宅急便

 昼過ぎに宅急便が来てからずっと、飯はおろか、俺は便所に行くのも我慢していた。今日はバイトも大学も休みで、ここぞとばかりに惰眠を貪っていたのが災いした。いないと思っていた中戸さんがチャイムの音に反応してから数時間、彼はほとんど玄関から動いていない。一度自室に戻ったと思ったら、また出てきて玄関でごそごそやっていた。そしてそのまま、ダイニングの戸も玄関の戸も開く気配がしないのだ。ダイニングに引き返さなくても浴室やトイレは利用できるが、それらの扉が開閉する音や水音も全くしないから、これは玄関でじっとしているとしか思えない。
 出て行き辛ぇ……。
 俺はダイニングに続く引き戸に頭を押し付け、耳をそばだてたままため息をついた。
 最近、俺は同居人の中戸さんと顔を合わせないようにしている。中戸さんはちょっと変わった人で、男でも女でも来るもの拒まず去る者追わず。恋愛やセックスにおいてもそのスタンスなので、ある意味かなりユルイ人だ。実際、そのせいで同居人がころころ変わっていたらしい。それに懲りたのか、話したことがなかったにも関わらず、彼はそういう心配のなさそうな俺を同居人に選んだ。俺自身、そっちの気はまるでなかったのでそれなりにうまくやっていたのだが。
 ……気づいちゃったんだよなぁ、自分のキモチってやつに。
 そう、いつの間にか、俺もそれまでの同居人たちと同じ穴のムジナになっていたのだ。いつも浮かべている柔和な笑顔に、時々過らせる空虚な瞳。あの笑顔の傍に在りたいと思った。あの瞳をどうにかしたいと思った。誰よりも近いところであの人を守りたい。そして、誰にも渡したくない。しかし、この先まで今までの輩と同じ轍を踏みたくもない。
 俺の気持ちがバレれば、まず同居は解消されるだろう。だからバレないようにと、こうして会わないようにしているのだが。
 用事がある時や何も思っていない時には、会おうと思ってもなかなか会わないのに、自分の気持ちに気付いた途端にこれだ。何かの嫌がらせだろうか。中戸さんは家に居ても、ほとんど部屋に籠ってる人なのに。向こうは向こうで、俺は出かけているとでも思っているのかもしれない。
 起きてから一歩も部屋を出ていない俺は、このままでは膀胱が破裂すると思い、意を決して和室を出ていこうとした。しかし、そこで中戸さんが動きを見せた。ダイニングの扉が開く音に続いて、洋間の戸が開く音がする。中戸さんが自分の部屋へ返ったのだろう。俺はこれ幸いと、入れ違うように部屋を飛び出してトイレに走った。そして俺が用を足している間に、中戸さんは出かけて行った。後で時計を見ると、もう四時半を回っていた。
 中戸さんの居たであろう玄関には、三和土に紙袋を蓋にした発泡スチロールの箱が置かれていた。袋の下から、プツップツッと妙な音がしているような気がしたが、気味が悪いので聞かなかったことにした。






 一日の大半を無駄にしてしまった俺は、その後も一人、だらだらと過ごしていた。溜まった洗濯物から目を逸らせ、たまにはこういう日もあってもいいかと自分を正当化してみる。中戸さんはおそらくバイトだろう。それなら九時までは帰ってこないなと当たりをつけて、俺は八時前からダイニングでテレビを見ながらカップラーメンを啜っていた。もう少しで食べ終わるというところで、これだけではとても足りないことに気付き、安売りの時に買い込んでいたレトルトの白飯を出してくることにした。行儀が悪かろうが体に悪かろうが、俺は飯にカップ麺の汁をつけて食べるのが好きだ。麺が少し残っているとなおいい。つまり今は、白飯を投入するには絶妙の状態なのだ。
 しかし、今日はとことん間の悪い日なのか、自分の食料棚を漁りに行くとマンション備え付けの電話が鳴った。中戸さんもいないし居留守を使おうかという考えが浮かんだが、自分にかかってくる可能性もないわけではないので、仕方なく出ることにする。中戸さんへの用件なら、紙にでも書いてダイニングのテーブルに置いておこう。
 受話器を取ると、やはり自分には聞き覚えのない声が聞き覚えのない名前を名乗った。
