オマジナイ

俺は今日、初体験中だということを知った。
去年の九月に開院したばかりだという、小洒落た外観の明るいクリニック。一見優しそうではあるものの、どこか真意の掴めない若い医師が、俺の鼻水を調べてインフルエンザであると診断を下したのだ。生まれてこのかた罹ったことのない病名に、生まれて初めて体験する三十九度を超える高熱の原因を思い知った。
「こりゃB型だね。え? リレンザ切れてる? きみは・・・・・・ああ、今年二十歳になるのね。なら、もういいか」
そんな、いかにも『ありあわせのもので済ませたけど、まぁいいか』な感じで出された薬は、十代の異常行動が問題視されているインフルエンザ特効薬、タミフルだった。






 「これ飲んで死んだら、あの医者のせいだ」
 熱でぼやける視界の中、黄色と白のカプセルを睨みつけて呟く。すると、水を汲んできてくれた中戸さんが、クスクスと笑い声を漏らした。
「何がおかしーんですか。俺、今から死ぬかもしれないんですよ? 中戸さんは俺が死んでもいーんですか」
「いや、そんなことないけど」
「そーなんだそーなんだ。俺なんて死んじゃえばいいと思ってんだ。そしたら遠慮なく男でも女でも連れ込めますもんね」
 俺は中戸さんに背を向けて布団を被った。掛け布団越しに、柔らかな声が降ってくる。
「だから、そんなこと思ってないって」
「いーですよ、俺なんて中戸さんの射程圏外の人間だし、いなくなったってどってことないんでしょ」
「どってことあるよ」
「どうせ家賃に困るからでしょ」
「そりゃ、それもあるけど……って、俊平くん、そうやって薬飲むのから逃げてるでしょ」
 バレたか。
 俺はがばりと起き上がって訴えようとしたが、実際には手をついてゆっくりとしか起きられず、さっき拗ねて布団に横になったことを後悔した。
「だってタミフルですよ、タミフル! 何人も人が死んでんですよ!? そこのベランダから真っ逆さまとか、冗談じゃないですよ!」
「でも、あの異常行動はタミフルのせいかインフルエンザ脳炎のせいかってまだ解明されてないし」
「そんなこと言って、俺が異常行動に走ったら放っとくんでしょ」
「ちゃんと止めるって」
「中戸さんの見てない時に異常行動起こすかも」
「良くなるまでは、ずっと看てるから」
「うそだー。これ飲めって言うってことは、俺が死んでもいいと思ってるんだー。どうせ俺はホッペにチューすら躊躇われる男ですよ。他の奴ならオプションまでやるくせに」
 言ったそばから涙が溢れてきた。アホな話だが、自分で自分の言葉にショックを受けたのだ。中戸さんが俺を何とも思ってないのは分かりきってたのに。しかもその方がいいはずなのに。何故だか絶望的な気分になってくる。
 最近変な奴に絡まれているし、桜の季節も終わろうとしているのに今更のようにインフルエンザなんかには罹るし、踏んだり蹴ったりだ。どうせなら、もういっそこのまま死んでしまいたい。
「そんなこと思ってないってば。俺も三年前飲んだけど何ともなかったし、俊平くんがしんどそうにしてると、俺も辛いから」
 布団に顔を埋めて泣いていたら、優しく背中を撫でられた。
 この人はこういう時、不思議と的確に欲しい言葉をくれる。しかし、俺が次にした質問には、一瞬背中をさする手を止めた。
「じゃあ、俺のこと好きですか?」
 手の動きと一緒に、返事も止まる。
「はいはい、大好きですよ。だからあんまりおかしなこと言わないでね」
 すぐに穏やかに肯定されたが、その声は明らかに苦笑を含んでおり、子供を諭すような響きさえあった。
「今、間があったー。やっぱ死んでもいいと思ってるんだー」
「俊平くん、自分でも何言ってるか分かってないでしょ。熱で人格変わってるよ」
「俺はもともとこんなです! 卑屈で情けないガキなんです!」
