絵葉書

 母親から、絵葉書が届いた。
 裏面には、彼女が現在住んでいる異国の景勝地の写真が。そして表面には、あて先や差出人住所の他に、自分の近況だとか俺の健康を心配しているだとか、そういったことがこまごまとした字で書かれていた。たしかに、手紙や葉書を送ってもいいかという彼女に許可は出したが、文面が馴れ馴れしくて胸クソ悪い。第一、『きちんと食事は摂ってる? どんなものを食べてるの?』なんて、海外からわざわざ送ってくる文面じゃないだろう。
「誰が返事なんか書くか!」
 『お返事待ってます』と締め括られた葉書をダイニングテーブルに叩きつけ、声に出して毒づく。その声に驚いたのか、洗濯物を取り込んでいた中戸さんが、ベランダから顔を覗かせた。
「葉書、お母さんから?」
「そうです。ったく、一度再会したくらいでいい気になりやがって。勝手に返事が来るって決め付けんなっての」
 俺の母親は、俺が小学生の頃に出て行った。それはまぁ、父親の要請であったようなのだが、俺は母親の方から出て行ったのだと思っていた。そうでなくても十年以上音沙汰なしで、もうどうでもいいやと思っていた矢先に、本人からの釈明を受けたのだ。弁解されたところで、一気にわだかまりが溶けると思ったら大間違い。しつこいと思われそうだが、十年以上放ったらかしにしたのだから、それ相応の態度を取ってほしいものだ。俺が返事を書くなんて、どの脳みそが考え付くんだか。
 掃き出し窓からは、早くも初夏を思わせる爽やかな風が入ってくる。
 中戸さんは取り込んだ洗濯物のはいった籠を提げて中に入ってくると、網戸とレースのカーテンを閉めた。薄いカーテンが舞い上がって棚引く。
「だいぶ気に障ることが書いてあったみたいだね」
 中戸さんは苦笑して、コーヒーでも飲む? と訊いてきた。俺は怒声で「いただきます」と返す。中戸さんに罪はないが、どうにもこうにも腹立ちが治まらない。
「葉書を寄越すこと自体が気に障るってんですよ。十年以上、何の連絡も寄越さなかったくせに。その上、俺が返事書くって決めてかかってるんですから。おめでたいにも程がある」
 興奮気味な俺の前に、すぐコーヒーカップが置かれた。どうやらベランダに出る前にコーヒーメーカーで抽出を始めていたらしい。ふわりと立ち上る香りにつられるように、俺は椅子に腰を落ち着けた。
「たしかに俊平くんの言うとおりかもしれないね」
 中戸さんは自分の分はマグカップに注いで、俺の向かいの席に腰を下ろした。両手でカップを持って肘を付き、ふーっと息を吹きかけてから、縁に口を付ける。そうやってしばらく、俺の悪態を黙って聞いてくれながら飲んでいたが、やがて耳を疑うようなことを言った。
「でもね、俊平くんには悪いけど、俺はきみのお母さんに感謝してる」
「え?」
「俺ね、今の生活、すごく気に入ってるんだ。なんか、俊平くんといるとホッとするし、同居人になってくれて、本当にありがたいと思ってる」
「それは……どうも」
 中戸さんは何でもないことのようにサラリと言ったが、俺は頬が火照るのを自覚してうつむいた。まさか、中戸さんがそんなふうに思ってくれているとは思わなかった。いや、ひょっとしたら、俺の怒りを沈めるためのでまかせに過ぎないのかもしれない。でも、面と向かってこんなことを言われるのは、やはり照れるものだ。
 俺はどう見たって癒し系の部類ではない。強いて分類するなら脅し系とでも言おうか。ドキドキする(いい意味も悪い意味も含めて)とか怖い感じがすると言われたことはあっても、ホッとするなんて言われたのは初めだ。しかも、正真正銘の癒し系マスクを持つ中戸さんに言われるとは。
 中戸さんは穏やかに続ける。
「俊平くん、前に言ってたよね。人の心は移ろいやすいものだから、噂話や人の目を気にして右往左往するのは馬鹿らしい、みたいなこと。あれってさ、お母さんが出てっちゃったからそう考えるようになったんじゃない?」
「……たぶん」
 たぶんじゃなくて、その通りだ。人の心は簡単に変わってしまうということを、そしてそれが揺るがし難い事実であることを、何よりも強烈に俺に植え付けたのは、やはり母親の家出だった。
