コンパナ 03

 押し開きの扉を開けると、カラカラとカウベルの音がした。いらっしゃいませとショーケースの向こうから営業スマイルをのぞかせたのは、他ならぬ犬飼三咲その人だった。仮面のようだった笑顔が、親しげなものに変わる。
「あ、蒔田くん、来てくれたんだ。え、なに、彼女?」
 中戸さんを見て、うそーっと大げさに驚く。何に対して『うそー』なのか。
「違うよ。学校の先輩。こんなとこ、一人や野郎同士じゃ来れないから、頼んで付き合ってもらったんだ」
 実は野郎同士なのだが。
 中戸さんはペコリと頭を下げた。犬飼もそれに倣ってから、俺に顔を寄せてきた。
「ちょっと、どうやって知り合ったのよ? めっちゃかわいいじゃん! 蒔田くんとなんて勿体無い! てか、有り得ない!」
 勿体無いまではまだ許せる。俺だって、これくらい可愛い女の子がいたとして、俺みたいのと付き合ってたら勿体無いと思うだろう。しかし、有り得ないってどういう意味だ。この人は中戸さんだから有り得ないけど、女の子なら有り得たっていいではないか。
 とはいえ、そんなことを言っていると言わなくていいことまで言ってしまいそうなので、ここは某ピン芸人のように右から左へ受け流すことにする。
「だーから、大学の先輩だって。で、どれなんだよ? 犬飼の自信作は」
「それならテーブルに持ってくから空いてる席ついててよ。イートインしてくでしょ? 彼女さんは何になさいますか?」
「だから彼女じゃないって!」
「照れなくてもいいから! あ、これですねー。お席にお持ちしますから、少々お待ちください。テーブルにお飲み物のメニューもありますから、良かったらどうぞ」
 ショーケースの中のチーズケーキを指差していた中戸さんに、にこやかに声を掛け、犬飼はいそいそと仕事を始めた。
「なんか、すいません」
 奥のテーブル席に腰掛け、俺は中戸さんに謝った。無難に三時間をやり過ごすために、事情を話せる俺を選んだんだろうに、これじゃあ本当のデートみたいだ。
 中戸さんは不思議そうに首を傾げる。そしてこれまた誰から借りたのか、女性物の小さなバッグからメモ調とボールペンを出すと、メモ用紙を一枚破って何やら書き始めた。
 伏せ気味になった睫毛で、マスカラがキラキラと光っている。速く書こうと焦っているのだろう。冷え切っている手に時折息を吹きかけ、また唇を引き結んで一生懸命書き込む。その必死な様子が、どうにも可愛くてやばい。
『俊平くんが謝ることないよ。俺が巻き込んだんだし。こっちこそごめん。友達に変な誤解されちゃって。ちゃんと分かってもらうようにするから』
 しばらくして差し出された紙には、そう書いてあった。
「弁解なんていいですよ、別に。言ったでしょ。俺、人からどう思われてもあんま気になんないって。否定したのは中戸さんが迷惑するかと思っただけで……」
 メモを読んだ俺が慌てて言うと、すまなそうだった中戸さんの表情が、ふっと綻ぶ。
『ありがとう』
 中戸さんは新たな紙にそう書いて、にっこり微笑んだ。
「いや、別に」
 俺はまた視線を外すようにして、もごもごと答えた。その格好で、あまり無防備に微笑まないでほしい。
「それより、何か飲むもん頼みます?」
 気を取り直してした質問に、中戸さんは『ありがとう』のメモの端に、『ブレンド』と書き付けた。俺は頷いて、ケーキを運んできた犬飼にブレンドコーヒーを二つ注文した。
 犬飼のデザインしたというケーキは、バレンタイン用というだけあって、濃厚なチョコレートケーキだった。少し酒が入っているのか、ほろ苦い大人の味というやつだ。見た目もシンプルで、いつも騒がしい犬飼が考えたとはとても思えないようなシックなものだった。犬飼の性格と店の雰囲気から、ハート型のチョコがあちこちにあしらってある、お子様っぽいケーキを想像していたのだが。
「どうよ? なかなかのもんでしょ?」
 コーヒーを運んできた犬養は、得意そうに鼻を擦った。俺は素直に頷いた。
「うん。犬飼って外見も言動もちっとも成長してないと思ってたけど、思考や味覚はある程度大人になってたんだな」
「どういう意味よ!? あ、彼女さんも良かったらどうぞ。これ、あたしの奢りです」
 限りなく優しい猫なで声で、犬飼は自作のケーキを中戸さんにも一つ進呈した。中戸さんは「あ」と言おうとして、慌てて口を噤み、メモ用紙に『ありがとう』と書き付ける。
「あのな、もうちょっとサービスするもの考えろよ。ケーキ二個も食えるわけないだろ」
「ケーキはね、女の子にとっては別腹なのよ!」
 呆れる俺に怒声を浴びせ、犬飼は「そうですよねー」と中戸さんに同意を求めた。ノリのいい彼は、「ねー」というように首を犬飼に傾けてやっている。しかし、犬飼が消えた後で、少し複雑な表情になっていた。甘いものは得意ではないのだ。
 けれど中戸さんは、結局犬飼のケーキもペロッと食べてしまった。俺は食べれないだろうと思って「持ち帰りにしてもらいましょうか」と提案したのだが、『いい 食べる』と走り書きを寄越して、自分で頼んだチーズケーキより先に平らげてしまったのだ。そして、『おいしいね』とまたメモを寄越す。顔を上げると、コーヒー好きな中戸さんが、気に入りのコーヒーを飲んだ時と同じくらい幸福そうに微笑んでいて。
 俺は少しだけ、この人にこんな表情をさせることができる犬飼を尊敬した。




