二日酔い

 

 俺の部屋である六畳の和室。ダイニングから射し込む明かりが、白い肩先を浮かび上がらせる。器用にも、頭だけ右に向けてうつ伏せに寝ている中戸さんは、先程までの醜態が嘘のように、天使のような顔で安らかな寝息を立てていた。眩しいのか、右手を目の辺りで軽く握っている。そのせいで右側の肩が少し浮いて、そこに光が集中しているのだ。
 肩甲骨が影をつける、華奢な背中。傍らに膝をつき、汗で顔に張り付いた髪を払ってやると、「ん……」と微かな吐息を漏らした。しっとりと湿った肌は、冷房のせいか少し冷たくなっていて。
 俺は手近にあったタオルケットを中戸さんの剥き出しの背に掛けると、その肩に、唇を寄せた。
 ほんの少しの罪悪感を抱きながら。
 






 翌朝。俺がダイニングテーブルに突っ伏していると、中戸さんが青白い顔で俺の部屋から出てきた。半裸でジーンズの前を留めながら、浴室の方へ向かう。しかし、小一時間ほどして出てきた彼は、お世辞にもさっぱりしたとは言えない顔をしていた。ランニングから出ている肩や腕は、赤く火照って湯気を上げているにもかかわらず、である。
「……飲みすぎた……。頭痛い……」
 よろけるようにいつも使っている椅子に腰を下ろすと、そのままダイニングテーブルに沈没する。
「水持ってきましょうか。冷蔵庫に桃もあるけど食べます? 二日酔いにいいって聞いたことあるけど」
 浴室からしていた激しい水音を子守唄にうつらうつらしていた俺は、中戸さんと交代するように身を起こした。立ち上がろうとして突然襲ってきた痛みに、尻を押さえる。
「っ痛ー」
「どしたの? お尻」
 中戸さんは顎をテーブルに付けたまま、顔を上げた。寝惚けながらも心底心配といった声音に、却って俺の怒りに火が付く。予想はしていたが、やっぱり憶えてないのか、この人は。
「どしたのじゃないですよ! 中戸さんのせいですよ!」
「へ? 俺? 俺、何か……?」
 俺の怒声が頭に響いたのだろう。顔をしかめながら悲痛な声で問い返してくる。
「何かじゃないですよ、全く。どうせ憶えてないだろうとは思いましたけどね。で、桃はどうします?」
「ほんとごめん。水だけでいい。身体ん中は空っぽな感じがすんのに、なんか食欲ない。食べたら吐きそう。けど、精も根も尽き果てて、吐くのも無理そう」
「そりゃ、あれだけ出せば身体も空っぽになるし、精根も尽き果てるでしょうよ」
 俺は呆れた。あれだけ出してもまだアルコールが残っているとは。どんだけ飲んだんだ。
「え、ちょっと待って」
 中戸さんはがばりと起き上がったかと思うと、頭痛がしたのだろう、こめかみを押さえながらぎゅっと目を瞑った。そして、俺の言ったことを反芻するように呟く。
「俊平くんのお尻が痛いのが俺のせいで、あれだけ出せばって……」
「ほんと、すっげぇ痛かったんですから。死ぬかと思った」
 死ぬかと思ったは言い過ぎだが、憶えていない方が悪い。俺はわざと大袈裟に言った。
「そういや俺、なんで俊平くんの部屋で寝てたの? それに俺のTシャツ……」
 中戸さんは蒼白になって、今更のように初歩的なことを訊いてくる。
 ここで俺が自分の部屋に連れ込んで何かしたと思われたらまずい。俺は冷蔵庫から出してきたミネラルウォーターを中戸さんの前に置くと、一気に捲くし立てた。
「部屋は何かの資料が床中散乱してて、入れなかったんです。卒論やら学会とかのだったら、汚れたり破れたりしたらまずいと思って。それで仕方なく俺の部屋に。Tシャツは中戸さんの出したモノでぐちょぐちょになったから洗濯しました。俺にまで豪快に引っ掛けたのに、ジーンズ汚れなかったのが奇跡ですよ」
「え、え、ちょっと待って。それって……まさか……」
 ミネラルウォーターに伸ばそうとした手を中空で止め、中戸さんは顔を引き攣らせた。蒼白だった顔が見る間に紅潮していく。そしてすぐさま俺から視線を逸らし、文字通り、頭を抱えた。
「いや、でも、そんなことは……そんな形跡なかったし……けど……」
 昨夜自分のしたことを推測しているのだろう。テーブルに肘をついて腕を立て、額を手に押し付けるようにして、ぶつぶつ言っている。
 その様子を見ていると、何故か加虐心が疼いてきて。
「俺、シャワー浴びたばっかだったのに、もっかい浴びるハメになったんですから。ほんと、酔っ払い介抱しようとしてあんな目に遭ったのって、初めてですよ」
 そっぽを向いて腕を組み、わざと怒ったように言ってやった。その効果は絶大だったらしく、中戸さんはがばりと立ち上がると、テーブルに両手をついて、深々と頭を下げた。
「ごめん! 俺、まったく憶えてなくて……。この償いは一生かけてでもするから! 謝って許されることじゃないと思うけど、本当ごめんなさい!」
「え、いや、一生はかけてもらわなくても……。てか、頭上げてください」
 中戸さんはテーブルに頭を擦り付けるようにして、身を折っている。立った状態とはいえ、なんだか土下座をされているようで、俺としては落ち着かない。
 しかし、俺が顔を上げさせようとしても、中戸さんは聞き入れなかった。
「だって俺、最低じゃん。俊平くんに合わせる顔がない……」
 辛そうに眉を寄せ、頑なに俺から赤い顔を逸らす。その表情がまた加虐心を煽るのだが、本人は分かってないのだろう。
 けれど、その後慌てることになったのは、俺の方だった。
「もうほんと、いい部屋見つかったら出てった方がいいかも。なんなら、俺出てこうか?」
「いや、すいません。さっきの言い過ぎました。ほんとはそんな怒ってないです。ちょっと意地悪したくなっただけで。そんな気にしないでください。尻なんて湿布貼っときゃすぐ痛みも取れるだろうし」
 俺は必死に言い募った。ここを出て行くなんて冗談じゃない。でも、俺が残ったとしても、中戸さんが出て行くなら意味がない。
 それが功を奏したのか、中戸さんはやっと顔を上げた。
「湿布?」
「あ、湿布なんかなくても、打ち身なんて二、三日で治るだろうし。ゲロかけられて突き飛ばされたくらいで、俺も大人げなかったっつーかなんつーか……」
「げろ……」
 中戸さんは茫然と呟いて、頑なに逸らしていた顔を俺に向けた。
「えっと、俺、具体的に何したの? 玄関の鍵がなかなか開かなくて苦戦してたのまでは、なんとなく憶えてるんだけど……」
「だから、俺が中から鍵を開けたんです」
 どうやら見当違いの推測をしていたらしい中戸さんに、俺は昨夜の詳細を説明した。
 