「俊平くんがそういう考えの人だったから、俺とも同居する気になってくれたんだろうし、俺の噂も気にしないでここに居てくれてるんだと思う。だとすると、きみのお母さんの取った行動は、俺にとってはありがたいもの以外の何ものでもないよ」
 俺は、中戸さんの言葉を信じられない思いで聞いていた。
 彼女が出て行ったからこそ、今の生活がある。
 それは俺も考えていたことで。だからこそ、母親にも再会する気になったわけで。
「間接的ではあるけど、俺にとっては恩人みたいな人だ。幼い俊平くんを傷付けたのは許されることじゃないし、それをありがたいと思う俺は、きみにとって最低な人間にあたると思うんだけど……」
 中戸さんは幾分辛そうに目を伏せた。
「本気で……そんなこと……」
 思っているのだろうか。同じことを思っていると、信じてもいいのだろうか。
「気を……悪くさせちゃったよね。勝手なこと言ってごめん」
 俺が怒っていると思ったのか、中戸さんは窺うように俺を見て、頭を下げた。そして顔を上げると、今度は真っ直ぐに俺の眼を見据えて、
「でも俺今、すげぇ幸せだから」
 それだけ言って、マグをあおるようにして、残りのコーヒーを飲み干した。
 これは怒り狂う俺を窘めるための方便だ。そう自分に言い聞かせても、顔が熱くなるのが分かる。
 どうしてこの人は、そういうことを簡単に口にしてしまえるのだろう。言う方も言われる方も、恥ずかしくて顔を逸らしてしまいたくなるようなセリフを。そして俺は、そんなセリフに、どうしてこんなにふわふわした感覚に陥るのだろう。いつもの俺なら、絶対に何を言っているのかと笑い飛ばすのに。
 中戸さんはいつも『上の空』なくせに、こういう時に発する言葉はいつも、俺の乾涸びた心を潤おして、ガキの頃に還ったみたいに泣きたいような気持にさせる。そのたびに俺は戸惑うばかりで、どんなに救われていても、どんなに感謝していても、それを伝えるだけの言葉を持たない。でも、たとえ何も言わなくても、中戸さんはどこか、そんな時の俺の気持ちを分かってくれているような気がしていた。
 しかし。
 彼は、空になったカップを持って、勢いよく立ち上がった。
「ごめん。何言いたいのか分かんなくなってきた」
 うつむいて早口にそう言うと、小さな声でもう一度ごめんと謝り、テーブルを回って俺の方へやってくる。キッチンスペースには俺の座っている方からでないと入れないのだ。
 あ、簡単じゃなかったんだ……。
 焦ったような物言いと思いつめたような横顔、そして逃げるような足取りに、そう思った。簡単に口にしたわけじゃない。中戸さんは、俺の気持ちを慮って喋り、結果、言わなくていいことまで言ってしまったと後悔しているのではないか。そんな気がした。
 中戸さんが足早に俺の後ろを通り過ぎようとしたその時、俺は彼の腕を掴んだ。やっぱり言わなきゃ伝わらない。そしてこれは今言わないといけない。そう思ったから。
 中戸さんが振り向いたのを見計らい、眼を見てはっきりと宣言する。
「あの俺、気を悪くなんてしてませんから。俺も今の生活気に入ってるし。それに、」
 そこまで言って口ごもる。この先はさすがに、眼を見てなんて言えなくて。俺は、中戸さんの腕を掴んだまま、ゆるゆると顔をうつむけた。
「それに……同じこと、俺も思ってましたから」
 掴んでいた腕から強張りが抜けていき、頭上からホッと安堵するような声が降ってきた。
「……有難う」
 顔を上げると、そこには絵葉書の景勝地よりも遥かに鮮やかな笑顔があって。






 部屋に戻って絵葉書を眺めながら、少しだけ、前向きに考える。
 この葉書がきっかけで中戸さんからあんな言葉を引き出せたのだから、一言くらい、何か送ってやってもいいかもしれない。
 俺は、いつも『上の空』のはずの中戸さんの言葉を、今日ばかりは信じてもいいような気がしていた。








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