 その後は時間まで、その店で映画の感想なんかを言い合った。言い合ったと言っても、中戸さんはずっと筆談していたのだが。
 俺は今日の映画の内容をあまり覚えていなかったので、苦し紛れにアザーズの話を出すと、中戸さんもあれは途中で先が見えたらしい。『先にシックスセンスとか観てるとダメだよね』なんて書いてきた。
「そうそう、レンタルショップに、シックスセンスが好きな人は必見! なんて書いてあるから、よけい分かっちゃったんですよ」
『シックスセンスの方は、俺ぜんぜん分かんなかった』
「俺も。観る順番逆だったら分かったかなー」
『あと、レンタルショップの煽り文句ね』
 中戸さんの方が筆談なので、これだけの会話にものすごく時間が掛かったように感じた。こんなに長くたわいない話をする機会なんてなかったのに、こんなことに時間を割かれるのはなんだかとても勿体無く感じて。
「今度一緒に外出する時は、普通の格好で出ましょうね」
 俺はつい、そう言っていた。言ってしまってから、今は賭けの最中で、中戸さんは普段までこんな格好をしているわけがないのだと思い出し、ちょっと狼狽した。慌てて、
「こんな風に会話するの、まどろっこしいってか、面倒くさいし」
と付け加え、この台詞もおかしいと気付いてまた冷や汗をかく。
 でも、中戸さんは一瞬きょとんとしたものの、メイクで一段と大きく見える瞳を細めて頷いてくれた。
 その笑顔は、この店にあるどのケーキよりも、ずっと甘く輝いて見えて。
 俺は冷たくなったコーヒーに、視線を落とした。






