ラッテ 02

 俺は本当に用を足してから、一人で店の外へ出た。ピンと張り詰めた空気が、暖房で火照った頬に気持ちいい。
 トイレには気分の悪くなった人が篭っていたため、そうでなくても座敷を出てから時間が経っている。有川が変に思っているかもしれないが、今はあそこへ戻る気になれなかった。
 もうすぐ終電がなくなる時間だが、店はまだ、帰る気配を見せない客で賑っている。俺は風を避けるためと、出てくる客の邪魔にならないようにするため、店の横の路地に入ってしゃがもうとした。しかし、腰を下ろしかけた時、奥に先客がいることに気付いてしまった。
 俺がトイレに行っている間に王様ゲームは終わったらしい。先客は、川崎先輩と中戸さんだった。
「あー、で、話なんだけどさ」
 川崎先輩の声がする。向こうは俺に気付いていないようだ。さっきのお調子者ぶりとは違う、妙に改まった物言いに、またしても嫌な予感がする。
「俺、一昨年のミスコンの時のおまえ見てから、ずっと気になってはいたんだ。けど男だし、どうしたもんかと思ってて」
 俺は音を立てないよう、向かいの壁に手をついて、そっと体勢を整えた。
 なんなんだこれは。この二人から逃げてきたようなもんなのに、何故こんなところにまたいるんだ。さっさとこの場を立ち去れないのが腹立たしい。
「はぁ、そうでしたか」
 強張った雰囲気の川崎先輩に対し、緊張感の欠片もない中戸さんの相槌。
「男でも、キスができりゃなんとかなると思っててさ。で、さっきやったわけだけど……まぁ、嫌悪感とかまるでなかったし……どっちかっつーと、その……」
 キスくらいなら男同士でも平気だったりするんじゃないか? などと心の中で突っ込みを入れつつ、そろりそろりと向きを変える。
「でよぉ、今晩この後なんだけど……」
 川崎先輩の声はだんだんと聞き取りにくくなり、しまいには何を言っているのか分からなくなった。しかし、台詞の続きなんて容易に想像できてしまうもので。
 なんでこういう場面に遭遇するかな、俺!?
 俺は路地を抜け出して店の表の壁に凭れかかった。中の喧騒を壁一枚隔てて聞きながら、ぼんやりと星のない夜空を見上げる。
「今日は来るんじゃなかったな」
 酒も飯も土産の味も、ブラックホールのような夜空に吸い上げられていったような気がした。






 新年会もお開きになり、さあ帰ろうと集団で店の外に出たところで、中戸さんに腕を掴まれた。
「電車なくなったから店の人にタクシー呼んでもらったんだけど、今日はなかなか掴まらないみたいで。駅前大通りに出ればちょこちょこ拾えるかもしれないって聞いたから、ぼちぼち歩いて行ってみよう?」
「え、でも」
 今夜はてっきり、中戸さんは川崎先輩に同行して、マンションには帰らないものだとばかり思っていた。
 中戸さんは躊躇する俺を見て、有川と約束していると思ったらしい。
「有川なら、箱辺ともう帰ったよ」
 そのことは知っていた。箱辺さんは有川の彼女で、サークルの飲みがある日はたいてい有川の部屋に泊まっている。
「いえ、有川じゃなくて……その、いいんですか?」
 ちらりと川崎先輩の方を見遣る。彼は、先程の路地での様子が嘘のように、朗らかな声で会費を集めながら、二次会出席者を募っていた。
「ああ、見られてたんだ」
 言いたいことを察知したのか、中戸さんはしまったなと頭を掻いた。
「俺、恋人がいるってわかってる奴とサークルの奴とは寝ないって決めてるから。仲間うちで面倒なことは避けたいし」
 集団と離れて歩き出しながら、中戸さんが言う。この人の口から『寝る』なんて言葉がサラリと出てきたのには、少し驚いた。卑猥な噂も多い人だが、実際に接する彼は、そういう行為とは無縁のようにも見えて。
「だったら、サークルの人を誘えばよかったんじゃないですか、同居」
 俺は素っ気無く返した。ゼミ仲間とはヤってるんじゃないかとも言いたかったが、それはさすがに控えておく。
「んー、でも、向こうも同じように思ってくれるとは限らないしね。今回みたいに。その点俊平くんは、そういう心配要らないと思ったから。有川と話してるのきいて、女の子にしか興味ないんだって分かってたし、割と他人に関心持たないでしょ、良くも悪くも。俺の噂も耳素通りしてたみたいだし」
 中戸さんは、いつもののんびりした調子で言った。悪意のなさそうな口調で、他の人だったら多少考え込んでしまいそうなことをサラリと。
 いつもなら的を居た発言だと思うはずの俺も、やはりそうだったのかと納得すると同時に、少し悲しくなった。予想していたことではあるが、俺は中戸さんを好きになる心配がないから、同居人に選ばれていたのだ。それは決して、中戸さんが俺をそういう対象としてみることはないということで。
 いやいや、俺はノーマルだし、これからもそうでありたいんだから、それでいいんだけども。
「それに、彼女と別れても平然としてて、結構俺と似たようなタイプなのかなって」
「人の心が変わるのはどうしようもないでしょう。いつかは彼女も心変わりするだろうと思ってはいたし」
 実際俺の母親は、心変わりをして出て行った。何年も連れ添った夫と、身を挺して地震から守ろうとしたわが子に、あっさりと見切りをつけて。
「そういう移ろいやすいものに振り回されるの、なんか馬鹿馬鹿しいじゃないですか。噂話も同じです。一日目にはみんなこぞって信じてたのが、三日目には嘘だって話になったり。そして真実は誰も知らなかったりする。だから俺はあまり信じないことにしてるんです」
「あはは。なんかそれ、人間自体信じてないみたいに聞こえるよ」
「そういうつもりはないんですけど。あ、でも、他人にあまり関心がないっていうのは結構当たってます。最初の頃にも言った気がするけど、人がどう思ってんのかとか、あんま気になんないし」
 中戸さんは、やっぱりねと言って、鼻を擦った。
「俊平くんがそういう雰囲気持ってたから、俺も同居しようって誘ったんだけど。でも……」
「でも?」
 まさか、俺が時々おかしな具合になることに気付かれたのだろうか。
 しかし中戸さんは、俺の問いには答えずに、詩のようなものを諳んじた。