「柴森と申しますが、こちら、中戸群司の部屋の番号では……」
 年配の女性の声だ。俺の声に戸惑っている様子だが、基本的に明るくて上品な印象を受けた。でもまさか、中戸さんの恋人ってわけじゃあ……ないよな。
「中戸さんなら出かけてます。帰って来たら折り返すように伝えましょうか?」
「あ、いえ、今日はちょっと家にいないし、またこちらから掛けるからいいわ。あなたは、あの子のお友達?」
「え、」
 急に親しげに質問されて、答えに詰まった。同居はしているが、中戸さんは年上だし、友達とは少し違う気がする。
「私、あの子の親代わりなんだけど、あの子、大学のお友達のこととかあまり話してくれないから。部屋にもね、友達と同居してるから来ちゃダメって言うんだけど、どんなお友達と住んでるのかはほとんど教えてくれないの」
 『親代わり』という言葉にどきりとした。ではこの人が、中戸さんの養母であり、彼の心身に損傷を遺した養父の奥さんなのだろうか。
「やっぱり男同士の方が気楽なのかしらね。主人とはそれなりに打ち解けて、二人で部屋にこもって話したりもしてたみたいなんだけど、私には表面上は懐いてくれてるようでも、あたりさわりのない話しかしてくれなくて」
「はぁ」
 この人は、本当に気づいていないのだろうか。彼らが部屋で何をしていたのか。自分の夫が、中戸さんにどんなことをしていたのか。そしてその夫の葬式の夜、自分の息子たちが、彼に何を強いたのか。
「その主人も少し前に亡くなってしまったから、あの子が相談できる人がいるのかちょっと心配で」
 学校ではどんな様子かと訊かれて、返答に困る。まさか、言い寄ってくる人と簡単に寝ちゃうことで有名です、なんて言えるわけがない。それを言って、「元はといえば、あんたの旦那のせいだろ!」と怒鳴ってやりたい気持ちもないではなかったが、それをやってしまったら、間違いなく中戸さんに迷惑がかかる。結局、自分は同居人だけど後輩だから、学校での様子はよくわからないと答えた。
「でも、中戸さん頭良いって話で、教授とかにも頼られてるみたいですよ。友達も多いみたいだし」
 ただ、相談できる人がいるのかどうかは謎だった。養父や義兄とのことは、たぶん俺しか知らないだろう。しかし、それも俺が無理やり喋らせたから口を割っただけで、自ら頼ってきたわけじゃない。中戸さんは自失状態になると人に縋ることがあるけど、頼るというのとは違う気がする。上の空で縋り、上の空で抱かれ、正気に戻ればこの部屋に帰って何事もなかったように過ごすのだ。にこにこ笑って楽しそうに。悩みなどないかのように。
 養父には、頼っていたのだろうか。肉体関係を結ぶ時は上の空でも、その他の時には心を開いていたのだろうか。ありえないと思いつつも、嫌な疑念が浮かぶ。
「そう。良かった」
 俺の適当な答え(でも嘘ではない)でも、柴森夫人は安心したようだ。「あの子のこと、よろしくね」というのが別れの挨拶だった。
 あの玄関の発砲スチロールは、彼女が送ってきたらしい。中戸さんが好きだからと、採れたてのアサリを大量に詰めて。箱からしていた妙な音は、アサリが潮を吹く音だった。






 ダイニングでメモ帳を広げ、どう書置きしたものかと思案していると、中戸さんが帰ってきてしまった。鍵を開ける気配に、部屋に引っ込もうと慌ててテレビを消して筆記用具を掻き集める。しかし、電話があったことは伝えなければならない。けれど、それが彼の養母からとなると、伝えるのがためらわれる。
 電話取るんじゃなかったな。舌打ちしたい気分で頭を抱えていると、中戸さんがスパスパとスリッパの音をさせて入ってきた。
「ただいまー。俊平くん、今日はいたんだ?」
「おかえりなさい。今日は俺、バイト休みだったんで」
 電話があったと伝えなくては。でも、この場合何て言えばいいんだろう? 柴森さんは実家から掛けてきたわけじゃないから、実家からというのも違う気がする。中戸さんは養母のことを『母親』と言っていたが、『おかあさん』と呼んでいるのかどうかは分からない。おばさんから? おかあさんから? 柴森さんから?