 犬飼に茶化されながら店を出ると、予定の時間を少し過ぎていた。条件に従って手を繋いで駅に急ぐと、有川がニヤニヤしながら待っていた。
「ずいぶんとごゆっくりなご帰還で」
 息を切らせている俺と、俺の背をさすってくれている中戸さんを、人の悪そうな笑みを浮かべて眺めている。
 中戸さんは俺の呼吸困難が治まると、バッグから携帯を出して有川に渡した。
「はい、携帯。終わりの時間ってことで有川が撮って。カメラはもう起動させてあるから」
 携帯のレンズに収まるよう、中戸さんと身を寄せ合って時代遅れと思いつつもブイサインなんぞしてみる。しかし、有川はそんな俺達を見て、構えていた携帯を下げた。
「別れ際はホッペにチューですよ」
「俺ら同じところに帰るんだから、別れ際なんてないだろ」
 中戸さんの屁理屈とも取れる理屈に、その手があったかと、俺もぶんぶん首を縦に振って頷いた。来る者拒まずとまで噂されるこの人に拒否られているのかと思うと、それはそれで複雑な気持ちになるが、有川の前でされるのは困る。
 しかし、それは無情な有川の言葉で簡単に却下された。
「それはダメです。条件満たせなかったってことでグンジ先輩の負け」
 『負け』の一言には、中戸さんと俺の意見も重なるというもので。
「ええー! それはダメ!」
「はいはい! やります! やらせていただきます! いい、俊平くん?」
「もちろん! 家賃半額のためならどんと来い!」
「んじゃ有川、ばっちり撮れよ」
「ラジャー」
 有川が携帯を構え、中戸さんの手が俺の左肩を軽く押さえた。シトラス系の香水の馨りがふわりと広がり、ケーキのせいか、甘く微かな息遣いが近づいて。



 俺の左頬に、小さな小さな熱が灯った。






 マンションへと帰る道々、俺は中戸さんの半歩前を歩いていた。中戸さんが微かに触れただけのはずの頬が、まだ熱を持っているような気がする。
 後ろから「ハァーッ」と微かな音がして振り向くと、中戸さんが自分の手に一生懸命息を吹きかけていた。格好は女の子のままだ。
「男のくせに冷え性ですか?」
「今は一応女の子ってことで」
 中戸さんはヘラリと笑ってふざけたことを言う。
「まさか女に転向しようってんじゃないでしょうね。犬飼のケーキもすげぇ美味そうに食ってたし」
「別に男でもケーキ好きな人いるでしょ」
「でも、中戸さん甘いもん苦手でしょ。犬飼のは気に入ったんですか」
 俺はどこかで犬飼に嫉妬しているのだろうか。あまりケーキの好きではないこの人に、あんな笑顔をさせることができた彼女に。
 って、なんで俺が嫉妬しなきゃならないんだ。
「ああ、あれは……」
 言いかけて、もう一度両手に息を吹きかける。
「同じ空間で、同じ時に同じ物を食べてたから。だからおいしく感じられたんだと思う」
 人と何かを食べるっていいもんだね。
 そう言う彼は、さっきと違うふうわりとした笑みを浮かべていて。
 でも、中戸さんにきっと他意などないはずで。『人』というのは俺に限ったことではないと分かりきっているし、第一、中戸さんには気になる人がいるかもしれないのだ。それでも、さっき犬飼のケーキを一緒に食べたのは、紛れもなく俺で。
 俺は少しだけ、頬の熱が上がったような気がした。疼きにも似たこそばゆさが、数分前に中戸さんが触れた場所に込み上げてくる。
「あーあ、手袋してくるべきだった。賭けの間は俊平くんの手があったかかったから、そんなに困らなかったんだけど」
 中戸さんはそんなぼやきを吐き出した後、俺の方を見て微かに微笑んだ。助かったよ、ありがとう。そう言って。
「じゃあ、マンションまでは賭けの最中ってことにしましょうか」
 この時、俺はなんでそんな行動を取ったのか。たぶんそれは、中戸さんが女の子の格好をしていたからで。きっと、頭のどこかが、これは中戸さんではないと思っていたからで。
 俺は中戸さんの左手を取ると、軽く握って自分のコートのポケットに突っ込んだ。俺より僅かに小さな手は、少し経ってから、俺の手を握り返してきた。
 隣で剥き出しの右手に息を吹きかけている中戸さんの顔が赤いような気がするのは、たぶん息の吐きすぎで、酸欠に近くなっているからなのだろうけど。




 この先、いつまでこうして同じ場所に帰れるのかは分からない。それでも。
 ――俺ら同じところに帰るんだから、別れ際なんてないだろ。
 できるだけ長く、それが続けばいいと思う。
 願いにも似た感情で。
 祈るような切実さで。






 後日、有川から無理矢理ひったくって見たオプションの紙には、半ば予想したとおり、卑猥なことが羅列してあった。












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