マキアート 02

 俺は迷った末、後を追った。このままの状態で時間を置いてしまっては、後々よけい気まずいことになりかねない。それに、いつもと違い、まるで余裕のない、切羽詰ったような様子も気になった。
「中戸さん? 大丈夫ですか?」
 中戸さんの部屋の前で、静かに問い掛けてみる。ノブを回してみたが、部屋の戸は開かなかった。内側に開くようになっているので、中戸さんがすぐそこで開くのを阻止しているのかもしれない。
「あの、俺、気にしてませんから。だからここ、開けてもらえませんか?」
 こんな諭し方で天岩戸が開くはずもなく、目の前の戸は沈黙したままだ。でも、俺はアメノウズメではないから踊れないし、きっと踊ったところで中戸さんはこちらを窺ってはいないだろう。
 結局俺には、言葉を発するしか術がなかった。
「これでも俺、心配してたんですよ。携帯に着信入れても返事がないから、事故にでも遭ってるんじゃないかって。それに、気のせいかもしれないけど、あの書き置き、悲愴な感じがして……。帰省するのに『行く』なんて書き方してあるし」
 以前中戸さんは、実家からの仕送りには手をつけたくないと言っていた。そんな経緯もあってか、綺麗すぎる文字は不可解な文章と相まって、何か良くない決意の表れのように、俺には思えていたのだ。
「まぁ、それは俺の勘繰り過ぎだと思うんですけど。でも、向こうで何かあったんじゃないですか? 俺じゃ、聞き役にもなれない?」
 中戸さんは、すぐには答えなかった。静かなダイニングに、時計の秒針の音だけが響く。
 正直、俺は泣きそうだった。姿を見ることができた安堵と、拒絶されたことへの不安が、同時に込み上げてくる。今度こそ、ここを出て行かなければならないのではないかという思いに駆られ、怖くなる。しかし、頭のどこかで、その方がいいのだと自分を諭す俺もいた。
 しばらく経って中から聞こえてきた声は消え入りそうで、中戸さんが何を言ったのかは分からなかった。それでも人の動く気配がして、俺の前に細く道が拓けた。が、それも束の間。
「……ごめん。なんでもないから」
 悲痛な表情で逃げるように戸を閉められそうになり、俺の中で何かが弾けた。
「っ、なんでもないわけないでしょう」
 今にも閉じられそうになった戸の隙間に足を割り込ませ、強引に中へ押し入る。頭の中で鳴り響く警鐘を無視し、俺は驚いて後退する中戸さんをベッドに押し倒した。中戸さんはきちんとシャツのボタンを留め、下もちゃんと身に着けていた。
「抱いてって言いましたよね。抱いたら話してくれますか」
 両肩を布団に押し付け体重をかけて圧し掛かる。勢いでそのまま顔を近づけると、両手で突っ張って抵抗された。
「分かった、話す! 話すから! ……そんなことしなくていい」
 中戸さんは俺から顔を背けていた上、部屋も暗くて表情は分からなかったが、身体は小刻みに震えていた。すいませんと言って身を起こすと、中戸さんも起き上がってベッドに腰掛ける。俺は彼が怯えないよう、少し離れた床に腰を下ろした。
 中戸さんは部屋の明かりも点けないまま、疲れた声で話し始めた。
「父親が死んだって連絡があって、葬式に行ってきたんだ」
「それは……、あの、ご愁傷様でした」
 思ってもみなかった事情に、なんと返して良いか分からず、俺は詰まりながら形式どおりの言葉を発した。
 親の忌引きなら、多少長くなって当たり前だ。本来なら、四十九日までは家族の傍にいたかったのではないだろうか。子供染みた不安で何度も電話をしてしまった自分が恥ずかしい。
 でも、それなら言ってくれても良さそうなものだ。俺は一応同居しているのだから、香典とか渡すべきだったんじゃないだろうか。いくら包めばいいのかさっぱりだけど。
「それで、いい機会だからあの家と縁切ろうと思って。荷物まとめたり処分したりしてたら遅くなった。心配掛けちゃってごめん」
「それはいいですけど、縁を切るって、家出してきたってことですか」
 生活費は今までも自分で賄ってきた感があったが、学費はどうするのだろう。
 そこまで考えてハッとした。そういえばこの人は、学費が免除になるから、受かっていた国公立の大学を蹴って、うちに入ったんだった。
「向こうにはまだ何も言ってないんだけどね。一周忌の時にでも、今まで貰った仕送りを全部返して話すつもり。あ、だから、今は準備だけ」
「じゃあ、大学は辞めないんですね」
「うん。ちゃんと卒業する。できれば院にも行きたいと思ってる」
 俺は少なからず安堵した。中戸さんが大学を辞めたら、このマンションから出なくてはならないのではないかと思っていたのだ。しかし。
「中戸さんて、仲の良い家族の中で育ったのかと思ってました。縁切ろうと思ってたなんて、信じられない」
 俺が風邪を引いた時、的確な処置でもって対応し、手厚い介抱をしてくれたのは、彼にそうしてもらった経験があったからこそだと思っていた。たとえば中戸さんが寝込んでいたとしても、母親に看護してもらった記憶があまりに遠すぎる俺では、あんな対処はできなかっただろう。
「うん。悪くはなかったと思うよ。両親は優しかったし、兄弟仲も、まぁ、悪くはなかったんじゃないかな」
 中戸さんに兄弟が居たというのは初耳だった。考えてみれば、彼の家族の話など、聞いたことがない。俺自身、家族についてはあまり喋りたい方ではなかったので、訊こうともしなかったのだ。
