アメリカーノ 01

 最近、誰かに後を尾けられているような気がする。マンションの入り口や大学の構内、それにバイトの帰りなど、ふと人の視線を感じることがあるのだ。しかし、ただ気味が悪いだけで、特に何か実害があるわけではない。確かな証拠は何もないし、自意識過剰なんじゃないかと言われればそれまでなので、そのことは誰にも話してはいなかった。
 そんなある日、有川がこんなことを言ってきた。
「最近さ、グンジ先輩のこと嗅ぎまわってる人間がいるらしいぜ」
「中戸さんを?」
「うん。サークルの奴らが何人か、スーツ着た男にどんな人か訊かれたって」
 スーツの男に声を掛けられた者は皆、求人票を持ってきたどこかの企業の人間に見えたと証言し、訊かれた中の一人は、中戸さんがその会社を受けようとしているのだと推測して適当に持ち上げておいたというのだが。
「俺、院に行く気だから、就活してないよ」
 中戸さん本人の言葉に、青くなったのだそうだ。
「俺が思うに、ありゃヤクザお抱えの探偵か何かだな」
「なんでヤクザだよ」
 腕を組んでもっともらしく言う有川に、俺は呆れ顔で返した。
「ほら、グンジ先輩ってヤクザの情夫やってたって噂あるじゃん。あれでさ、なんかやばい秘密とか知っちゃって、別れた相手に追われてるんじゃん?」
「火サスじゃあるまいし。バカバカしい」
 だいたい噂は、元恋人がヤクザだったというだけだったはずだ。ラブホでバイトをしていた学生が、中戸さんが出てきた部屋から、数分遅れて背中からもんもん覗かせた男が出てきたのを見たとか見なかったとか。それがいつから不倫してたなんてことにまでなったんだか。
 しかし、有川の話にはひっかかるものがあった。
 中戸さんは、色落ちのする柄物と真っ白いシャツを一緒に洗濯するようなズボラな性格だが、戸締りだけはきちんとする。昼間でも、マンションにいる時でも、決して鍵を開け放したりはしない。それは何かから隠れているためだったとしたら。
 それに中戸さんは俺の同居人だ。最近感じる視線は、中戸さんの近辺を探るものだとしたら……。
 俺はその夜、人が隠れていそうな所をいちいちチェックしながら帰宅した。






 その日は雨が降っていた。散りかけていた桜を一気に終わらせようと意気込んでいるかのような春の雨は、バタバタと音を立てて生暖かくマンションを濡らしていた。
 有川の話を聞いてから数日後のことだ。
 夜。バイトから帰ってきて、エレベーターで部屋のある階に上がり、部屋の前で鍵を取り出そうとジーンズの尻ポケットを探っていると、エレベーター脇の階段から一人の男が現れた。高級かどうかは分からないが、上品に見えるスーツを身に着け、大きな鞄を提げている。男は真っ直ぐ俺の方へ歩いてくると、軽く会釈をして弱々しい笑みを浮かべた。
「ちょっと訊きたいことがあるんだけど、いいかな?」
 俺は、自分より上背のある男を、上目遣いで観察した。
 後退しはじめた生え際に、まだ出てはいない腹。ざっと見て四十代前半くらい。
 これが中戸さんの元恋人だろうか。体格はいいが、目尻の垂れた顔はとてもヤクザには見えない。とすると、有川の言うところのヤクザお抱えの探偵あたりか。
「きみ、この部屋に住んでる、蒔田俊平くん、だよね?」
 了承などしていないのに、男は質問を始めた。
「中戸群司って学生と暮らしてる」
 来た。やっぱり中戸さんのことを調べているのだ。
 中戸さんの居場所が見つかったらまずいのだとしたら、ここはシラを切りとおさなければ。俺まで宿無しになってしまう。
 男を睨んだまま、俺がどう切り抜けようか黙考していると、男の背後でエレベーターが到着したことを報せる鐘が鳴った。俺の視線と共に、男もそちらを振り返る。
 ところが間の悪いことに、箱から出てきたのは中戸さんその人で。
「逃げて!」
「は?」
 俺の叫びに、中戸さんは唖然として棒立ちになった。
 このままじゃ掴まる。
 俺は駆け出そうとした。こうなったらぼーっとしている中戸さんをエレベーターに押し込めて逃げるしかない。しかし、男の横をすり抜けようとした時、弱々しい顔に似合わないがっしりした手で肩を掴まれ、あっさりと足止めを喰らった。
「きみ、やっぱり蒔田俊平くんなんだろ?」
 その手の力はやっぱりヤクザかと思うほど強くて、俺は足を前に出せなくなった。振り向けば、さきほどの弱々しい笑みのまま、しかし眼だけが厳しく挑むように俺を見ている。
 そうこうしている間に、中戸さんは足音を響かせて俺の傍らまで来ると、俺の肩を掴んでいる男の手首を掴み上げ、俺より一歩前へ出た。
「うちの同居人に何かご用ですか。物騒な話なら俺が伺いますけど」
 中戸さんが力を入れて掴んでいるのだろう。男は痛いと呻き、顔を歪めた。
 俺は中戸さんの腕にかじりついて揺すった。
「だめですって! こんなことしてないで、早く逃げなきゃ。ヤクザ屋にこのマンション知られたらどうすんですか!」
「はぁ? やくざ?」
 俺の言葉に、二人とも眼が点になる。
「え、だってこの男、組関係の奴で、中戸さんの居場所探して来たんでしょう?」
「なんで俺がヤクザに目つけられなきゃいけないの」
「それって、僕がヤクザってことかい?」
 中戸さんはきょとんとし、男は自分を指差した。
「ヤクザじゃなくても、どっかの興信所の人間とか。最近中戸さんのこと訊いてまわってたのって、あんたのことだろ」
「たしかに彼のことは少し調べさせてもらったけど……」
「やっぱり。ヤクザじゃないなら何が目的なんだよ?」
「俺が何か?」
 中戸さんも男の手首を離して、眉を顰める。中戸さんが解放した手首には、くっきりと手形が付いていた。
「いや、その……」
 男は俺の方へ視線を向けて口ごもった。俺はその様子を見て、中戸さんを横目で睨んだ。
「中戸さん、まさか行きずりの一人じゃないでしょうね?」
「まさか」
 否定口調ではあったが、目は明らかに泳いでいる。自信ないのか。
 中戸さんは純真無垢そうな外見とは裏腹に、卑猥な噂の絶えない人だ。男のくせに尻軽だとか、来る者は拒まないとか。俺が実際に接する限りでは、本人がスキモノなわけではないと思うのだが、飲みすぎたり実家が絡んだりすると何をしでかすか分からないところがあるのは事実で。そしてそれは、当人の記憶が曖昧なだけに始末が悪い。
 案外この男も、そういう時に一発やっちゃった類の人間なのではないだろうか。その時のことが忘れられなくて捜していたとか。なんて、それじゃ昼のメロドラマっぽいか。有川のことをあまり笑えないかもしれない。
 男はうっ血した手首を擦りながら、鞄から名刺を取り出した。
「僕が用があるのは蒔田俊平くんの方で」
「え? は? 俺?」
 男が差し出してきた名刺には、土建屋関係でも組関係でもない、銀行の名前が入っていた。








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