ブルーマウンテン 03

 翌朝、中戸さんは頭痛がすると頭を押さえながら起きてきて長いこと風呂場に篭っていたかと思うと、俺が出掛けようとした時にはダイニングに出てきていて、ぼーっとした顔でA4判のファイルを差し出してきた。
「これ、昨日部室で見つけたからついでにあげる。お餞別のおまけ」
 お餞別ということは、昨夜俺に残るよう約束させたことはすっかり忘れているのだろうか。
 ファイルを開いてみると、ぎっしりと解答解説の書き込まれた去年の前期試験の問題用紙だった。めくると、一昨年のや後期試験のものもある。
「これ……サークルで要るんじゃないですか?」
「ああ、有川から聞いたのか。また新しいの作ればいいからいいよ。ほんとはこんなボロボロじゃなくて、新しいの作ってあげられれば良かったんだけど、時間ないから。ごめん」
 そう言って、ちょっと疲れた顔で、コーヒー飲む? と訊いてくる。俺は出掛けを踏んだところだったが、なんとなく頷いてしまい、ダイニングの椅子に腰掛けた。中戸さんは対面キッチンの向こうで、わざわざろ過器を使ってコーヒーを淹れてくれている。コーヒーメーカーは、地震の時サーバーが壊れたままになっていた。
「大丈夫ですか? 昨日、かなり飲んでたみたいですけど」
「ああ、うん。飲みすぎたせいか、なーんか、ごちゃごちゃ夢ばっか見て、いまいち寝た気がしないんだけど大丈夫。どうせ今日は午後まで用事もないし、もう少し寝る」
 用事は午後からなのにさっき起きてきたのは、俺にこの過去問をくれるためだったのだろうか。いつになく寝惚けたような中戸さんの表情からは、真意は伺えなかった。それにしても、寝る前にコーヒーを飲む人も珍しい。
 やっと抽出が終わって、俺の前にカップが置かれる。コーヒーの如何なんてさっぱりだけど、あの工程を見ていただけで、なんとなくインスタントより香りが柔らかいような気がするから不思議だ。
「なんか、こうやって一緒にコーヒー飲むことはあっても、ここでご飯とか一緒に食べたことなかったね」
 俺の向かいに腰掛け、中戸さんが言う。寝惚け眼のままだが、口調は感慨深げだ。
「俺、昼は学食、夜はバイト先のまかないですからね。ここのキッチン用具、ほとんど使ったことないや。そういや中戸さんて、ちゃんと食べてます? 残飯とかえらい少ない気がするんですけど」
「食べてるよ。たまに忘れるけど」
「なんか、たまにじゃないような気がするけどなぁ」
 昨夜のことが中戸さんの中でどうなっているのか確認したいのだが、どうでもいい話ばかりしてしまう。忘れているのなら思い出させない方がいいような、それはそれで俺が可哀相すぎるような。しかし、確認しなければ今後の身の処し方を決められないのも事実で。でも、昨夜の『さ』の字がどうしても出てこない。さっき話の流れがちょっとそんな風になっていたのに、訊かなかったことが悔やまれる。
「俺、ちょっと心配ですよ。中戸さん調子悪くてもニコニコしてそうだし」
「俊平くんが人の心配?」
 中戸さんは少し驚いたように顔を上げた。でもまだ眼が少しとろんとしている。
「なんか失礼な意味が含まれてません? その言い方」
「あはは。そうかも。でもねぇ、俺、俊平くん結構好きだよ」
「は?」
 のんびりとした物言いだったが、突然発せられた告白に、頬が熱くなるのが分かる。俺は中戸さんへと投げてしまった視線を、慌てて下げた。
「あ、変な意味じゃなくてね。昨日、なんかわけ分かんない夢いっぱい見たんだけど、最初の方の夢で俺、出て行かないでくれって駄々こねて俊平くん困らせてた。一緒に暮らしててもほとんど話もしなかったのに、いつの間にか大きな存在になってたんだなぁって。……あ、ごめん。俺が言うと、やっぱ気持ち悪く取られるか」
 俺がおかしな表情をしていたからだろう。中戸さんが慌てたように口を噤んだ。
「……それ、本当に、夢だったと思ってるんですか?」
「え?」
 今度は、中戸さんが戸惑う番だった。俺の口調に不穏なものを嗅ぎ取ったのだろう。伺うようにこちらを見る。
「本当に、何も憶えてないんですか?」
「……まさか、俺……」
 夢の中の出来事だと思っていた自分の醜態を思い出したのか、二日酔いで白すぎるくらいだった中戸さんの顔が、見る見る赤くなっていく。呆然とした頬に朱が散っていき、眼が見開かれると同時に、少し開いた形の良い唇が、わなわなと震え始める。
 不覚にも、その様子を可愛いと思ってしまって、俺まで昨夜のようにパニックに陥りそうになった。
「ご、ごめん! あの、昨日、俺の言ったことなんて気にしないでいいから! というか、すごい迷惑掛けちゃってなんて謝ったらいいか……。ほんと申し訳ない。あー、もう、二、三発殴っていいよ。思いっきりやっちゃって」
 中戸さんは真っ赤になっておろおろ言っていたかと思うと、思い切ったようにテーブルの向こうからこちらに身を乗り出し、顔を突き出して眼をぎゅっと瞑った。
 その一連の動作にものすごく魅入ってしまう自分がいて、俺は自分の方を殴りたくなった。
 昨夜の真っ直ぐに向けて来た縋るような眼差しもそうだったが、羞恥と困惑で頬を染め、こちらの視線から必死に逃れようとする姿に、煽られているような気がしてくる。こんな赤い顔で目を瞑られたら、引き寄せて唇を合わせたくなる。そんなわけはないのに、この人、確信犯なんじゃないかと思ってしまう。
 中戸さんは男なのに。俺が異常なのだろうか。俺だけがこうなるのだろうか。しかし。
 ――今まで女にしか興味なかったって奴も、結構転んでるらしいぜ。
 ……やっぱりだめだ。こんな人、いくらノーマルでも他の男となんて住まわせられない。
「あの、もういいですから。俺、なんも気にしてませんし」
 俺はなるべく中戸さんの顔を見ないようにして、彼を押し返した。
「でも、」
「それに俺、中戸さんさえ良ければ、やっぱここに残ろうかなって思うんです。今のバイト先、ここに来てから探したから、今度のマンションからだとちょっと遠いんですよ。俺のシフト深夜が多いから、やっぱ遠いと面倒で。バイト変わるのもちょっとアレだし」
 ちょっと苦しいだろうかと思いつつ、そこまで考えてなかったんでと苦笑いをして誤魔化す。
 中戸さんは最初、自分のせいではないかとすまなそうにしていたが、俺が「利便性の問題です」と必要以上にきっぱりした口調で言ったからか、最後はそれならと納得してくれた。
「あの、今更ですし、中戸さんが嫌ならもちろん出て行きますけど」
 ちょっと卑屈になって俺がそう言うと、中戸さんは口に含んでいたコーヒーを飲み込んできょとんとした。もう、完全にアルコールの抜けた眼をしている。
「嫌なわけないじゃない。俺、昨日、俊平くんとじゃなきゃ嫌だって言った気がするけど」
 ……だからそういうことをサラッと言わないでください。
 俺は今にも発火しそうな顔を隠すため、栗城に断りの電話を入れてくると言って自室に逃げ込んだ。