 バイトから帰ってシャワーを浴び、俺が布団を敷いていると、玄関扉がガタガタ揺れるような音がした。ドアスコープから覗いてみると、半ば予想したとおり、それは中戸さんで、鍵を開けるのに苦戦しているようだったので、中から開けてあげたのだ。
 倒れ込むようにして入ってきた中戸さんは、俺に支えられて立ったままスニーカーを脱いでいる状態で嘔気付き、俺の寝巻き用のTシャツに吐瀉。それでも吐き気が治まらなかったらしく、そのまま俺を突き飛ばしてトイレに直行。その時、俺は無惨に尻餅をつき、尻を強かに打ちつけたのだ。
 その後、俺が汚れたTシャツを脱ぎ、シャワーを浴びなおしても、中戸さんはまだトイレから出てくる様子がなかった。それで俺は、水を運び、中に入って吐くのを手伝い、しくじって汚したらしいTシャツを脱がせ、濡れタオルで身体を拭いて、彼の部屋に連れて行ったのだが。
「何ここ。足の踏み場がねぇ……」
 いつも整理されて床には何もない状態のはずの中戸さんの部屋は、本と印刷物の山で散乱しており、とても人ひとり引き摺って運べる状態ではなかった。
 仕方なく俺は、自分の部屋に中戸さんを運んで、自分のために敷いていた布団に寝かせたのである。
 中戸さんの部屋には入れなかったので、着替えすら運び出せず、彼は上半身裸のままだったが、夏だからいいかと放っておくことにした。逆に下のジーンズの方が暑苦しく見えた。気持ち悪そうに腹の辺りを押さえていたし、ジーンズでは寝苦しいかと思い、こっちも脱がそうかと思ったが、ベルトを抜いて前を寛げたところで、やましいことをしている気がしてきたのでやめた。
 酔っ払いに布団を明け渡したとはいえ、夏場だから畳でごろ寝しても良かったのだが、半裸の中戸さんが寝ている部屋で寝られるわけがない。そこで俺は、ダイニングのテーブルに突っ伏して寝ていたのである。
 




