カプチーノ 01

 シュッケツがドイツ語で中戸さんに言った言葉はこうだった。
「なんなら私が、その賭けに協力しましょうか?」
 それに対する中戸さんの返事は、
「ありがとうございます。でも、退学にはなりたくないのでご遠慮申し上げます」
 ついでにシュッケツが俺に投げた単語は、
「気をつけなさい」
 中戸さんが女装でドイツ語の講義に侵入し、俺に賭けの協力を仰いで来た時のことである。
 賭けは女装した中戸さんが、俺たちがシュッケツとあだ名を付けている講師の講義に出席している男子生徒とデートの約束を取り付けられれば結構な額の金が手に入るというもので、家賃が半額になるというので、俺はそのバカげた賭けに乗った。もちろん、罰ゲームの意味も兼ねた賭けなので、約束だけで済むはずもなく、女装男と一緒にそれなりにブラブラもしたのだが。それはまぁ置いておくとして。
 大方の予想を裏切らず、ドイツ語の追試を受ける羽目になった俺に、シュッケツは言った。
「蒔田くん。私は、中戸群司のことがあるから落としたと思われるのは心外です。だからできれば君にはすんなり単位を与えたかった。けれど、君の答案用紙を見る限り、それはとても許されることではなかったのです。信じてくれますね?」
 ああ、信じるさ。こんな変態に落とされるのは俺だって心外だが、できていなかったのは、誰より俺が一番良く知っている。