 有川と栗城には、中戸さんに言ったのと同じ言い訳をした。訝しがられるかと思ったが、二人とも意外に「ああ、バイト先の距離かぁ」とあっさりしたものだった。学校は近くなっても、バイト先が遠くなるんじゃなぁと。
 あの空き部屋には栗城が入ることになったようだ。栗城もできれば一人暮らしが良かったらしく、却って喜んでいる。
「それに、中戸先輩とじゃ、どんな噂立てられるかわかったもんじゃないしな。実物がどんななのか、ちょっと興味はあったけど」
 栗城はそんなことを言って肩をすくめていた。
 中戸さんとは相変わらず、顔をほとんど合わせない日々だ。
 渡加部さんのことがあってから、俺とはなんでもないと学校中に知れ渡ったので、時々交際を申し込まれてはいるらしい。だが、あれからマンションに人を連れてくることはないので、特定の恋人がいるのかどうかは分からない。気にならないと言えば嘘になるが、考えないようにしている。第一、彼に対するこの感情がなんなのか、俺自身、まだよく分からないのだ。考えたって仕方ない。
 たまに、朝起きるとダイニングにコーヒーの香りが漂っていて、中戸さんがおはようと微笑んでいることがある。俺はそのたびにちょっと幸せな気分になり、そして思うのだ。
 この気持ちがなんであれ、こういう時間が持てるなら、他のことなんてどうでもいいんじゃないかと。
 決して自棄ではなく、とても前向きな気持ちで。
 もう、どうにでもなれ、と。












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