 俺の話(もちろん、あやしい部分は省いて)が終わると、中戸さんは安堵したように「なんだ」と呟いた。あろうことか、良かったなんて言っている。俺はちょっと不貞腐れて中戸さんを睨んだ。
「どこが良いんですか」
「あ、ごめん。良くないよね。十分悪いよね。すみません。お世話になりました。反省してます。ガス代と電気代、今月分は俺が全額払わせていただきます」
 中戸さんはまた小さくなってペコペコ頭を下げ始めた。まだ二日酔いが治まってないらしく、顔をしかめてこめかみを押さえながら。しかし、そこに先程までの危機感はなさそうに思えて。
「中戸さん、自分がどんなことをやらかしたと思ってたんですか。これよりひどいことやったと思ってたみたいですけど」
 俺は素朴な疑問を投げかけただけのつもりだったのだが。
「いや、それはちょっと……」
 中戸さんは再び赤くなって口ごもった。ますます気になる。
「何、そんなにひどいこと想像してたんですか?」
「……言ったら出て行かれそうだからやめとく」
「言わないなら、本当に出て行こうかな」
 イチかバチかだ。俺がそう言って立ち上がると、中戸さんは真っ赤になってごめんと叫んだ。
「ごめん! ……掘ったかと思った」
 ごめんの後は、消え入りそうな声だった。
「えーっと……それは……?」
「……ゴーカンしたかと思いました」
 ゴーカン。強姦? 中戸さんが? 俺を?
 腰が抜けた。へなへなと椅子にへたりこむ。
「そういうことしたことあるんですか?」
「や、ない。と思う。けど、べろべろに酔って気が付いたら野郎と寝てたってのは何度かあって。それがどういう経緯でどっちが突っ込んだのかとか、いつもまったく憶えてないから」
 起きた時の自分の身体の具合や相手の反応で、なんとなく分かる程度だという。飲み過ぎて意識がなくなって、気が付いたら男とって話は聞いたことがあったけれど、それはすべて中戸さんの方が女役だと思っていたのだが。まぁ、この人も一応男だもんな。
 しかし、そこまで記憶に残らない行為ってどうなんだ。男同士ってそんなもん!? てか、そんな悩ましげな顔で突っ込むとか言わないでください。
「やっぱこういうの聞いたら気持ち悪いでしょ? ほんと、無理せずいいとこ見つかったら出てっていいから。俺、飲みすぎで迷惑かけたの二度目だし」
「俺、出てった方がいいんですか?」
 疲れたように、でも、悲しそうに目を伏せる中戸さんに、一縷の望みをかけて訊いてみる。
「中戸さんが出てって欲しいって言うなら、出て行きますけど」
「そりゃ、出てって欲しくはないけど……。でも、」
「だったら、今月分の電気代とガス代お願いします」
 でも、の先なんて言わせない。欲しい答えを貰った俺は、さばさばと言って椅子から立ち上がった。バイトまでまだ時間がある。やはり座って寝るのはしんどい。少しでも、身体を横たえて眠りたかった。
「それだけでいいの?」
「中戸さんが寝てる間にちょっと仕返しさせてもらいましたから」
 すまなそうに追ってくる視線に、そう笑ってみせる。
「仕返し?」
 眉を顰める中戸さんが、それに気付くことはないだろう。彼の右肩の裏にある、小さな鬱血の痕に。
 






 


 


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