本気ですか 01

 青空に白いシャツが映えている。それらをハンガーから外して、ダイニングに放る。さっき拭き掃除をしたばかりだから、床は綺麗だ。
 今朝方まで激しい雨が降り続いていたのが嘘のように晴れ渡った空から、真夏のような陽射しが照りつけていた。それでも梅雨の晴れ間は貴重だ。久々に洗濯物がカラリと乾いてくれたのもあの太陽のおかげだと思えば、今からそんなにギラギラしてんじゃねーよ、なんて悪態も引っ込む。
 俺が嬉々として洗濯物を取りこんでいると、玄関扉を開ける音がして、同居人の中戸さんがダイニングへ入って来た。
「今日は俊平くん居たんだ。ただいま」
「おかえりなさい。週末また雨が降るみたいだから、中戸さんのも洗濯しちゃいましたよ」
 俺が下着類を放りながら言うと、中戸さんは洗濯物の山から一枚摘み上げて呟いた。
「ほんとだ。俺のパンツ」
「すいません。下着は別に洗ってました?」
 中戸さんの洗濯籠が一杯になっていたから、俺のを洗濯するついでにと思い立ったものの、さすがに下着はまずいかと寄り分けようとしたのだが、身に着けた物を一枚一枚見ていく方が疚しい気もして、そのまま洗濯機にあけたのだ。
「や、一緒くたでいーよ。水道代とか勿体無いし」
「すいません。余計なことかとは思ったんですけど」
「ううん。ありがとう。助かった。そろそろ着替えがなくなるところだったんだ」
 柔軟剤で膨らんだタオルみたいな笑みを俺に向けると、中戸さんは手にした洗濯物を畳み始めた。下着まで洗濯して、気を悪くされたらどうしようと内心ぐるぐるしていた俺は、その笑顔にホッとしてベランダからダイニングへ入った。フローリングに正座して片っ端からタオルを畳んでいる中戸さんの向かいに座り、俺も洗濯物の山を崩しにかかる。
「俺が畳んでおくからいいですよ。着替えを取りに戻っただけなんでしょう?」
 中戸さんは最近、研究室が忙しいとかで大学に泊まり込むことが多く、ほとんどここに帰って来てはいなかった。
「ううん。今日はもう戻らないから大丈夫」
「ひと段落着いたんですか」
「そうじゃないけど」
「じゃあどうして」
「サークルの部室で仮眠取ってたら、俊平くんに嫌われてるからマンションに帰り辛いんだろうってからかわれて、つい、そんなことない! 今日だって俊平くんと約束あるから帰るんだ! とか言っちゃって……」
 中戸さんはTシャツを畳んでいた手を止めて、すまなそうに俺を見た。
「勝手なこと言ってごめん」
「別にいいですよ。俺が今日授業なくて良かったですね」
 決して鋭いとは言えない俺のことだ。何も知らないまま大学へ行き、中戸さんのサークルの人とばったり会って「グンジとの約束は?」なんて訊かれたら、中戸さんの嘘がバレていたに違いない。
 中戸さんはヘヘッと笑って再び手を動かし始めると、視線を洗濯物に落としたまま、「ありがと」と呟いた。
「実はちょっと不安だったんだ。本当はやっぱり嫌われてて、あんなこと言って帰って来たって言ったら、嫌な顔されるんじゃないかって。俺は俊平くんのあんまり関わりたくないバイセクシュアルだし、俊平くん、俺に対しては仏頂面してること多い気がするし」
「仏頂面で悪かったですね。俺は、嫌いな人の分まで洗濯するほどお人好しじゃありませんよ。洗濯自体は機械が全自動でやってくれるって言ったって、干すのは人間なんですから」
「うん。そだね。あー良かった」
 中戸さんはたたみ終えたシャツを他の衣類に重ねると、思い切り伸びをした。そのまま後ろへごろりと横になる。
 俺の膝くらいまであった洗濯物は、二人でたたんでいたせいか、俺の手にしているアンダーシャツが早くも最後の一枚だった。
「俺、俊平くんの傍が一番安心して眠れるのに、嫌われてたらどうしようかと思った」
「俺は安眠枕か何かですか」
 苦笑しながら自分の洗濯物を片付けて戻ると、中戸さんはあの時転がった体勢のまま、すうすうと寝息を立てていた。Tシャツの平べったい胸が、規則正しく上下している。
「こんなところで寝たら、背中痛くなりますよ」
 中戸さんの傍らにあった彼の分の洗濯物をダイニングテーブルの上に避難させて、声を掛ける。しかし、薄く開いた口からは白い歯が覗くばかりだ。
「なーかーとーさん」
 しゃがみこんで華奢な肩を揺さぶるが、やはり起きる気配はない。弛緩し切った身体は、俺の手の中でふにゃふにゃと揺れた。それでも、手に当たる感触に、女性特有の柔らかさはなくて。
