マキアート 01

 バイトから帰ると、ダイニングテーブルに書き置きがあった。



 『実家に行ってきます。必ず、すぐに帰ります。 中戸』



 流麗と言ってもいいほど、やたらと丁寧な文字で書かれたその文章には、どこか拭いきれない違和感があって。
 何故か俺を不安にさせた。






 中戸さんはそれから、一週間経っても戻ってこなかった。中戸さんと同じサークルの有川たちに訊いたり、有川に頼んでゼミの人に訊いてもらったりしても、突然の帰省の理由はおろか、彼が帰省していたことさえ知っている者はいなかった。
 春休みだからゆっくりしているのかもしれないが、電話の一本くらいくれても良さそうなものだ。メールはアドレスを交換していないから来るはずもないのだが。
「ひょっとして、実家に帰ったんじゃなくて、夜逃げだったりしてな。ほら、昔付き合ってたヤクザに居場所がバレて、包丁持って乱入されたとか」
「そんな形跡はなかったよ」
 面白がって言う有川に、俺は白い目で返した。しかし、中戸さんなら無きにしも非ずというところが恐ろしい。
「まぁ、そんなに気にすることないんじゃね? 帰ってくるって書いてあったんだろ?」
「まぁな」
 ただ、わざわざ『必ず』と付けるところに違和感がある。俺が以前、出て行ったきり帰ってこなくなった母親の話などしたからだろうか。そのせいだとしたら、それはそれで恥ずかしい。
 有川は俺の漠然とした不安を、至極当然の理由付けで解釈してくれた。中戸さんが戻ってこなければ、中戸さん名義で借りているマンションに間借りしている状態の俺は、たちまち身の振り方に困る。だから連絡のないことに落ち込んでいるのだと。
「グンジ先輩だって、おまえがいるのに勝手にマンションの契約切ったりするほど無責任じゃないだろ。もしあそこを出るつもりなら、ちゃんと連絡くれるって」
「まぁ、それはそう思うんだけど」
「そんなに不安なら、携帯に電話してみれば?」
「うーん、でも、そんなに干渉するのもなぁ」
 有川にはそう言ったものの、十日を過ぎるとさすがに携帯に手が伸びた。有川が言うような、中戸さんが勝手にマンションを出るかもしれないとか、そういうことが気がかりだったのではない。あの書き置きに、何か不穏なものを感じていたのだ。
 中戸さんの番号を呼び出し、迷うこと十数分、やっと通話ボタンを押したものの、耳に入ってきたのは留守番サービスセンターの案内だった。それから何度かけなおしても、いつも留守電で、折り返しの電話すらない。起床時、バイトに出る前、バイトの休憩時間、就寝前、とにかく何度携帯を開いてみても、中戸さんからの着信は一向になかった。
 実家に電話してみることも考えたが、中戸さんの実家の番号を知っている人はいなかった。事故の心配もしたが、それなら大学に連絡があるはずだ。
 すぐに帰ってくるんじゃなかったのかよ。
 マンションに帰ると、流し台に置かれたままのコーヒーメーカーが打ち捨てられたように見えて、いたたまれない気持ちになった。十日以上使われていないそれは、触るとひやりと冷たくて。中戸さんの不在を強調させる。
 着歴が残っているのにと思いつつも何度目かの電話を掛け、それと同じ回数の留守電サービス音声を聞いた時、俺は無意識に口を開いていた。
「あの、俺、待ってますから」
 何故そんなことを言ってしまったのか分からない。切ってからすぐ、あまりの恥ずかしさに数秒前のそのメッセージを抹消したくなった。
 ただ、自分の言ったその言葉で、俺自身が何にこんなに怯えているのかは自覚した。
 書き置きを見た時から募る漠然とした不安。俺が一番恐れていること。
 それは、もう二度と、中戸さんに会えないのかもしれないということだった。



