ブラック 01

 その噂を疎い俺の耳に入れたのは、やはり有川の口だった。
「おいおい、なんか妙な話になってるぞ。グンジ先輩とおまえの仲」
「妙な話?」
 学食でラーメンをかき込みながら、俺は顔をしかめた。
 中戸さんと俺の仲って、会って一週間も経っていないというのに、どうなるというのだ。しかも俺、中戸さんとは荷物を運び込んだ後で一度一緒にコーヒーを飲んだだけで、後はほとんど顔を合わせてもいない。物音はするから在、不在はなんとなく分かるのだが、俺はほとんど一人暮らしのような生活を送っている。
 お互い、生活習慣というか、行動時間が違いすぎるのだ。
「俺に気を遣わないで好きなようにして。俺の生活スタイルに合わせる必要はないから」
 中戸さんは最初にそう言ったが、それは一回生である俺のスケジュールがだいたい予測できるものであったか、自分の特異な生活時間に基づくものであったかのどちらかだろう。
 俺はできるだけ先に単位を取っておこうと、取れる講義はいっぱいいっぱい取っている。だからたいてい朝イチから講義が入っているので、マンションを出るのは朝八時半くらい。午後五時過ぎくらいに帰宅して、仮眠を取りつつ夜のバイトに備える。バイトというのはたいてい、深夜のシフトの方が相場がいいのだ。
 そんな俺が中戸さんの生活習慣などほとんど知る由もないが、彼はいつも、俺がバイトに出る頃に起きてきているようだった。出掛けようと部屋を出た時、ボサボサの頭で眠そうに目を擦りながらコーヒーを淹れているところを何度か見た。かといって、昼間ずっと寝ているわけでもないようで、俺がたまに休みでマンションにいる時には出掛けていたりする。まぁ、大学にも行ってるだろうから、当たり前といえば当たり前なのかもしれないが。
 向こうの行動が全く気にならないと言えば嘘になるが、悪くない生活だ。金を出し惜しみせず、相手に干渉しないこと。基本的にこの二つが、同居をうまくいかせるコツだと俺は思う。
 有川は親子丼定食のトレイを置いて俺の向かいに腰掛けると、ラーメン噴くなよと前置きして、その噂とやらを話し始めた。
「昨日、サークルの先輩達が言ってたんだけどさ、グンジ先輩がおまえに惚れたから、前のカレシ追い出しておまえと住み始めたって話になってるみたい」
「なっ、」
 忠告されていたにもかかわらず、俺は有川の親子丼に向かってラーメンを噴きそうになった。
「んなわけないだろ。同居始めるまで面識なかったんだし。だいたい、サークルの先輩って、ほとんどあの場にいただろーが」
 同居の話を持ちかけられたのは、有川のサークルの飲み会の席でのことだった。
「だからだよ。グンジ先輩から誘ったの、みんな見てるから。それに面識なかったっつっても、おまえが飲み会に時々紛れてたの、何人かは知ってんだよ。だから、その時にグンジ先輩も気付いてて、目をつけてたんだろうってわけ」
 たしかに、中戸さんは俺のことを知っていた。こっそりタダ飯食ってたのを見て見ぬ振りしてくれてたらしい。でもそれは、そういう意味じゃないと思うんだが。
「でもさ、先に中戸さんの恋人が出てってたわけじゃん。たまたま俺が、あの日に真衣に追い出されたから一緒に住むことになったけど、そうじゃなかったら中戸さんだって住む所に困ってたんだから、自分から追い出したとは考えられないけど」
「ところがさ、カレシが出てったって話が出たのもあの時が初めてで、グンジ先輩悲しそうな素振りもしてなかったから、よけい自分から振ったんだろうって」
「……なんでそっちの情報は遅かったかな」
 俺と同居を始めたって話はすぐ広まったのに、前の恋人と別れたって話はみんな知らなかったなんて。まぁ、そっちの別れ話とあいまって、俺の同居話が余計に広まったのかもしれないが。
「でもさ、似たもの同士でお似合いかもな、グンジ先輩とおまえ」
 有川はニヤニヤしながら、俺のラーメン丼に箸を伸ばしてきた。俺は取られる前にと、すかさずチャーシューを押さえる。が、時すでに遅く、チャーシューは半分以上有川の箸に持っていかれてしまった。
「全然似てねーよ。俺はあんなに温厚じゃねぇ」
「そこじゃなくて。おまえも真衣さんに振られたのに、あんまショック受けてないみたいじゃん。どうする? マジでグンジ先輩に惚れられてたら」
 嬉しそうにチャーシューを振り回しながら、有川がふざける。
「んなことあるわきゃねーだろ」
 チャーシューを頬張る有川の丼から、俺は肉を強奪した。






 マンションに帰ると鍵が開いていた。珍しいなと思いながら中に入る。ここはオートロックじゃないから鍵が開いていても不思議はないのだが、中戸さんは部屋にいる時でも、たいてい施錠しているのだ。噂では節操のない人のようだが、防犯意識はあるらしい。
 ダイニングの西側、和室への引き戸を開け、自室に通学用にしている鞄を放る。と、いきなり背後から首を絞められた。大きさや感触からして男の手だが、たぶん中戸さんのではない。
「おまえか、グンジの新しい男は」
 怒りとも憎しみともつかない低い声が、耳元で囁く。
 違う。
 そう答えたいのに、首の絞めつけがひどくて声にならない。俺は意思表示に、めちゃくちゃにかぶりを振った。しかし、その前から抵抗して暴れていたので、否定の意と取ってもらえたかどうかは謎である。
「この間まで女と暮らしてたって? なんでそんな奴が出てくんだよ」
 その女に追い出されたからです。てか、てめーに関係ねーだろ。この不法侵入者!
 俺は絞めつけから逃れようと首元にやっていた自分の手を下ろし、背後の男に肘鉄をお見舞いした。それは綺麗に男の鳩尾に決まり、奴は俺から手を放して呻いた。
 俺は俺で、急激に流れ込んできた酸素の処理に必死で、ゴホゴホと咳き込みながら喉と胸を押さえて畳に蹲る。意識こそはっきりしているが、首を振り向けて見ても、涙で視界が霞んで男の顔ははっきりしない。だが、相手は俺といくらも違わない年齢に思われた。少なくともまだ学生だ。賭けてもいい。
 そいつは俺より早く態勢を整えて立ち上がった。俺より上背があるので、それなりに威圧感がある。
「殺してやる」
 はいいぃい!?
 見れば、襲撃者の右手には見覚えのある包丁。あれ、ここのキッチンにあったやつじゃないか。
 不法侵入の上、泥棒までして、挙句に殺人かよ! こいつの人生終わったな。
 などとなかなか整わない息の下で他人事のように考えていたが、今正に終わりそうなのは、自分の人生で。
 男の右手が振りかざされる。俺は成す術もなく目を瞑った。
 どこか遠くで、中戸さんが俺を呼ぶ声を聞いたような気がした。












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