「だったらどうして……」
 俺の呟きが、尻すぼみに闇に消える。押し倒してまで喋らせているのに、そこまで踏み込んでいいのかという疑問が湧いてきたからだった。
 答えは最初、軽い調子で発せられた。
「俺、初めての相手って父親なんだ」
 一瞬、何の話か分からなかった。
「父親って言っても、本当の両親は俺がまだ幼稚園の頃に死んだから、伯父にあたる人なんだけどね。小学三年生の時。怖かった。でも、好きだよって言われると、必要としてもらえるみたいで拒めなくて。それで家出るまでずるずると」
「ちょ、ちょっと待ってください。それって……」
 虐待ではないか。
 俺の声にならない言葉を察したかのように、中戸さんはかぶりを振った。
「虐待とは言い切れない。合意の上とも言い切れないけど、少なくとも俺は一回も抵抗したことないから」
「でも……」
「義父は優しくてくれたし、無理強いはされなかったし。行為そのものは嫌だったけど、抱きしめられるのは嬉しかったし」
 中戸さんは淡々と語ったが、俺は腸が煮えくり返りそうだった。
 行き場のない子供の、それも受け入れられる器ではない身体に負担を強いて、何が無理強いはされなかっただ。寂しい子供の心につけ込むようなそんな行為、優しくもなんともない。
 中戸さんは早くに実の両親を亡くしたが、親戚をたらい回しにされたわけでも、邪険に扱われていたわけでもなかった。後見人である先日死んだ義父に引き取られ、そこで従兄達と実の兄弟のようにして育ったという。養子縁組はしていないから他の家族と苗字は違うが、伯母である義母は、実の子供達と決して分け隔てするようなことはなかったそうだ。大学の学費を安くあげようとしたのも中戸さん個人の意志で、養父母は決して、国公立でないと行かせないとか、学費が免除になるなら今の学校にしろなどと強要することはなかったという。
「……どうして、伯母さんに助けを求めなかったんですか?」
 実の子同然に育ててくれた人なら、あるいは救ってくれたのではないだろうか。
「子供だって、人に言えないことしてるんだってことくらい分かるよ。それに、それでも俺は、人に助けてもらわなきゃいけないようなことをされてるっていう意識はなかったし」
 どっかに欠陥があるんだよ。
 自嘲気味に、中戸さんは言った。
「でないと、女の子と付き合ってた時まで、あんな関係続けたりしない」
「けど、嫌だったんでしょう?」
「そのうち、他のこと考えてれば平気になった。でも、その時癖がついたのかな。好きだって言われたらついオーケーしちゃうのに、いつもなんとなく上の空で……」
 どこか人を愛せないように見えたのは、そういうことだったのかもしれないと、俺は頭のどこかで納得していた。きっと、気持ちを伴わない付き合い方しかできないのも。中戸さんは心を与えられているようで、その実、身体を求められるような愛情しか注がれてこなかったのかもしれない。いや、それが強烈すぎて、他の愛情が霞んでしまったのか。
 しかし、次に聞いた話には、更に耳を疑った。
「義父のことは誰も知らないと思ってたんだけど、義兄たちにはすっかりバレてたらしくて、葬式の後、今度は自分達の番だって……。そこまで仲良かったわけじゃないけど、そういう目で見られてたことは、ちょっとショックだった。けど、それでも抵抗しなかったんだから最低だよね、俺。……軽蔑するよね、こんな奴」
 最後の方は、声が震えていた。中戸さんははっきりとは言わなかったが、義兄たちはきっと、彼をその家の精処理機ででもあるような言い方をしたのだろう。でなければ、『来る者拒まず』のレッテルを貼られても飄々としている彼が、これほど打ちひしがれるはずがない。
 いや、この人は、拒まないんじゃなく、拒めないのかもしれない。嫌だという感情は、自分の我が侭でしかないと、拒絶していい理由にはならないと、そう思い込んでいるのかもしれない。
 暗闇に目が慣れてきて、中戸さんが身体を折って顔を膝に埋めたのが分かる。
 俺は怖がらせないよう、用心しながら隣に移動すると、中戸さんの肩に手を掛けて身を起こさせた。どこに光源があるのか、子供みたいに怯えたような目の縁で、涙が光る。
「俺、中戸さん好きですよ。どんな過去があっても。中戸さんに酷いことした奴ら、みんなぶっ殺してやりたいくらい、中戸さん好きですよ」
 親指の腹で目元を拭い、そっとベッドに横たえて抱きしめる。華奢な身体は、それでもやっぱり震えていて。
「でも、だから、俺は何もしないから。だから安心して休んでください」
 壊れそうな身体を、優しく労わるように包みたいと思った。けれど、捕まえていないと何処かに行ってしまうような気がして、背中に回した腕に力が入り、気が付くと、俺は強く中戸さんを抱きしめていた。守りたくて、どうすることもできなくて、いたたまれなくて。今にも折れてしまいそうな心許ない身体に、しがみつくようにして。
 いっそ自分が女だったら、こんなに怖がらせることもないだろうに。
 そんなことを考えながら。





 胸元あたりから立ち上る、震えるような乱れたな息遣いは、いつしか規則的な寝息に変わっていった。








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