コンパナ 01

 冬休みに再会した元クラスメートの犬飼三咲からメールが来た。高校卒業と同時に就職した彼女は意外にも、俺の通う大学の最寄り駅近くにある洋菓子店で見習いとして働いていた。同窓会の席でそのことが判明し、「おおー! 奇遇だー!」と、互いのメールアドレスを交換したのだが。
 『私の考案したバレンタイン用のケーキが採用されて、今日から店頭に並ぶことになりました! サービスしちゃうから、ぜひ食べに来てね(^-^)』
 俺が女ならまだしも、彼女もいない男が一人で洋菓子店にケーキを食べに行くのはいかがなものか。あまりに少女趣味なその店の外観を思い出し、俺は『機会があったら』とだけ返信した。






 それは第二外国語の授業でのことだった。
 俺と有川は、空き時間の関係で選択したさして興味もないドイツ語の講師を、シュッケツと呼んでいる。それはその講師が毎回必ず出欠を取るからでもあるのだが、いつぞやの学際で鼻血を出したという話があるからだった。有川の話によると、彼のサークルの部室には、その時の写真もあるらしい。
 予鈴が鳴って、そろそろシュッケツが入ってくるという頃、俺の右側に一人の女生徒が腰掛けた。他にも席はたくさん空いているのにと不思議に思っていると、左隣で有川がぎょっとしている。なんだろうと思って右を見ると、彼女とばっちり眼が合ってしまった。愛らしい顔が、ふわりと微笑む。なんだ、あまりにも可愛いから有川が驚いてたのか。
 俺はとりあえず会釈して、ハテと思った。
 こんな子、この講義にいただろうか。ドイツ語自体に人気がないのか、シュッケツに人気がないのか、この講義を取ってる奴自体がそう多くないのに、今までに見たことがない。こんな少人数クラスでこれだけ可愛ければ、覚えていないはずはないと思うのだが。
 周囲を見渡せば、気付いた人間はなんとなく色めき立っているようで、やはり部外者なのではないかという気がする。しかし、どこかで会ったこともあるような……。
 俺は不躾になるかならないかギリギリの視線で、彼女の横顔を観察した。大きめの瞳にそれを彩る長い睫毛。形の良い鼻梁。薄っすらとグロスの光る艶やかな唇。それらを隠すように垂らされた、長い巻き髪。どこのパーツを取ってみても、こんなに綺麗な女の子に覚えはない。しかし、微かに漂うシトラス系のラストノートにはたしかに覚えがあり。
 俺の視線に気付いたらしいその子が、伺うようにこちらを見た時、俺は椅子から転げ落ちそうになった。
「な、中戸さん!?」
 見覚えがあって当たり前だ。それはまごうかたなき俺の同居人で。
「あははー。やっと気が付いた」
 彼女、ではなく、彼は、容姿にそぐわない低い声で無邪気に笑った。




