ブラック 02

 いつまで経ってもやってこない衝撃に薄目を開けると、大柄な男が中戸さんに包丁を持った手を捩じり上げられていた。ごとんと重い音がして、包丁がダイニングの床に転がる。中戸さんはそれを足で蹴って遠くへやると、今度はその手を軸に男を前方へ投げ落とした。男より遥かに小柄な彼のどこにそんな力があるのかと思うほど軽々と。
「うちで何やってんだよ?」
 ゾッとするほど冷たい声で、中戸さんが男に問いかけた。
「何って、おまえがここに男連れ込んでるって聞いたから。こいつのせいだろ!? こいつのせいでおまえ……」
「俊平くんは関係ない。勝手に出てったのは佐渡だろ。俺は止めなかっただけ」
 背を和室前の床に沈めたまま、必死で言い募る男の眼は、明らかに熱を孕んでいた。痛みのせいだけではないであろう涙が滲んでいる。
 対する中戸さんは、陶器のような硬質な無表情で男を見据えている。口調こそ変わりないが、いつもの穏やかさはどこにもない。まるで別人だ。もう完全に、佐渡と呼ぶ男に感情はないんだなと、端から見ていても思い知らされるようだった。
 この佐渡という襲撃者が、最近まで中戸さんと付き合っていた男なのだろう。たぶん、俺が今使っている和室の元の部屋主。
「だって、おまえ最近、俺といてもなんか上の空で……。他に好きな奴できたんだろ? それがこいつなんだろ!?」
「お、俺!?」
 他人の修羅場を眺めているだけだったはずが、突然話が自分に及んで、俺は面食らった。そして理解した。この佐渡という男、有川が今日言っていたあの噂を信じてしまったに違いない。
「俊平くんは関係ないって」
「じゃあ、なんで……!! なんでなんだよ!?」
 佐渡はなんとか身を起こして膝立ちになると、中戸さんを見上げて涙声で激昂する。男の愁嘆場って初めて見るなと、俺は珍しいものを見るように奴を眺めた。男女の修羅場も見物したことはないが。
「俺は認めないからな! おまえが他の奴と付き合うなんて、絶対許さない!!」
 すごいセリフだ。マンガだドラマだ三文小説だ。今時女にだって使うだろうかと考えて、一人だけ思い当たる奴がいた。世の中いろんな人間がいるもんだ。
 中戸さんは溜息を吐いて、かわいそうな失恋男を立ち上がらせた。
「そんなに言うなら……」
 場にそぐわない優雅な所作で、床に落とした包丁を拾い上げ、佐渡に柄の方を向ける。
「俺刺す?」
「はぁ!?」
 思わず、俺は佐渡とハモっていた。
「はい、包丁。心臓ここね」
 動揺しまくっている俺たちには構わず、中戸さんは涼しい顔で佐渡に包丁を持たせる。佐渡はそれを握って震え始めた。刃と中戸さんを交互に見る眼が据わりかけている。
 なんかこいつ、やばい。そんで中戸さんはもっとやばい。
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待った!!」
 俺は佐渡の前に悠然と立つ中戸さんの腕を引っ張った。
「そう簡単に殺されないでくださいよ! 中戸さん死んじゃったら、俺、また宿無しになるじゃないですか!」
「な、問題はそこなのかよ! グンジは大切じゃないのかよ!?」
 佐渡からツッコミが入る。まだ俺たちが恋人同士だと勘違いしているようだ。
「俺にとっての一番の問題はそこだよ! そりゃ中戸さんは部屋を提供してくれたありがたい人だけど、それ以上でもそれ以下でもない。だいたい女の部屋に転がり込んでこういう目に遭うならともかく、男と同居して殺されかけるなんて、俺には分かんねー世界だよ!!」
 今更ながら、首を絞められた腹立ちが込み上げてきて、俺は一気に捲くし立てた。
「おまえ、本当にグンジの新しい男じゃ……」
「ないに決まってるだろ!!」
 肩で息をしながらも、驚愕の色を見せる佐渡の言葉に被せるように怒鳴る。
「俺からすりゃ、男相手にそんな発言が普通に出てくる方が信じらんねーよ!」
「そういうことだから、彼は本当にただの同居人だよ。佐渡が出てって一人じゃ家賃払えないから、俺から頼んでこの部屋に入ってもらったんだ。ちょうど部屋探してるって話だったから」
 佐渡の方に身を乗り出していた俺を諫めるように肩に手を添え、いつもの穏やかさで中戸さんが言う。しかし、穏やかさの中にも、どこか突き放すような響きがあった。そして、次に佐渡が口の端に上せた言葉は、ぴしゃりと切り捨てた。
「だったら俺ともう一度……」
「それはできない」
「どうして?」
 佐渡の縋るような眼差しに、中戸さんはマイナス百度の冷たさで応える。
「冷めたから」
 その言葉はとどめだった。佐渡は床に包丁を叩きつけると、長身を折るようにして走り去っていった。たぶん、泣き顔を見られたくなかったのだろう。
 中戸さんは振り向きもしなかった。包丁を拾い上げ、床についた傷を確認している。そして玄関の戸が閉まる音が響くと、俺の両肩を掴んであちこち点検し始めた。
「大丈夫? どこも怪我してない?」
「はい。おかげさまでどこも。ほんと大丈夫です」
 首に手形がついているかもしれないが、ハイネックを着ているので見えていないはずだ。中戸さんは心底ホッとしたように息をつくと、ふいに俺を抱きしめた。鼻先に、ふわりとシトラス系の香りが拡がる。
「良かったぁ、間に合って。俺のせいで俊平くんに何かあったらどうしようかと思った。ほんとごめん」
「や、あの、ほんと、なんともないですから」
 慌てて中戸さんを押し返す。ないとは思うが、もし、万が一、佐渡が戻って来てこんな場面を見られたら、今度こそ本当に殺されかねない。
 それに、香りのせいか驚いたせいか、ちょっとどぎまぎしてしまった自分に気付かれるのも怖かった。
 そして少しだけ、佐渡を気の毒に思った。