  二人デ居タレドマダ淋シ、
  一人ニナツタラナホ淋シ、
  シンジツ二人ハ遺瀬ナシ、
  ジンジツ一人ハ堪ヘガタシ。


 滔々と発せられた文章は、そこはかとない淋しさを湛えていて。
「なんですかそれ」
「北原白秋の『他と我』。昔はさ、よく分からなかったんだ。でも今は、俺はいつも相手をこんな気持ちにさせてたのかなって思う」
 上の空の中戸さんといても淋しいに決まっている。しかし、一人になればもっと淋しいから付き合いを続ける。けれど彼はいつも上の空で、想いは伝わっているようで伝わっていない。それでも一人になることはできない人は、彼との付き合いをやめられなかった。自分に新たに好きな人ができるか、中戸さんが関係を断ち切るようなことをするまで。
「二人でいるのに淋しいって、悲しすぎるよね。そういうの俺、気付かなかった。人と一緒にいるのも一人でいるのも変わらないような気がしてた」
 いつも『上の空』だったから。そういうことだろう。
「今は、違うんですか?」
 中戸さんは、マフラーに口許を埋めて、ポツリと答えた。
「時々、あの詩みたいな気分になることがある」
 まさか、そんな相手が現れたということだろうか。もしや、俺が帰省している間に?
 ついさっきノーマルでいたいからと思ったばかりなのに、俺は二週間も帰省していたことを激しく後悔した。
「今までの報いを受けてるのかな」
 冷たい外灯の光に浮かび上がる中戸さんの姿はとてつもなく儚げで、淋しそうで。俺は腕を掴んで抱き寄せたい衝動に駆られた。抱きしめて、そんな奴のことなど忘れてしまえと言ってしまいたい。俺だったら、絶対にそんな気持ちになんかさせないと。
 けれど中戸さんは、俺がそういうことをするわけがないと信じているから、俺にこういうことを言うわけで。





 二人で居ても淋しいのは、中戸さんと居てやるせないのは、俺だ。





「あ、タクシー来たよ」
 マフラーから顔を上げて、中戸さんがふわりと笑った。見る者を暖かくしてくれるような、そんな笑顔で。
 この人は残酷だ。とても。
 俺はポケットから出しかけていた手を、ぎゅっと握り締めた。
 報いを受けているのは俺も同じなのかもしれない。今まで、人に対してこんな気持ちになったことはなかった。付き合った女性に対してさえも。ちゃんと好きだったし、大切にもしてきた。でも……。
 いやきっと、今の感情はあの時とは違うものだからだ。恋愛感情などではないからだ。
 でも、それなら何故、こんなに胸が締め付けられるような気がするのだろう。
 タクシーのドアが開き、俺たちを同じ場所へと連れて行く。けれど、中戸さんと俺の想う場所は、全く違うところにあるに違いなくて。





 夜空からは、年が明けて初めての雪が、音もなく舞い降りてきていた。






 そんなこんなで、こっちに戻ってからたったの二日。
 俺はまた、わけのわからない感情の渦に飲み込まれそうになっていたのだった。












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