 いっそ本当に嫌いだったら楽なのにと思う。
 さっさと新しい部屋を見つけて、大して多くもない荷物を運び出して、お世話になりました、で、終わり。学年が違うから大学で顔を合わすことはそんなにないし、友人が中戸さんと同じサークルにいるが、部室に行かなければ本人に関わることはない。同じ大学に通い、同じ部屋に暮らしているというのに、この人と縁を切るのは、年賀状のやり取りしかしてない幼馴染と縁を切るよりも簡単なのだ。それなのに……。
 俺は、心地良さそうな寝息に引き寄せられるように、顔を近づけた。安らかな表情は、神様が間違えて魂を与えてしまった美術作品みたいだ。時々、蝶の翅のように薄い瞼が震えるが、寝息は規則正しく続いている。
 これはちょっとやそっとのことでは起きないかもしれない。中戸さんはもともと寝起きの良い方ではない上、ここのところは研究室に泊まり込みが続いていて、ろくに眠っていなかったようだし。
 俺の頭の中で、そんな計算が働いた。のかどうかは正直分からないが、気が付いたら俺は、ほんのりと色づいた唇に、自分のそれを重ねていた。
 どれくらい時間が経っただろう。男にしては柔らかなその感触を何度も角度を変えて味わっていると、顔にかかっていた生温かいものが止まった。
 恐る恐る顔を離す。と、息を止め、目を見開いている中戸さんと眼が合った。
「……なに、今の」
 俺の腕の中で、完全に覚醒したらしい中戸さんが、疑問を呈した。
「……すすすすすすいませんっ!!!」
 華奢な身体を放りだし、フローリングに額を擦りつけるようにして頭を下げる。
「ごめんなさい! 俺、本当は中戸さんのこと好きなんです! こんなこと二度としません! 中戸さんが嫌なら、なるべく顔合わせないようにするし、大学でも話しかけたりしないから、どうか同居解消だけは勘弁してください!!」
「え、ちょっ、それ何の冗談……てか、顔上げて」
 俺は頭を下げたまま、首を横に振った。冗談だったらどんなにいいか。
「じゃ、何かの罰ゲーム?」
 もう一度首を横に振る。
「でも俊平くん、俺みたいの嫌いなんじゃ……」
「本当にそうだったら良かったんですけど……。ごめんなさい」
「いや、謝られることじゃないから」
「でも中戸さん、迷惑でしょう?」
 中戸さんはバイセクシュアルだが、俺が純粋に金銭的な理由のみでここに住んでいると思っているから、俺と同居しているのだ。一人の人と長続きするタイプではないらしいので、恋愛関係になった人と暮らして、いろいろと面倒があったためだと思われる。
「どうしてそう思うの」
「どうしてって……」
 自分が一番よく分かってるじゃないかと思いつつも言い淀んでいると、中戸さんが俺の顔を覗き込むようにして、質問を重ねてきた。
「あのさ、俺が俊平くんの傍だと安心して眠れるの、何でだと思う?」
「俺がこんなことするはずがないって、信じてくれてたからでしょう?」
 そうだ。俺は、この人の信頼を裏切ったのだ。
 しかし、情けなくて泣きそうになっている俺に降って来たのは、柔らかな否定の言葉だった。
「違うよ」
 驚いて顔を上げた俺に、中戸さんは甘い笑みを浮かべて続けた。
「俺が俊平くんの傍だと安心して眠れるのは、俊平くんとならいいって思ってるからだよ」
「え、じゃあ……」
 ふわりとシトラス系のラストノートに包まれる。中戸さんが俺の首に両腕を回してきたのだ。
「役割決めよっか」
「や、く割……?」
 額を合わせ、超至近距離で見つめられて、俺はどぎまぎしながら問い返した。
「どっちが挿れるか」
 顔がもっと近づき、吐息が顔にかかる。掠れ声が妙に色っぽくて、急速に下腹が熱くなるのが分かった。
「は? え? イレルって?」
 鼻先が触れ合い、慌てて中戸さんの胸を押し返すと、彼は俺の首に手を回したまま小首を傾げ、上目遣いでお伺いをたててきた。
「俊平くん、挿れるのに抵抗があるなら俺が挿れて良い? 掘られるのも結構はまるよ? 嫌なら俺が掘られるけど……駄目?」
 控えめがならも、まっすぐに見つめてくる潤んだ瞳。さっきまでの妖艶さとは打って変わった恥ずかしげに上気した頬。男とは思えない殺人的な可愛らしさに、俺はつい「駄目じゃないです」と言いそうになった。
 が。
 ホラレル? ホラレルって……、もしや掘られる!?