 そう喚いたものの、人格が変わっているのは自覚していた。いつもなら絶対にこんなことは言わないし、人前で恥ずかしげもなく泣いくような真似もしない。なんかおかしなことまで言っているような気がするが、構っている余裕がないのだ。
 どうなったんだ、俺は。どうなっちゃうんだ、このまま。
 どうしようもなく襲ってくる恐怖と不安と心細さ。それに、ものすごい孤独感。
 これが全部、ただのインフルエンザウィルスの仕業だっていうのだろうか。実はこれは新型の強力なウィルスで、タミフルなんて効かなくて、特効薬も何もなくて、薬を飲んでも……残念! なんてことになるんじゃあ……。
「そんなに飲みたくないなら飲まなくていいから。ちゃんと布団掛けて寝てよう?」
 中戸さんはそう言うと、俺を横たえて布団を掛けた。俺はそうでなくても身体に力が入らなかったのに、泣いたせいかよけいに気力がなくなって、もうされるがまま。ひりつく視界に映る中戸さんを見て、この人を見るのもこれが最後かもしれないなんてぼんやりと考えていた。
「じゃあ、氷枕換えてくるから」
 中戸さんが立ち上がって、電気の紐を二度ほどひっぱる。視界が薄暗くなって、ぼやけていた中戸さんの顔が更に見えにくくなった。漠然としていた不安が、一気に重力を持って圧し掛かってくる。
「……かと、さん」
「ん?」
 中戸さんが振り向く気配がする。
「一人に……しな……でくださ……」
 自分でも何を言っているのか分からないまま泣きながら懇願すると、中戸さんはすぐに戻ってきてくれた。左手がリンパあたりをなぞって頬に添えられる。中戸さんの手は冷たくて、熱を持った身体に気持ちいい。
「氷入れ替えたらすぐ戻ってくるから」
「ほんと、に?」
 頬に当てられた手を握って問い掛ける。できれば離したくはなかった。
「うん。そしたらずっと傍にいるから」
「タミフル……飲んでなくても?」
「飲んでなくても。俊平くんが元気になるまで傍にいるよ」
「だったら俺……」
 元気になんかならなくていい。
 何故そんなことを思ったのかは分からない。たぶん、それくらい心細かったのだろう。でも、熱の力を借りてでさえ、そんなことは言えなくて。
 何? と首を傾げる中戸さんの手を、力の入らない手で精一杯強く握る。でも、そんなことで気持ちが伝わるはずもなく。
「大丈夫。俊平くんはすぐ良くなるよ。俺、ずっとついてるから」
 そう言って、反対の手で頭を撫でられた。
 俺は声にならない声で違うと訴え、俺の声を聞き取ろうと近づいてきた頭にもう一方の手を伸ばした。その手が中戸さんの首筋を掴まえると、彼は少し困ったような顔をして、俺に覆い被さってきた。涙で滲んだ視界が中戸さんの肩先で覆われる。中戸さんは俺の耳元に小さく謝罪の言葉を吹き込むと、眉間に柔らかいものを落としてきた。
 それは、いつか頬に感じたのと同じもので。
 それから中戸さんは身を起こすと、呆然とする俺に幾分すまなそうな笑みを浮かべ、
「早く良くなるオマジナイ」
 そう言って、俺の手から逃れて部屋を出て行った。






 それから俺は、三日三晩に渡って四十度ぶっちぎりの熱を出し続けた。よく脳障害を起こさなかったものだと思う。
 中戸さんは「四十八時間以内に薬飲まないからだよ」と言っていたが、あの熱の一部は、インフルエンザのせいではないような気もする。




 中戸さんがしたあのオマジナイ。
 朦朧とした意識の下、何度も夢じゃないかと疑い、思い返したあの感触。あれが俺の熱を上げ、長引かせた可能性もないとは言い切れないと思うのだ。
 それが何故かなんて分からないけれど。








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