 シュッケツが入ってきても、中戸さんは席に座ったままだった。このままここに居座るつもりなのだろうか。シュッケツが出席を取る声が響く中、笑いを含んだ小さな声で、俺たちに話しかけてくる。
「俊平くん気付くの遅すぎ。有川はとっくに気付いてたよ」
「や、俺はグンジ先輩がこの授業に来るかどうかの見張り役でもあったから、一応衣装とか知らされてて……」
 中戸さんの言葉に、有川が弁解口調で答える。どうやら有川が驚いたのは、可愛い子がやって来たからではなく、こっそり見張る予定だった中戸さんが、すぐ近くに座ってしまったからだったようだ。
「見張り役ってなんだよ? てか、中戸さん、そんな格好で何やってんですか!?」
 小声で両隣に問い詰めている間にも出席確認は進み、「蒔田」と呼ばれてHierと返事をする。
「うん、サークルでね……」
 中戸さんが何か言いかけた時、シュッケツが有り得ない名前を呼んだ。
「中戸」
 へ?
 一瞬、教室全体が固まる。『蒔田』をとっくに過ぎているのに、今更『な』に返るのはおかしい。しかもこのクラスに中戸なんていない。シュッケツの奴、早くもボケたか。
 しかし、そう思ったのは、俺と有川と中戸さんを除くメンバーだけだろう。少なくとも俺は、隣に座る中戸さんに眼が行った。
「中戸群司。きみだよ、そこの似非女子学生」
 シュッケツの言葉に、にわかに周囲がざわめき出す。中戸群司ってあれか? 三年の有名人。え、どこ? なんでいるの?
 そう、中戸さんは学内ではちょっとした有名人で、ほとんどの学生が顔は知らなくても名前だけは知っているのだ。
「あーあ、バレちゃいましたか」
 中戸さんは悪びれた様子も見せず、のんびりと立ち上がった。その声と姿に、今度は教室中が唖然とする。中戸群司が男だということは、名前だけでも明白だろう。しかし、立ち上がったのはどう見ても可愛らしい女の子で。でも、声は確実に男性のもので。
「私の講義で、その格好で男子生徒をたぶらかすというのは、何かの嫌がらせですか」
「そんなまさか。ちょっとした賭けです」
「賭け?」
 悪いのは確実に中戸さんの方なのに、何故かシュッケツの方が焦っているように見える。中戸さんは女装姿でも泰然としたまま、経緯を説明した。
「はい。サークル仲間とやった麻雀で負けが込んでしまいまして。今月生活費が苦しいので支払いを待ってくれと頼んだところ、この時間、この教室である講義にこの格好で出席して、男の子にデートの約束を取り付けてきたら、負けた金額を倍にして、反対にみんながぼくにくれるというんです」
 つまり有川は、たまたまこの授業を取っていたから、中戸さんが来るかどうかを見張る係になっていたのだ。ここ以外の場所でデートの約束を取り付けても、それは無効ということなのだろう。
 この人たちのサークルは、何をやってるんだ!?
 俺は変人に脇を固められている気分になり、少々げんなりした。
「なんで時間や教室を指定してくるのかと思ったら、センセの講義だったんですね。こっちに分が悪くなるようにしてあったわけだ」
「グンジ先輩が出たミスコンの審査員に、シュッケツもいたんだよ。奴が鼻血噴いたのはそん時」
 どういうことか分からないでいる俺に、有川が耳打ちしてきた。
 つまり、中戸さんが『分が悪い』と言ったのは、シュッケツが中戸さんの女装姿を見たことがあったからなのだそうだ。
 中戸さんは、一昨年の学際の時、これまたサークルの罰ゲームで、女装してミスコンに出たことがあるらしい。もちろん、男というのは秘密にして。そこで何かの間違いが起こり、本物の女性達を差し置いて優勝してしまったのだ。その後、優勝者は中戸さんだと判明。主催者もさることながら、審査員をしていた人たちはさぞや泡を喰ったことだろう。
「え? それって……」
 男と知らずに、中戸さん見て噴いたわけ? そりゃ生涯に渡って残る汚点だな。
「その後、男だって判ってからもしつこく食事に誘ってたって話。まさかとは思ったけど、事実だったのかもな」
 有川は感慨深げに中戸さんを見た。女装写真は見たことがあったが、実物も喋らなければ女の子で通るくらいの化けようだ。もともと柔らかくどこか女性らしい顔立ちではあるが、普通に歩いていて女性に間違えられるほどではないのに。サークル内に、メイクのプロでもいるのだろうか。
 シュッケツはまたバカなことをやっているなといった風に鼻を鳴らし、しかし、少し考える素振りを見せて、ドイツ語(だと思う)で何か言った。
 なんだなんだ? 何言ってるんだ!? そんな周囲のざわめきをものともせず、中戸さんも立ったまま、サラリとドイツ語で応じる。最初にダンケシェーンと言ったのは辛うじて分かったが、後はさっぱりだ。ありがとうございますって、シュッケツに何の礼を言う必要があるんだか。
 シュッケツはまた、それに俺では訳せない言葉で返し、日本語に戻った。
「それでは、授業にならないので出て行ってもらいましょうか」
「そうですね。でも、その前に」
 中戸さんはにっこり笑ってそう言うと、立ったまま俺を見下ろしてきた。
「そういうわけで俊平くん、今日の放課後付き合ってくんない? この賭けに勝つと、お互い来月の家賃半額で済むんだけど」
 ちょっと卵買いに行くのに付き合ってくんない? そう言うくらいの気楽な調子だったが、これはひょっとして、ひょっとしなくても、俺とデートしようってことですか。いやそれはまずいっていうか、やばいっていうか、でもここで断って有川とか前で顔赤らめてる奴とかに話がいくのもちょっと……。
「……そ、ういうことなら」
 俺の返事に、教室中が騒然となる。
 そりゃまぁ普通、男が男にデート申し込まれてオッケーなんてしないわな。でもこれは、来月の家賃が半額になるからで。来月は後期試験もあるからバイトも休み取らなきゃならないからで。いわば共同戦線というやつで。
 中戸さんは綿菓子みたいな笑顔でありがとうと言うと、有川に声を投げた。
「有川、正体がバレても約束さえ取り付ければオッケーだったよな」
「ええ、まぁ。でも、こういうやり方は……」
 有川は唖然としたまま答える。
「同居人はダメだなんて条件なかったはずだけど」
「……たしかに」
 観念した様子の有川に、中戸さんは満足そうに微笑んだ。
「そんじゃ、ここにいる全員が証人ってことでいいな」
「でも、ちゃんとデートしないとダメっすよ?」
「はいはい。じゃ俊平くん、講義全部終わったら俺の携帯に連絡して。番号は有川が知ってるから」
 そして彼は、天使の微笑みでシュッケツを見据えると、
「Verzeihen Sie bitte die Stroung.」
 流暢な異国語で謝辞を述べて出て行った。
「あの人、なんかすげぇな」
 なんか嵐みたいだった。
 有川はそう呟いて溜息を吐いた。一緒に住んでいる俺も中戸さんのことはよく分からないことばかりだが、同じサークルにいて四月から付き合いのある有川も、底が知れない人物だと思っているらしい。
「きみは、あの男と暮らしているのですか」
 机に沈みそうになっていると、突然シュッケツに声を掛けられた。慌てて背筋を伸ばし、「はい、まぁ」と答える。
「少し前から同居させてもらってます」
「Sei vorsichtig!」
「は? ふぉ?」
 言われた意味が分からなくて戸惑う。有川に訊こうとするが、奴も首を振って分からんと主張した。
 シュッケツが大きな溜息を吐く。
「きみ、この講義の単位、取る気あるんですか。試験は来月の頭ですよ」




 こうして俺は、衆人環視の中、中戸さんとデートの約束をしてしまった。












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