アメリカーノ 02

 「ヤクザの情夫? いくら俺でもそれはないよ」
 俺が勘違いした事情を説明すると、中戸さんはコーヒーを淹れる手を止めて腹を抱えた。
「だって、刺青背負った人とホテルにいたって」
 今時刺青なんて珍しくないが、背中一面となると話は別だろう。
「それ、たぶん彫り師だよ。刺青彫る人」
「たぶんて何ですか」
「いちいち憶えてないもん。でもヤクザはない。既婚者もない。自分で判る範囲では」
「何ならあるんですか」
「だから彫り師・・・・・・」
「だけじゃないでしょう」
 言い方に含みがあるように思えて、俺は問い詰めた。中戸さんは、ダイニングで俺の向かいに座る男を見て言いあぐねているようだったが、やがてぽそりと呟いた。
「……と、売人」
「売人て……」
 やっぱり麻薬とか覚醒剤の類だろうか。
「その時流行ってたクスリの成分に興味あったんだけど、金がなくってねー。ヤクの売人なんて別に組員じゃないし、そこいらの学生やおっちゃんと変わんないから」
 誤魔化すようにはははと笑う。
 それって、カラダ使って違法薬物を入手したってことですか。
 しかし、苦労して(?)手に入れた新種のドラッグは、結局それまでに出回っていたものと大して変わらない成分で出来ており、中戸さんの友人である薬学部の学生を始めとする成分解析に関わったメンバーは、がっくりと肩を落としたらしい。新しい成分が発見できたら、何をするつもりだったんだか。
 中戸さんは平然と恐ろしいことを言う。いや、する。
「それで藪川さん、俊平くんに用事って何ですか?」
 所在なさそうに俺たちのやりとりを聞いていた男の前にコーヒーを置き、中戸さんが促した。中戸さんは席を外しておこうかと言ったのだが、俺が引きとめたのだ。
 名刺から得たこの男の情報は、藪川昭彦という名前で、某大手銀行の外国為替課課長の肩書きを持つということ。こんな男は知らないし、中戸さんのことを調べていたというのも気になる。
「その前にふたつほど訊いてもいいかな?」
「どうぞ」
「あの、中戸くんて、S高校の中戸群司くんとは……違うよね? 全国高校駅伝に出てた」
「……そうですけど」
「え、あ、やっぱり……」
 藪川は少し複雑な表情になった。さっきまでの俺たちの会話から、違った方がいいと思っていたのかもしれない。だったら訊かなきゃいいのにと思うのだが。
 俺はある噂を思い出して口を挟んだ。
「中戸さん、陸上やってたんですか。じゃあ、箱根で区間賞獲ったっていうのは……」
「高校駅伝の間違い。ここは関東じゃないし、うちの大学、陸上部なんてないじゃない」
 俺は知らなかったが、箱根駅伝は関東学生陸上競技連盟に加盟している大学にしか参加資格はないらしい。とはいえ、あの噂は、ガセはガセでも、火元のあるガセだったわけだ。考えてみれば、中戸さんが走って息を切らせているところなど見たことがない。
「それじゃあ、もう走ってはいないの? 俺、きみが区間賞獲った京都の大会、沿道で見てたんだ」
 藪川は気を取り直したのか、少し興奮気味になった。さっきの会話から推測する中戸さんの現状を、当時の感動が上回ったのだろう。『僕』が『俺』に変わっている。
 対して、中戸さんは、とても冷ややかだった。
「それで俺のことを訊いて回ってたんですか」
「いや、それは……」
 再び口ごもる藪川。その視線は宙を彷徨い、結果手元のコーヒーに落ち着いた。
「きみ達は、どういう関係なのかな? その、大学の人たちやさっきの話を聞いてると、どうもただの友人には思えないんだが……」
「同じ大学の先輩と後輩です。そして同居人」
 訊きづらそうに顔を赤らめ、思い切ったように発せられた質問に、中戸さんは至極あっさりと返した。素っ気無いとも取れる口調で。
「本当に? その……ただの同居だと?」
「大学でいろいろと俺の良くない話を聞いたんでしょうけど、彼は何も関係ありません。俺一人ではここの家賃を払い切れないので、こちらから頼んで入ってもらっているだけです」
 訝しげな藪川に、中戸さんは淡々と、しかしきっぱりと言い切った。
 藪川はまだ信じられないのか、俺に探るような視線を投げてくる。
「……本当、なのかい? その、無理に頼まれて断れなかったとかでは……」
 どうやら、中戸さんが無理矢理俺をここに置いていると思っているようだ。俺は、なんでこんな得体の知れない男に説明してやらなきゃならないんだと口を噤んだままだったが、さすがにこの反応には黙っていられなくなった。
「いい加減にしてください。なんで見ず知らずのあんたにいちいち話さなきゃいけないんですか。俺は無理に頼まれたわけでも断れなかったわけでもない。自分の意思でここにいるんです。仕送りが少なくて一人暮らしじゃ厳しいから。だいたい、中戸さんはそういうことするような人じゃ……」
 思い余って椅子から立ち上がると、横から腕を引かれた。見れば、中戸さんがなだめるようにこっちを見ている。
「なんで止めるんですか。あんな言い方されて……」
「いいから座って」
「だって……」
「ごめん、嫌な思いさせて。でも、こういうことを言われることもあるって承知の上で、ここに住むことを了承してくれたんでしょう?」
 申し訳なさそうに諭され、俺の方が辛くなる。中戸さんにこういう顔をさせたかったわけじゃないのに。否、こういう顔をさせたくないから俺は。
 俺がしぶしぶ席につくと、中戸さんは改まった顔つきで藪川の方に視線を向けた。
「大学などで囁かれている噂については、俺の行動に責があるということは重々承知しています。ですから、俺のことを言われるのは仕方ないし構いません。でも、俊平くんに関しては、あなたが考えているようなことは一切ありません。彼の名誉のためにも、変な勘繰りはやめていただけませんか」
 中戸さんの真っ直ぐな視線と冷静な物言いに、藪川は顔を俯ける。反対に俺は、顔を上げて中戸さんを見た。
 いつもの穏やかさはなりを潜め、真剣な表情の中戸さんがそこにはいた。丁寧だが有無を言わせぬ物言いは、目の前でうなだれる男よりも大人なんじゃないかとまで思わせる。鬼とあだ名される教授を言い負かしたことがあるという話があったが、こんな感じだったのだろうか。しかし今は、その表情も言葉も、他ならぬ俺を庇うためのようで。
 俺は不覚にも、得体の知れない男の前で、顔が火照りそうになった。
 それから中戸さんは、ふっと表情を和らげると、いつもの穏やかな口調に戻った。
「見たところあなたは、俊平くんの身を案じているようですし」
 その言葉に、藪川が救われたように顔を上げた。質問の内容が内容だっただけに、冷静に否定されて、バツの悪い思いをしていたのだろう。
 中戸さんは微笑んで、安心させるようにひとつ頷いた。
「藪川さんこそ、俊平くんとどういう関係にあたる方なんですか? 彼はあなたのことを知らないようですけど」
「親父の友達とか?」
 年齢的には同じくらいだろう。左官屋の親父に行員の友人なんていたかなと、少々疑問に思うが。
「いや僕は……きみのお父さんではなく、お母さんの……」
「母の?」
 自然、顔が引きつる。俺の母親は、俺が小学生の時に蒸発したままだ。もう十年以上も会っていない。
「お母さんの再婚相手なんだ」
 藪川は、細く垂れた目の間に皺を刻んで、申し訳なさそうに微笑んだ。








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