ブルーマウンテン 02

 その夜、俺がバイトから帰宅すると、中戸さんはまだ帰っていなかった。有川が今日はサークルの飲み会があると言っていたから、それに参加しているのだろう。
 俺はさっさと風呂に入って寝ることにした。
 決して広い浴室とは言えないが、湯船に浸かれるのはここの利点だったなと思う。ここは風呂とトイレが別なので、俺は時々湯を張ってどっぷりと浸かっていた。今月の水道代は俺持ちになっているので遠慮はいらない。次に住む部屋はユニットなのだが、それだとなんとなく浴槽に湯を張る気がしないのだ。真衣のところもユニットだったので、いつもシャワーで済ませていた。
 浴槽の中でうつらうつらとなって、慌てて上がることにする。明日の講義は午後からだが、冬休み前に提出しなければならない課題に手をつけていないので、早めに行って付属の図書館へ寄りたかった。
 風呂から上がって髪を乾かしたところで、玄関から物音がした。鍵を開けている様子なのだが、どうもうまくいかないらしい。ガチャガチャと音がするだけで、一向に開く気配がない。
 ちょっと不審に思って玄関へ行き覗き穴から覗いてみると、なんのことはない、中戸さんだった。
「俊平くんらー。たらいまー」
 中から鍵を開けて迎え入れると、珍しく赤ら顔をした中戸さんがしなだれかかってきた。呂律が回っていない中戸さんなんて初めてだ。そもそも正体不明になるほど飲んでいるところなど、見たことがなかった。改めて、この人のことはまだよく知らないんだなと思う。これ以上、知る必要もないし、知らない方がいいだろうとも。
「はいはい、おかえりなさい。って、ちょっと、大丈夫ですか?」
 足元の覚束ない中戸さんを抱えるようにして、彼の使っている洋間へ連れて行く。中戸さんはだいじょうぶーなんて言いながらも、全然大丈夫じゃなかった。手を離せばすぐにダイニングの床で寝息を立て始めそうだ。よくここまで帰ってこれたもんだと感心する。
「ベッドはもうちょっと先です。ほら、あと一歩だから、座り込まないでくださいよ」
 いっそ抱き上げて運んだ方が早かったんじゃないだろうか。俺は半分引き摺り上げるようにして、中戸さんをベッドに乗せた。
「水飲みますよね。持って来ます」
 もそもそとコートを脱ぐ中戸さんに言い置いて、彼に背を向ける。と、後ろから伸びてきた手に右腕を掴まれた。振り返ると、アルコールで目元を赤くした中戸さんが、じっと俺を見上げていた。眼が潤んでいるのも、アルコールのせいだろう。
「俊平くん、俺のこと嫌いになった?」
「え?」
 妙に色っぽいとか思ってしまう自分が嫌だ。こんな顔、間近で見るもんじゃない。
 俺は腕を引き抜いて逃げようと思ったが、中戸さんにしっかりと掴まれていて、それは叶わなかった。
「噂とか佐渡のこととか、いろいろ迷惑掛けたもんね。確かに俺、愛想つかされてもどうしようもない奴だし。そういう人間関係しか築いてこなかったし」
 中戸さんは俺の腕を放さないまま、だんだんとうなだれていった。しかしまたすぐに顔を上げると、真っ直ぐに潤んだ瞳を向けてくる。
「でも俺、一緒に暮らすなら俊平くんがいいよ。他の人じゃやだよ。嫌なとこは直すから。もうおかしな奴と付き合って迷惑かけるようなことしないから。それに、きみに変なことも絶対しない」
 な、何言ってんの、この人!?
 俺は軽くパニックに陥っていた。これが女なら、勘違いだろうが何だろうが、間違いなく押し倒している。そう、今現在、変なことをしそうなのは俺の方で。そろそろ限界なので放してくれないと困ることになるのはあなたの方で。
 しかし中戸さんは、俺の腕に縋るように顔を伏せて言った。
「もう少しここにいて」
 ……なんか、すごい殺し文句を言われたような気がするんですけど。
 でも、中戸さんにそんなつもりがないのは明白で。中戸さんがこんなことを言うのは、俺が中戸さんを好きになる心配はないと思っているからで。たとえば俺がここで彼をどうにかしてしまったら、もう二度と、彼はこんなセリフを吐いたりしないだろう。
 それもいいかもしれない。
 ふと、頭の中でそんな声を聞いた。
 どうせもう会うこともないのだ。中戸さんは来る者拒まずの人だし、俺も一度くらい若気の至りってことにして……。
 中戸さんは俺の右手首を両手で掴んで、そこに顔を埋めたままだ。右手に当たる微かな息に、誘われているような気分になる。けれど、薄い肩は小刻みに震えていて。
 俺はともすれば霧散してしまいそうな理性を総動員して、そっと中戸さんの肩に空いている左手を掛けた。上着を脱いで、骨格や筋肉の分かり易くなった肩は思ったよりもがっしりとしていて、今にも暴走しそうだった本能をなんとか引き止めることが出来た。
 視線を合わせるように膝をついて、顔を覗くように首を傾ける。しかし、中戸さんの表情を見ることはできなかった。
「中戸さん、お願いだから離してください」
「やだ」
 やだって……。
「なに子供みたいなこと言ってるんですか」
「俊平くんが出て行かないでくれるって言うなら離す」
「分かりました。今晩はこの部屋にいます」
 それも危ないと思うけど、この際仕方ない。
「そういう意味じゃなくて」
 中戸さんは小さくかぶりをふる。
「栗城はいい奴ですよ。俺なんかよりずっと。だから安心してください」
「そういう問題でもなくて」
 これじゃあ問答している間に夜が明けそうだ。
「……中戸さんて、ひょっとして酔っ払うといつもこうなんですか?」
 ふと疑問に思って口にすると、中戸さんはへ? と顔を上げた。頬に涙の筋が出来ていて、少しドキリとする。
「絡み酒」
「えーっと、さあ? あんま酔ったことないから。ていうか俺、酔ってる?」
 無自覚かよ。
「どう見ても酔ってます。ものすごく酒臭いです。ついでに顔も赤いです」
「そうかな。んじゃ酔ってんのかも。そういえば久しぶりに頭がクラクラするや」
 おいおいおいおい。酔ったらこうなるって、かなりヤバくないか?
「中戸さん、飲み過ぎた次の日に、知らない人とホテルの部屋にいたとかありませんでしたか?」
「知らない人とはない」
 知ってる人とならあるのか。
 俺は不安が増大していくのを感じていた。
 滅多に酔うことはないと本人は言っているが、今現在、中戸さんは完全に酔っ払っている。そして酔うとこうなるということは、栗城にも似たようなことをする可能性があるわけで。いや、あいつは彼女いるから間違いなんて起こりようもないと思うけど、それでも。
「俺、今みたいに飲み過ぎて迷惑かけることもないようにするから。だから、お願い。ここにいて?」
 アルコールで頬を染め、切なげに眉を寄せて、中戸さんが小首を傾げる。潤んだ瞳は、たいていの男が理性やモラルを放棄してしまうには十分すぎるほどだと思われ……。





 だめだ。限界。





「……分かりました。俺、残りますから。だから」
 頼むから離してください。




 俺は理性を手放す一歩手前で、中戸さんから解放された。












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