マンデリン 02

 目を開けると、中戸さんの顔が間近にあって驚いた。
「はー、地震なんて久しぶり。びっくりしたぁ」
 え? は? 地震!?
「俊平くん、声出てないよ。だいたい何言ったかは分かるけど」
 口をパクパクさせた俺に、中戸さんは俺の方に屈みこんだまま、きれいな顔を歪めて苦笑した。
「この体勢厳しいからとりあえず立とうと思うんだけど。腕、離してもらえるかな」
 中戸さんは、寝ている俺に覆い被さるような姿勢になっており、俺の頭の両側に手をついて身体を支えていた。この手の支えがなくなったら、間違いなく顔がぶつかる。そんな体勢。普通なら、そのまま後ろに起きてしまえばいいのだが、今の中戸さんにそれは無理な相談だった。俺が彼の背中に腕を回して、それを阻止していたのだ。
 あ、あの、すいません。
 出せない声で謝り、慌てて手を離す。まだ熱が高いのだろうか。顔が火照る。身体があつい。そして、喉が張り付くようだ。
 俺の状態を的確に察知したのか、中戸さんは立ち上がって部屋を出ると、スポーツドリンクを持って戻ってきた。
「すごい寝汗掻いてるからね。水分摂らないと脱水症状起こしちゃうよ。自分で飲める?」
 俺の背に手を入れてゆっくり起き上がらせると、ペットボトルの蓋を外して渡してくれる。俺は頷いてそれを受け取った。よく冷えた液体が喉を潤して身体に染みこんでいく。体内を洗ってくれるようだ。
 その後、フラフラしながらトイレで用を足して帰ってくると、部屋に布団がなくなっていた。かわりに新品のスウェットが置いてある。
「今着てるの、すごい汗吸ってるから、それに着替えてしばらく俺の部屋で寝てて。一応、布団は前帰ってきた時に干したまま使ってないから、臭くはないと思う」
 ダイニングの掃きだしの方から、中戸さんの指示が飛ぶ。ベランダに俺の布団を干しているらしい。
 外はもう陽が高い。時計を見ると、昼過ぎだった。
 とりあえず着替えたものの、中戸さんのベッドを借りるのはためらいがあった。布団が臭くなくても、俺自身が汗臭い。こんな身体で使わせてもらうのはいかがなものかと困惑していると、このままだと畳が腐るかもしれないからと諭された。
 中戸さんの部屋に入るのは知り合った日以来だなと思いながら、大人しくベッドに入って寝ていると、布団を干し終えた中戸さんがやってきて、俺の首周りの布団を押さえて冷気が入らないよう整えてくれた。
 中戸さんはやはり、研究室に篭っていた。そこへ有川が俺に何かあったのかと訊きにきたため、気になって帰ってきてくれたらしい。有川は、俺が大学を休んで携帯にも出ないものだから、事故にでも遭ったのかと気を揉んでいたそうだ。
「今日はもう何も気にせず寝て。勝手なことして申し訳ないけど、有川にバイト先聞いて休むって連絡しといたから。何か食べたい物ある? あればコインランドリーでシーツ洗うついでに買ってくるけど」
 俺は首を横に振った。なんだか夢の続きを見ているみたいだ。喉ではなく、目に刺すような感覚が襲ってきて、視界が滲んだ。中戸さんが驚いたように俺を見ているのが分かる。
「す、すいませ……。なんか、さっきまで変な夢見てて」
 俺は腕で眼を覆って弁解した。他人のような声で、掠れてもいたが、今度はなんとか音声になった。
「変な夢?」
「ずっと昔に出てった母親が看病してくれてる夢。俺は幼稚園か小学生くらいのガキに戻ってて、買い物に行こうとする母親を引き止めるんです。行ってしまったら、もうそのまま戻って来ないような気がして。そしたら地震が起きて、出て行こうとしてた母親が戻って来てくれて……」
「お母さん、出てっちゃったの?」
「俺が小学生の時。詳しいことは知らないけど、たぶん駆け落ち。別に風邪引いてる時じゃなかったけど、ちょっと買い物に行ってくるって出掛けてそのまま戻ってこなかったから」
 何故こんなことを他人に喋っているのだろうと頭の隅で疑問を抱きつつ、俺はつらつらと話していた。有川や真衣にさえ、こんな話はしていないのに。きっと病気で気が弱っているからだ。そうでなければ、中戸さんの声が優しすぎるからだ。
「もう全然気にしてないし、顔も思い出せないくらいなんですけどね。でも、たぶん、ここに来た日に『行かないで』って言ったのも……その……」
 あの時、夢を見たような記憶はない。それまでにそんな恥ずかしい寝言を指摘されたこともない。けれど、今までの人生で、俺が引き止めたかったと思った人物はたった一人しかいない。今は戻って来て欲しいなど、一ミリたりとも思わないが。
「だから『行かないで』だったんだね。彼女が出て行ったわけじゃないのに、彼女に対する言葉にしてはおかしいなって思ってたんだ」
 腕の隙間から指が入り込んできて、そっと涙を拭われる。
「ごめんな。身体壊してるの、気付いてやれなくて。でも、俺は必ず帰ってくるから」
 中戸さんは俺の髪を梳くように何度か頭を撫でると、静かに部屋を出て行った。
 冷静に考えてみれば、この部屋は中戸さん名義で借りているわけだから、彼が帰ってくるのは当たり前のことで。だが、その時の俺は、彼の帰るという言葉にひどく安心したのだった。






 地震は現実世界でも起きていた。この辺りは震度三だったらしい。実際に揺れていたから、夢の中にそれが入り込んできたのだろう。
 夢の中で派手な音を立てて落ちた地球儀は、現実ではコーヒーメーカーだった。ガラス製のサーバー部分にヒビが入ったと、カフェイン中毒気味の中戸さんは嘆いている。そんな彼を見ていると、すっかり熱の下がったはずの俺の中には、また熱を上げるようなある疑問が湧いてくる。
 目覚めた時、俺は母親の代わりに中戸さんに縋っていたわけで。





 あの夢は、一体どこから現実とリンクしていたのか。












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