マンデリン 01

 七歳の時、阪神淡路大震災があった。俺は兵庫県に住んでいたわけではなかったが、震度五弱の揺れを体験した。
 やっと東の空が白み始めた真冬の早朝。目覚めてしまった俺は、頭から布団を被って、物が落ちる音に身を震わせていた。
 揺れは長く続いた。途中、少しだけ揺れがマシになった時、母が部屋に飛び込んできた。
「俊平くん、大丈夫!?」
「おかあさん!」
 彼女は俺を布団から出すと、抱きかかえるようにして隣の部屋へ移動した。そこは普段使っていない部屋で、倒れてくるような棚や落ちてくるような物がなかったからだろう。父もそこに非難しているようだった。
「大丈夫、大丈夫だからね」
 恐怖でしがみつく俺を、母は地震が治まるまでずっと、覆いかぶさるようにして抱きしめてくれていた。



 そんな母は、六年後に起きた芸予地震の時にはいなかった。






 喉が痛い。鼻が詰まって息がしにくい。頭がぼーっとして、いつも以上に思考がままならない。どうやら風邪を引いたらしい。
 深夜のバイトから明け方に帰宅した時は、まだどうにか歩けていた。翌日(というか、もうその日)の講義にも出るつもりで教科書類を鞄に詰め、風呂にも入って布団に潜った。そして次に目覚めた時には、トイレにも這っていかなければならないほど重症に陥っていた。
 も、いいや……。今日はガッコ休も。
 携帯を開いて既に一限目が始まっていることを確認すると、再び布団を被りなおす。有川に代返を頼もうかとも考えたが、声が出ないのでやめた。講義はどうでも、夜のバイトまでになんとか回復させなければ。
 病院に行く気力もなければ食欲もないので、俺はひたすら眠ることにした。家を出てからこんなにひどい風邪を引いたのは初めてだが、実家にいた頃も、たいてい薬も飲まずに寝て治していた。薬や病院が嫌いなわけではない。ただ、徒歩でいける距離に薬局や病院がなかったのと、父親は仕事で家にいられなかったし、母親は行方不明だったので、足がなかっただけのことである。今は足もなければ金もなかった。
 生活音のしない場所に一人で寝ていると、実家にいた頃に戻ったような気がする。
 同居人の中戸さんは、ここのところマンションに寝泊りしている様子がなかった。たまには帰ってきているようだったが、姿を見ることは稀だった。ダイニングに残るコーヒーの香りや、湯気で曇った風呂場の鏡などで、彼が帰っていたことを知る程度だ。研究室にでも泊り込んでいるのかもしれない。
 もともと生活にズレがあったので顔を合わせることはあまりなかったのだが、それでも人の気配はするもので、それが全くなくなると少し心細さを感じる。そんな自分に少々戸惑いつつ、これは風邪を引いて動けなくなっているせいだと回らない頭で納得した。
 たしかに俺は、大学に入ってからほとんど一人で生活してはいなかったが、実家にいる時はほぼ一人きりだったし、もともとそっちの方が性に合っているはずなのだ。中戸さんと暮らしていけているのだって、同じ部屋を共有しながら全く別のリズムで干渉せずやっているからに他ならない。
 この前までは女と暮らしていたから、それなりに一緒に飯を食ったり一緒の布団に入ったりしていたけれど、今考えれば、年上の彼女が俺に合わせてくれていたというのが正解だろう。それに気付いていなかった俺が勝手をし、彼女の我慢が続かなくて破綻を来たしたとも言える。別に浮気などは一切していなかったのだが。(そんな相手に恵まれていれば、今も別な女と暮らしているだろう)
 どうせ風邪引くなら、真衣と暮らしてた時に引きゃ良かったな。
 彼女なら、きっと母親のように甲斐甲斐しく世話をしてくれるだろう。普段なら煩わしくさえ思うであろうそういった行為が、今はひどく恋しかった。俺もヤキが回ったらしい。
 そんなことを考えていたせいか、眠るとおかしな夢を見た。
 もう顔さえ忘れかけている母親が出てきて、まさに甲斐甲斐しく看病してくれるのだ。冷えた手が、火照る額を覆い、熱を計る。そして今日は休んで寝ていなさいと優しく言うのだ。彼女は俺の頭に濡れタオルを乗せると、頬を軽く撫でて安心させるように微笑む。
「何か食べてお薬飲まないとね。食べたいものある?」
 俺は六つか七つの子供に戻っていて、ひりつく喉でゼリーをねだった。
「はいはい。じゃあ、ちょっと買ってくるから、いい子で寝てるんだよ。いい?」
 俺は俄かに不安を覚え、部屋を出て行こうとする母親に手を伸ばす。母はその手を軽く握ると、ちょっと困ったような顔をして、すぐに帰ってくるからと諭すように言った。
「本当に?」
 掠れた問い掛けに、母は当たり前じゃないと笑う。
「すぐそこのコンビニに行って来るだけだから」
「そのまま帰ってこなくなったりしない?」
「こんな状態の俊平くんを置いて、どこに行くっていうの」
「でも……」
 まだ母の失踪を知らないはずの俺は、うまく言葉が続かない。ただ、漠然とした不安だけが胸を支配して、引き止めなければいけないと強く思った。引き止められるのは今しかない。今を逃せばきっと、二度と会えない。
「すぐに帰ってくるから」
 言いよどむ俺の頭を優しく撫で、母は今度こそ部屋から出て行く。和室の引き戸が彼女の姿を隔したその時、熱と心細さで潤んだ視界が突然揺れ始めた。
 地震!?
 風邪でフラフラしているわけではない。俺の身体だけでなく、床自体が揺れている。
「俊平くん!」
「おかあさん!」
 母は半ば転げるようにして和室に戻ってくると、起き上がろうとしていた俺を抱きしめて畳に伏せた。
 本棚の上から、地球儀が落ちて派手な音を立てた。電気の傘が、今にも天井から千切れそうに揺れている。
 もしも、あれがこのまま落ちてきたら……。
 俺は、少しでも盾になれるよう、母親の背に腕を回して目を瞑った。












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