「ええっ!?」
 イレルってそういう意味か!?
 俺は思わず身を引いた。中戸さんが俺の首に手を回しているので、彼から離れることはできなかったが、それでも精一杯仰け反った。その結果、中戸さんもろとも後ろへ倒れた。
「大丈夫?」
 俺の上になった中戸さんが、心配そうに顔を寄せてくる。中戸さんが咄嗟に俺の頭と背中の下に手を入れてくれたおかげで、たいして打ちつけてもいなければ痛みもない。
 しかし、近づいてくる瞳の中に、心配とは別の色を感じて、俺は両手を突っ張って顔を逸らせた。
 この人、まさかよもや本気ですか!?
「いやいやいやいや、ちょっと待ってください」
 ずっと好きだったし触れたいとも思っていたけれど、正直最後までしたいとかは考えたことがなかった。想いが通じるとも思っていなかったのだ。今まで女性としか経験のない俺に、いきなりクライマックス突入はいくらなんでもハードルが高すぎる。
 しかし。
「俺とするの、嫌?」
 少し傷ついたように中戸さんに問われると、
「嫌なわけないじゃないですか!」
 俺は反射的に華奢な背中を引き寄せ、身体を反転させていた。
 中戸さんとの位置関係が逆転する。彼の柔らかそうな髪の毛がフローリングに散る。俺は、切なげに寄せられた眉間に優しく口付けを落とした。
「むしろ大歓迎です。でも、画的にも中戸さんが掘るなんて冗談でしょう。掘られるくらいなら、俺が抱いてあげますよ」
 今を逃したら、中戸さんは二度と俺と身体を繋げようなんて思ってはくれないかもしれない。男同士のやり方なんてさっぱり分からないが、そんなこと構ってはいられなかった。
 俺は滑らかな頬を撫で、もう一度キスをするべく顔を近づけた。けれど、中戸さんの顔はさっきよりも悲しげに見えて。
「どうか、しましたか?」
 少し顔を離して問いかける。中戸さんはかすかに首を振って、横を向いてしまった。
「ごめん。大したことじゃないんだ。俊平くんもそんな風に思ってたんだなって、ちょっとショックだっただけ」
「そんな風って……」
「俺が男役だと、画的におかしいんでしょ?」
「や、それは言葉のアヤで。別に中戸さんのこと女だと思ってるわけじゃ」
「でも、とっさに出ちゃったってことは、無意識下ではそう思ってたってことだよ」
「そんなことないですよ! ただ、俺が女役なんて考えたことなかったっていうか何て言うか……」
 俺の弁解も虚しく、中戸さんは諦めたように溜息を吐いた。
「まぁ俺は、どっちでもいいんだけどね。だから、俊平くんの好きな方でいいよ」
 中戸さんはやっと俺の方を向いてくれたが、その言い方が悲しくて。
「何言ってるんですか!」
 俺は怒鳴りつけてしまっていた。
「俺は中戸さんのこと、女だなんて思ったことないですよ! ちゃんと男の人だって思ってます! 女に見えるから好きになったんじゃありません! 二人ですることなのに、俺の好きな方でいいなんて、投げやりなこと言わないでください!」
 俺とのことで、我慢されるなんて嫌だった。諦めるような言い方をして欲しくなかった。それでいいと思うような男だと、この人にだけは思って欲しくなかった。
「じゃあ俊平くんは、俺が挿れたいって言ったら、それでもいいって言うの?」
 中戸さんも仰向けに寝転んだまま、負けじと挑むように返してくる。
「それは嫌なんでしょ!?」
「い、嫌じゃないですよ! 考えたことなかっただけで、嫌とは言ってないでしょう!」
「無理しなくていいよ」
「無理じゃありません!」
「じゃあ、」
 中戸さんは、俺の肩に右手を掛け、もう片方の手をついて身を起こした。俺の眼を覗き込むようにして訊いてくる。
「本当にいいの?」
 俺は、彼の瞳に映る自分を見た。これ以上ないほど真剣な顔をして答える。
「好きな人相手に、無理なわけないでしょう」
 中戸さんは、たっぷり十秒間は俺の眼を見つめていたが、やがて俺の首に両腕を回して抱きついてきた。
「ありがとう。嬉しい」
 甘い吐息で耳をくすぐるように囁かれ、俺は二人の体温が増していくのを感じた。普段は冷たい中戸さんの指先が、俺に触れるたびに熱を帯びていく。
 目を瞑ると、瞼の裏にまで夕陽が溶け込んできたかのように、視界が赫く染まった。




 なんだかうまく丸め込まれたような気がする。
 俺がそう気付いたのは、窓の外がすっかり暗くなってから。信じられない衝撃と悦楽に飲まれ、何度も桃源郷を見せられた後だった。










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