 そして俺は、同じく追試組になった有川と共に、中戸さんに特訓してもらってどうにか第二外国語の単位を取得したのだった。






 その日俺は、コーヒーメーカーを求めて電気店をうろついていた。
 マンションにあったコーヒーメーカーは中戸さんの持ち物だったのだが、去年あった地震でサーバーにヒビが入り、コーヒー好きな彼はかなり気落ちしていた。そこで、追試や日頃のお礼も兼ねて、中戸さんにプレゼントしようと考えたのである。そうでなくても、年末に俺がマンションを出て行こうとした時に渡された餞別も貰ったままだったので、いつかお返しをしなければと思っていたのだ。
 今月は後期試験でバイトを何度か休み、給料は幾分少なかった。しかし、中戸さんの賭けに協力して家賃が半額以下で済んだので、今なら少し懐に余裕がある。
 キッチン家電のコーナーに行くまでに、パソコンやオーディオの売り場を覘いていたら、ポケットの中で携帯が震えた。取り出してみると、着信画面には『犬飼三咲』の文字。
「やっぱり蒔田くんだー! 後ろ向いて後ろ」
 携帯から飛び込んできた声に従い後ろを向くと、一筋隔てた向こうの通路に、携帯片手にぴょんぴょん飛び跳ねている犬飼の姿があった。
 犬飼は携帯を切ると、こちらに回ってきた。
「うちの店で会って以来だねー。元気してた? 今日は一人? 買い物? 彼女さんは一緒じゃないの?」
 こちらに口を挟む余地も与えず、一気に捲くし立てる。彼女の言葉が途切れると、俺も一気に返した。
「元気だけど試験で疲れてた。今日は一人。とりあえず買い物。そしてあれは彼女じゃない。犬飼は今日休みなのか?」
「午後からね。午前は仕事してきた」
「それはそれはゴクローさん」
 高校の同級生だった犬飼は、卒業してすぐに洋菓子店に就職した。特に製菓の学校に通ったわけでもないのに、今はパティシエ見習いとして頑張っているらしい。
 ついでに言うと、犬飼が言う『彼女さん』とは中戸さんのことで、当然のことながら、俺の彼女でもなければ、『彼女』という文字に当てはまる人でもない。犬飼に会った時、例の賭けの最中で女の格好をしていたので、彼女が女性だと思っているだけだ。本当のことが分かれば、俺まで変態だと思われることは必至。それだけは避けたい。避けたいのだが。
「犬飼。おまえ、俺にとびっっっっっきりカワイイ彼女ができたってあちこちにメールしやがっただろ!」
「あ、バレたぁ?」
「バレたぁ? じゃねーよ! 試験期間中、いろんな奴から彼女の写メ送れってメールが来たんだからな」
 全部無視ったけど。
「だって、あんなに可愛いんだから、自慢したいだろうと思って」
 お膳立てしてあげたんじゃん。
 犬飼は悪びれもせず、にぃっと歯を見せて笑う。
 そうなのだ。こいつが高校の同級生にふれ回ってくれたおかげで、俺は試験期間中、同じく試験期間で腐っていたであろう奴らに、しつこく彼女の写真を送れとメールを送りつけられた。とびっっっっっきりカワイイんだろ!? 独り占めすんなよ、と。普段なら、そんな羨ましいもん見たくもない! となるはずなのにこの反応。何に使う気かは目に見えている。誰が送るか馬鹿野郎。
「んなお膳立てなんかしてくれなくていい!」
「照れなくていいって。ほら、そんな怖い顔してると彼女さんに逃げられちゃうよ」
「怖い顔は生まれつきだ! てか、彼女と違うし」
「まだ彼女じゃないのぉ? 頑張りなよ。脈はあると思う!」
「おまえの目、節穴だろ」
 中戸さんは男とでも平気で寝るような人だけど、俺に脈がないから一緒に暮らしているのだ。一見矛盾したような理屈だが、中戸さんの恋愛の仕方にはかなり問題があるので、あまり長続きしないためだと思われる。
「節穴じゃないよ。あの時だって、蒔田くんが頼んだら、風邪引いてるのに付いて来てくれたんでしょ?」
「それは向こうも時間つぶしを探してたからで」
「でもさ、その割には楽しそうだったじゃん。彼女さん、めっちゃニコニコしてたし。他のスタッフも言ってたよ。あそこ、すっごいイチャついててムカつくって」
 ……イチャついてる客見てムカつくって、ケーキ店の店員としてどうなんだ。
 誰もイチャついてなどいないが、そんな目で見られていたのかと思うと、穴を掘って埋まりたくなる。
「あの人はいつもニコニコしてるような人なんだよ。ニコニコは地顔で、笑ってても頭ん中は空っぽだったりすんの」
 俺はキッチン家電のコーナーへ移動しながら言った。何故か犬養もついてくる。
「空っぽって、頭悪いってこと?」
「いや、頭はいんだけど。心ここに在らずってやつ? あの人の場合、笑顔だったからって楽しんでたとは限らないんだよ。俺と喋ってても、俺のことや喋ってる内容は頭素通りしてんじゃないか」
 いや、頭には情報として入ってはいるだろう。的確な返事をするし、数日前の話を蒸し返しても、きちんと覚えてもいる。ただ、心には届かないのだ。いつも『上の空』の中戸さんは、会話に気持ちなど伴っていない。だからどんなにいい笑顔を向けられても、そこに中戸さんの感情はない。
「相変わらず他人事みたいな言い方するねー、蒔田くんは。店に来た時は、てっきりあの彼女さんのこと好きなのかと思ったけど」
「なんでそうなるかな」
「顔だよ顔。表情。空っぽの顔してたのは蒔田くんでしょ。紗江やカコと付き合ってた時でも、どっか冷めてる感じでさ。でも、この間は違うような気がしたから、あの彼女さんは特別なんだなって思ったの」
 空恐ろしい奴だ。犬飼三咲。
 そういえば、高校の時付き合った西山紗江などは、犬飼に俺は止めておけと言われ、俺達の仲を疑っていたようだった。犬飼が俺を好きだから、自分達を別れさせようとするのだと思ったらしい。結局俺はその後、犬飼ではなく、和子という紗江の幼馴染と付き合ったのだが。
 犬飼は、きっと本当に紗江を心配して、俺の様子を窺っていたのだろう。事実俺は、三ヶ月か半年で彼女から別れを切り出してくるだろうと予測し、それもまぁいっかと割り切りながら、紗江と付き合っていた。そのせいか時々、可愛らしく甘えてくる紗江を、とても白々しい思いで見ていたのだ。どうせもう少ししたら、俺なんてどうでもよくなるだろうにと。












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