 恥ずいメッセージを残したのを最後に、俺は電話をするのをやめた。






 電話するのをやめて二日目。十時を過ぎてバイトから帰ると、部屋の鍵が開いていた。
「中戸さん!?」
 中戸さんなら鍵を閉めているはずだと思いつつ、玄関扉を開けながら、声に出して呼んでいた。靴脱ぎに揃えてあるスニーカーで、中戸さんであると確信する。しかし、返事はない。
「中戸さん? 戻ってるんでしょう?」
 勝手に高鳴る胸を押さえ、逸る気持ちを表に出さないよう落ち着いた風を装って呼びかける。
 ダイニングまで来ると、口の開いたスポーツバッグが転がっていた。中はほとんど空だ。
 洗面所の方で洗濯機の働いている音がする。先に中戸さんの部屋の戸をノックして返事がないのを確認すると、俺は洗面所を覗いてみることにした。きっと洗濯をしているのだろう。
「お久しぶりです」
 あんな留守電を入れた手前、どういう顔をしたらいいのかちょっと悩んだが、ここで何も言わずに部屋へ帰るのも不自然だ。それに、一刻も早く顔を見て安心したかった。
 久々だからか留守電のことがあるからか、今にも爆発しそうに脈を打つ心臓を抱えながらも、俺はできるだけ最後に会った時と同じテンションで洗面所の引き戸を開けた。
 そこには素肌にパジャマの上を羽織っただけの中戸さんが、ぼーっと洗濯機の前に立っていた。俺の声にも気付かない様子で、こちらに横顔を見せたまま微動だにしない。下着こそ付けているものの、ほとんど裸同然の彼の姿に、俺は慌てて洗面所の戸を閉めようとした。
 が、どうも様子がおかしい。
「中戸さん、何してるんですか。そんな格好じゃ風邪引きますよ」
 風呂から上がったばかりらしい。よく見ると、中戸さんの髪の毛はまだ濡れていて、雫がポタポタと肩や床に垂れている。しかも、冷え性だと言っていた中戸さんが、冷たいクロスの床の上に、スリッパも履かず裸足で突っ立っているのだ。箱根駅伝で区間賞を獲ったという噂があったが、それはガセにしても、アスリートだったのは事実なのかもしれない。剥き出しの脚は締まっており、薄っすらとしなやかな筋肉が付いた。
 春とはいえ、夜はまだまだ冷える。俺はお節介を承知の上で、手近にあったタオルを掴んで、中戸さんの頭に被せた。そのままわしゃわしゃと拭いてやる。中戸さんからは、石鹸の匂いがした。
「早く服着ないと。あ、ひょっとして、全部洗濯しちゃったとか? 俺ので良ければ貸しますけど」
 サイズは違うが、中戸さんの方が小柄で、俺より大きいわけではないのだから入るだろう。それに、これから外に出るわけではないのだから、着られさえすれば多少大きくても構いはしない。
 ついでにパジャマの前開きのボタンもいくつか留めてやってから、踵を返す。
 中戸さんには、どこか女性を思わせる雰囲気がある。それは、端正ながらも柔らかい面立ちをしているせいもあるけれど、そんな見た目だけのことじゃなく、内側から滲み出るような何か。男では知り得ないようなことを知っているような、持ち得ないものを持っているような何か。単純に、女性ホルモンが強いだけかもしれないが。しかし、そんな彼に、素っ裸ならともかく、半端に肌を晒されていたら、こっちの身がもちそうにない。
 中戸さんはされるがままになっていたが、俺が洗面所を出て行こうとすると、弱々しい力で手首を掴んできた。振り向くと、相変わらずぼおっとした顔で、こちらを見ている。どこか焦点が合っていないような、遠くを見る眼差しで。何の感情も見えない表情で。
 いや、中戸さんはいつも『上の空』なのだから、どんな表情をしていても、感情など伴っていないのかもしれない。けれど、今はその『上の空』が表出している。いつも上手すぎるほど上手く隠して、決して見せることのない、『空っぽ』の中戸さんが。
 何かあったんですか。
 そう訊こうとした時、半開きだった中戸さんの唇が動いて、有り得ない言葉を発した。





「……抱いて」





「……は!?」
 今、何つったこの人!?
 空っぽの顔は、僅かに高い俺の顔を真っ直ぐに見上げていて。空っぽなのに、無表情なのに、それはどこか縋るようで、妙に色っぽくて。身体が熱くなってくる。
 ガラス玉のような瞳を覗き込めば、そこからつーっと一筋の雫が流れた。頬から顎を伝い、水滴は肌蹴た胸元へと落ちていく。
 やばい。
 ボタンはきっちり上まで留めておくべきだった。若しくは、ひとつも嵌めるべきではなかった。こんなものをこれ以上直視していると、理性がモラルと手に手を取ってどこかへ駆け落ちしていきそうな気がする。
 俺は慌てて中戸さんから身体を遠ざけると、なるべく彼の顔を見ないようにしながら、俺の手首を掴んでいた手に、タオルを握らせた。しかし、顔から視線を逸らせば、今度は肌蹴た襟元や剥き出しの脚に目が行って。
「あ、あの、どうかしたんですか? 実家で何か……」
 急激に襲ってきた熱を悟られないように、適当な言葉を発しながら後退る。けれど動揺は隠し切れずしどろもどろになっていると、空っぽだった中戸さんの表情がぴくりと動いた。電源を入れたテレビ画面のように、急に顔に色が戻る。
「っ、ごめん!」
 正気に戻ったのか、中戸さんはそう叫ぶと、タオルを掴んだまま、俺の横をすり抜けて自分の部屋へ駆け込んで行った。








時系列index




inserted by FC2 system