自分がピンチの時に中戸さんが助けに来てくれるって言ったの、すごく喜んでんですよ。それって、彼女である自分だけが言ってもらった特別な台詞だと思ってるからに決まってるじゃないですか。だから他の人には絶対に言っちゃだめなんです。いいですね!?」
「……は、はい」
 発炎筒を持ったまま両肩を掴んで捲くし立てれば、中戸さんはごくりと唾を飲み込んで素直に頷いた。俺の剣幕がよほど怖かったのかもしれない。
 俺は溜息を吐いて、中戸さんの肩を解放した。
「今言ったのは、渡加部さんには内緒にしといてあげますから」
 これ以上萎縮させてしまわないように、なるべく優しい声音を心がけて言う。それが功を奏したのかどうかは分からないが、中戸さんの表情は見る間に快復し、ワタボウシのような笑顔が咲いた。
「有難う」
 季節は冬。さっきまで起動していたドライヤーの熱で多少マシになっているにしろ、普段火の気のない玄関は、そこそこ気密性のあるマンションの中でも、一番か二番に寒い場所だ。そんな所にいるのに、どこかじんわりと暖かくなる。中戸さんの笑顔には、そういう効果があるようで。




 自覚しているのかどうかは分からないが、中戸さんはきっと、この笑顔でもって勘違いと狂気の種を蒔き、伸びてきたそれらの芽を同じ笑顔で刈り取って、なんとか無事に生きているのかもしれない。








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