 佐渡は俺たちと同じ大学の学生だった。学科は違うが、中戸さんとは同期生らしい。中戸さんは、あの噂を聞いた佐渡が血相を変えて走っていったと友達から連絡を貰って、出先から急いで帰ってきたのだそうだ。
「あー、鍵。うん、かえなきゃね。まさか合鍵もう一個作ってるとは思わなかった」
 テーブルの向こう。俺と向かい合って座った中戸さんが、コーヒーを飲みながらぼやいた。
 ダイニングに漂うコーヒーの香りが、殺気立っていた空気を和らげていく。
 またいつこんな目に遭うか分からないから、いい部屋が見つかったら出て行ってもいいよ。
 そう言った中戸さんに、俺は鍵を付け替えれば大丈夫でしょうと返したのだ。できれば、恋愛も安全な経歴のみに書き換えていただきたいものだが。
「それにしても、どうしてあんなこと言ったんですか。自分を刺せだなんて」
「ああ、あれは、うん。上の空だったのは本当だったから」
 バレてないと思ってたんだけど、と頭を掻く。
「最初からそうだったから。いつも、誰に対してもそうだったし、佐渡もそれでいいのかと思ってた。だけど……」
 奴はちゃんと見抜いていたのだ。それはきっと、本気で中戸さんを好きになったから。
「それで失礼なことしなたと思って」
 中戸さんはバイだと俺に告げた時、男も女も好きだと言った。でも本当は、反対なんじゃないだろうか。どちらも平等に好きになれないからこそ、こだわらない。
 中戸さんは佐渡に冷めたから縒りを戻せないと言ったけれど、俺には、佐渡が本気になったから戻れないと言っているように聞こえた。気持ちが重いとか、そういうのではない。注がれるだけのものを返すことができないから。心を要求されても応えることができないから。だから、相手がそれに気付くと関係を続けていくことはできない。
 いや、ひょっとしたら好きになれないのではなく、嫌っているのではないか。あの熱い眼差しに対して、中戸さんは引き摺られることもなければ、迷惑そうに眉を顰めることもなかった。淡々と無表情に切り捨てたのだ。感情などないかのように。
 あの時の中戸さんを思い起こすと、温厚だと思った彼への評価を覆されたような気がする。いつもの穏やかな笑顔は仮面なのではないかとさえ思えてきてしまうのだ。彼は人間全般を嫌悪していて、それを隠すためにいつも笑っているのではないかと……。
 でも、それならば何故、来る者を拒まない? それに、だったらどうだと言うのだ。
 俺はかぶりを振って、おかしな考えをふりはらった。
「だからって、簡単に自分放棄しないでください」
 コーヒーに視線を落として言う。それは、自分でも驚くほど心許ない声音だった。今頃になって、怖かったんだなと思う。それは中戸さんが死んでしまうかもしれなかったことなのか、目の前で人の血が流れるかもしれなかったことなのか、どちらに対してかは分からないけれど。
 中戸さんはどう取ったのか、素直に頷いた。
「そうだね。そしたら俊平くんにも迷惑かけちゃうし。今後は危害が及ばないようにもっと気を配るから。今回のことは本当にごめん」
「いやいや、そんな、実際に刺されたわけじゃなし。あんなの平気ですよ」
 あれだけ徹底的に冷徹な対応をされたのだ。佐渡はもう二度と、ここに来ることはないだろう。
 ありがとうと微笑む中戸さんに、でも、と俺は思う。
「でも、俺も中戸さんを好きになったら、ここには住めなくなるんでしょうね」
「え?」
「あ、いや、有り得ませんけど」
 中戸さんの驚いたような声で自分の思考が声になっていたことを知り、俺は慌てて付け加えた。
 微妙に体が熱いのは、まだ鼻先に残るシトラスの馨りのせいなんかではなく、コーヒーのせいだろう。きっとそうに違いない。












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