ブルーマウンテン 01

 最近、中戸さんの顔をまともに見ることができない。
 有川に中戸さんの女装写真を見せられてからか、中戸さんに冗談で誘ってるなどと言われてからかは分からない。が、とにかくあの笑顔を真正面から見てしまうと、自分の中の何かが壊れてしまいそうな気がするのだ。たとえばモラルとか理性とか。
 幸い、一緒に住んでいてもそんなに顔を合わすことなどない。それにきっとこれは錯覚で、一時の気の迷いに違いない。俺はそこまで女好きってわけじゃないけど、今までそういう対象としては、女にしか興味がなかった。中学や高校にも、たまに女にしか見えないような男子生徒がいたし、そいつをズリネタにしている同級生もいたが、俺にはそんなこと考えられなかったし考えたくもなかった。
 それでも、中戸さんと話していると時々身体や頬が熱くなるのはどういうことだとか、中戸さんが渡加部さんと付き合っていた時に感じたモヤモヤは何だったんだかとか考え出すと、もういけない。
 いくら二十歳過ぎてるくせに顔が可愛かろうと、過去に男の恋人が何人いようと、中戸さんは男だ。俺とは同性だ。俺はノーマルだ。
 第一、中戸さんが俺を同居人として選んだのは、俺が彼を好きになる危険性がなかったからに違いなく。



そんなわけで俺は、マンションを出ることにした。






 「すみません。勝手言って」
 年の瀬も迫ってきた十二月下旬。有川の住む学生用のワンルームマンションに空きができたと聞いて、俺は早速、中戸さんに同居解消話を打ち明けた。
「いいよいいよ。いい物件が見つかって良かったね。こっちこそ新しい同居人まで捜してくれてありがとう」
 中戸さんはいつものように笑って快諾してくれた。コーヒーのほろ苦い香りが漂うダイニングは、少しも暗い雰囲気にはならず、俺はそれに救われたようながっかりしたような、複雑な気分になった。
 一応、家賃の関係があるので、俺は友人の中でも彼女持ちの人間を当たって、俺の使っている部屋に入ってもいいという人物を紹介していた。ちょうど今住んでいるアパートの取り壊しが決まり、年明けから住むところを探していたのだという栗城という名のその男とは、後日ここに来て会ってもらうことになっている。
「引越しはいつ?」
「入居は一月からなんですけど、冬休みに帰省するから、その時もうここを引き払って、有川のところに荷物置かしてもらおうと思って」
 どうせ俺の荷物など、たかが知れている。一番嵩の大きい持ち物でも布団なのだ。
「え、じゃあすぐじゃん」
 中戸さんはそう言って立ち上がると、ちょっと待っててと言い置いて、部屋に戻っていった。しばらくガタガタゴソゴソと天井裏を嗅ぎまわるネズミみたいな物音を立てていたかと思うと、大きな紙袋を持って出てくる。
「これ、お餞別」
 そう言って差し出された紙袋に入っていたのは、中戸さんが去年まで使っていたらしいテキスト類だった。
「えと、ありがたいんですけど、俺、この辺の講義択るかどうか……」
「うん、分かってる。だから、お金に困ったら適当にこの教科履修してる人に売って。俊平くんなら俺とルームシェアしてたこと知ってる人多いから、本物だって信じてもらえると思う」
 一冊取ってめくってみると、ほとんどの頁に書き込みがしてあった。小さな文字だが、几帳面な字体で読みやすい。
「本当は何か新居で使えそうなもの買ってあげればいいんだけど、今月お金なくて。こんなものでごめん」
「いえ、あの、ありがとうございます」
 いくらなんでも、こんなに書き込みのあるテキストを、金出して買う奴はいないだろう。中戸さんの意図はよく分からなかったが、餞別に何かしてやりたいという気持ちは分かった。彼の手書き入りのものを持って行くなんてちょっと抵抗があったが、気持ちはありがたいと思い、素直に受け取る。
「やっぱり一人が気楽だもんねー。俺、いろいろ問題引き連れてきちゃうし。今度はそんなことないようにしなきゃな。俊平くんの紹介なんだし」
 珍しく考え込むような表情でコーヒーを啜る中戸さんを横目で見て、俺は少し不安になった。
 柔らかそうな髪の毛に、今は伏せ気味になっている大きめの瞳。それを縁取る長い睫毛。マグを握る細く長い指。男にしては薄い肩に細い首。そんなに大柄でもない俺でもすっぽりと包み込んでしまえそうな華奢な身体。
 同居を始めた時には気にも留めなかったひとつひとつに、眼が引き寄せられていく。それらは何故か、コーヒーの湯気と共に俺の体温を引き上げて。
 ――今まで女にしか興味なかったって奴も、結構転んでるらしいぜ。
 有川の言葉が脳裏をかすめる。栗城は間違いなく、今はノーマルだ。しかし。
 いろんな意味で大丈夫だろうか。俺も栗城も。
 なんとなく、中戸さんだけは何があっても飄々としていそうな気がするのだが。






 翌日、有川に古いテキストを貰った話をすると、大げさに驚かれた上、とてつもなく羨ましがられた。
「いーなー。グンジ先輩の使ってたテキスト原本なら、かなりいい値で売れるぜ。二千円の定価なら三千円は下らねーんじゃねーか」
 講義中だというのに、有川は普通の声で感嘆する。それでも、前の奴が少し迷惑そうな視線を寄越しただけで、講師はおろか、後の学生も振り向きもしなかった。この講義は必修だからみんな履修しているが、講師も含めてやる気がないのだ。
「なんで古本の価格が上げるんだよ? そんなにあの人人気あるわけ!?」
 そりゃ綺麗な顔してるし、ファンクラブがあるんじゃないかという噂もあるが。
 今更だけど、何者なんだ、中戸群司!?
「ばーか。あの人、頭いいって言ったろ? そりゃファンも買いたがるかもしんないけど、それよりも、留年や退学かかってる奴だよ。そういう奴らはそれ、喉から手が出るほど欲しがるぜ。解答書き込んである過去問だったら、もっと良い値が付くんだけどな」
 有川の話によると、去年サークルで旅行をしようという話になった時、過去の試験問題に中戸さんが解答を書き込んで売ったところ、十万近く集まったらしい。それから時々、サークル活動の資金集めに中戸さんのテキストをコピーして売るということが流行ったそうだ。高く売るコツは、あんただけに渡すのだと念押しすることだという。
「ま、人の口に戸は立てられないし、今じゃコピーのコピーや、コピーを書き写した海賊版まで出回ってるらしいけどな。それでも結構な小遣い稼ぎになるらしいぜ」
 それで『金に困ったら売れ』だったのか。
 俺は納得すると同時に、やはり住む世界が違う人なのだと思った。いろんな意味で。
「売る時は俺も手伝うからさ。ちょっとは山分けしてくれよな」
 有川は小悪党のような顔をして、にやりと笑った。
 奴には俺の引越しの理由を、やっぱり一人が気楽だからと伝えてある。有川も、俺が同じマンションに入ればもっと遊びやすくなるから(俺から言わせれば、遊びよりも課題を写すのが目的だろう)と喜んでくれ、あまり突っ込んではこなかった。ただ、こう言っただけだ。
「ま、あのグンジ先輩とよく二ヶ月近くも無事に暮らせたよな」
 同居をする前ならせせら笑ったそんな台詞が、今はしんみりと胸に落ちた。












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