「あ、今日、俺の実家から電話なかった?」
 俺がどうでもいいようなことで懊悩していると、向こうがさらりと訊いてきた。
「え、あ、はい。少し前に。折り返すように伝えましょうかって言ったら、出先からだからいい、また掛けるって」
「昼間にこっちから掛けても出なかったのはそういうことか。宅配来たから掛ってくると思ってたんだよね」
 こりゃ実家かなとうそぶいて、自室に入っていこうとする。帰省したら必ずと言っていいほどおかしくなるくせに、家からの宅急便などなんでもないことのように。
 しかし、部屋に入る寸前、中戸さんはチラリとこちらを振り向いた。
「ごめん。変な気遣わせちゃったでしょ。母親、俺の携帯の番号知らないから。同居してるっていうんで、何か言われたんじゃない?」
「え、と、まぁ」
 よろしくってと口の中でごにょごにょ答えると、もう一度「ごめんね」とすまなそうに微笑まれる。
「今までは同居しててもマンションの電話に出る人いなかったから、俊平くんも使ってること忘れて出かけちゃって」
 その笑顔が、どこか泣き笑いの表情に見えて。俺は直感的に悟った。
 なんでもないことなんかじゃない。平気じゃないから、ずっと玄関でアサリと対峙していたんだ。
「中戸さん、玄関の箱、アサリでしょ? この前有川と飲んだ焼酎がまだ残ってるんで、あれ酒蒸にして一杯やりませんか? お腹減ってるならみそ汁も作りますよ。ちょうどレトルトの白飯もあるし」
「え、いいの?」
「いいの? はこっちのセリフですけどね。俺も食べていいなら喜んで作りますよ」
「もちろん! やったぁ。俺、料理できないからどうしようかと思ってたんだよねー」
「いつもはどうしてたんですか」
 柴森さんの話だと、食料を送ってきたのはこれが初めてではないらしい。趣味で家庭菜園をしている彼女は、夏になればきゅうりやトマトを送ってくれるとも言っていた。
「友達にあげたり、適当」
 でも、食べないと罪悪感が残るんだよね。
 少し辛そうに眉根を寄せる彼に、俺はあまり顔を合わせないようにしようとしていたことも忘れて提案した。
「じゃ、今回は全部食べちゃいましょう! みそ汁や酒蒸に飽きたら、パスタやチャウダーにしますよ。あ、アサリの炊き込みもいいかも」
「すげー。そんなのできるの?」
「わりと簡単にできますよ。荷物置いたら適当に飲み始めててください。酒蒸、すぐにできますから」
 鍋はどこの収納に入っていたかなと思いをめぐらせながら、ボールを持って玄関に出る。適当な量のアサリを入れてダイニングに戻ると、中戸さんが鍋を出してくれていた。何か手伝えることない? と小首をかしげる彼に、皿と味噌を出してくれるよう頼む。次にレトルトの白飯を渡して自分でレンジにかけさせていると、電子レンジと向かい合ったまま、中戸さんがぽつりと呟いた。
「俺、あの家と縁切るつもりだったけど、母親が死ぬまで無理かもしれない」
 拒絶できる立場になかったとはいえ、あの母親を裏切り続けてきたのは事実。だから、彼女の子どもでいつづけることが、実の子も同然に接してくれる彼女への贖罪なのかもしれない。
 華奢な背中が、そう言っているように見えた。
 誰にでも優しそうなのに、どこか無関心な印象を受ける彼の、人を想うが故の迷い。初めて自ら明かしてくれた、小さな本音。これは、頼ってもらっていると考えてもいいのだろうか。
 自分も流しに向き直り、アサリを洗いながら中戸さんに背を向けて言う。
「中戸さん、俺、中戸さんの実家から何か送られて来たら、片っ端から調理します。中戸さんが実家に行かなきゃいけない時は、どうにかして迎えに行きます」
 だから、安心して柴森さんの子どもでいてください。許されるなら、あなたは俺が守るから。
 高慢な考えかもしれない。でも、あまり人を頼りそうにない中戸さんだけど、流されることはあっても、拒絶されることはないと思った。行き場を見失いそうになった俺に、いつでもここに帰ってきていいと言ってくれた人だから。恋人はだめでも、家族のような存在ならば許してくれるのではないだろうか。
「……有難う」
 ほんの少しだけ声が震えているような気がしたが、俺は振り向かなかった。もしも薄い肩が震えていたら、きっと同居人どころか家族の範疇も超えてしまう。骨が折れるほど抱き締めて、離せなくなってしまう。
 近づくことは苦しみを増すことなのだと、初めて知った。








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