アメリカーノ 03

 風呂から上がって、ダイニングの椅子に腰掛けたままぼんやりしていると、目の前にカップが置かれた。中身はコーヒーではなくホットミルク。顔を上げると、いつの間に風呂に入ったのか、スウェット姿の中戸さんが立っていて。
「大丈夫? あの人帰ってから、ずっと放心状態みたいだけど。俺でよければ話聞くよ? だいぶ混乱してるでしょう。人に話せば少しは整理できるかも」
「や、風呂に入ってだいぶ冷静にはなれたんですけど……」
 外はまだ、雨が降り続いている。俺はミルクのカップに口を付けて、柔らかな春の雨音に耳を済ませた。




 ものすごく腹立たしい話だが、俺は藪川の話で初めて、うちの両親が何年も前に正式に離婚し、母親に至っては再婚までしていたことを知った。母親はある日突然家を出て、音信不通のままだと思っていたのに、親父とはちゃっかり話し合いを済ませていたのだ。しかもそこには、これまた俺の中の事実を百八十度覆すような真相まで付いていて。
 そして更にものすごく腹立たしい話だが、今回藪川が訪ねて来たことも、親父は了承済みだという。
 離婚のことも今回のことも、俺が全て親父から聞いて知っていると思っていた藪川は、大層驚き、頭を下げた。
「すまない。僕から聞くのはさすがにショックだよね。てっきりお父さんから聞いて知ってるものと思ってたから」
 どいつもこいつも自分勝手で腹が立つ。しかし、そのことに対してまともに怒りをぶつけられなかった自分には、もっと腹が立つ。
 藪川の用件は他でもない。俺に母親と会ってやって欲しいというものだった。




 「やっぱり怒りが治まらない?」
 中戸さんが静かに問う。雨音に隔離されたようなダイニングで、その声は心地よく響いた。
「蚊帳の外だったことには腹が立つけど、何も言わずにいなくなったこととかはもう……どうでもいいっていうか……。ただ……」
「ただ?」
「もうちょっと整理する時間が欲しいっていうか……」
 藪川の指定してきた日は、なんと明日。こっちにも予定や心の準備ってものがあるとか考えないんだろうか。いや、心の準備なんて、ほとんど記憶にない人に会うのに必要あるのかどうか謎ではあるが。それにしたって、自己中すぎて腹が立つ。
 理由は、藪川の海外への転勤だった。何故今なんですかという中戸さんの問いに、藪川が例の弱々しい笑みで答えたのだ。




 「僕が、海外に転勤することになってね。今度いつ日本に帰れるか分からないんだ」
 下手をすると、もう一生会えないかもしれない。だから、どうしても会って欲しい。
「明後日には、東京入りしなければならないんだ。だから急な話で申し訳ないけど、明日ここに来てもらいたい」
 一方的に差し出された紙片には、大学の近くにあるビジネスホテルの住所と部屋番号。
 ここまでの話だけでも十分驚愕ものなのに、続く藪川の言葉には怒りを通り越して呆れさえした。
「僕達は、きみさえ良ければ一緒に行ってもいいと思っている。お父さんも、きみの将来が拡がるなら、それもいいと言っていた。だから、誰に遠慮することもないんだよ。それにここは、きみの将来にとっていい環境とは言い難いと思うんだが」
「はぁ!? 冗談でしょう!? だいたい急な話で申し訳ないって、中戸さんのこと調べる暇があったら、もっと早くに来れてたんじゃないんですか?」
 俺はテーブルの上に置かれた紙片を手にはせず、一瞥だけして嫌味たらしく言ってやった。ところが、それがまずかった。
「それは、心配になったからだよ。きみの同居人の中戸くんは、その、特殊な指向の持ち主みたいだから……」
「そういうのを下種の勘繰りっていうんだよ!」
 中戸さんが遠まわしにかわした単語を、俺は藪川に突きつけた。
「俺が誰とどう付き合おうと、あんた達には関係ないだろ」
 しかし藪川は、必死な形相で猛然と反撃してきた。
「関係なくないよ。きみが女性を愛せなくなってしまっているなら、その責任の一端は僕達にあるかもしれないと思うじゃないか」
「余計なお世話だ」
 俺は今度こそ立ち上がった。これ以上、この弱々しい面でいけしゃあしゃあともっともらしいことを言う男に、中戸さんのことを悪く言われたくなかった。母親に俺を捨てさせた男に、俺を拾ってくれた人のことを。
 けれど、この展開は自分が蒔いてしまった種だ。そうと分かっているだけに、苛立ちは一層大きくなって。
「出て行け!」
 気付くと俺は、雨音にも掻き消されず、向こう三軒くらいは聞こえるんじゃないかと思われる大声で怒鳴っていた。しかし、怒鳴ったついでにそのまま立ち去ろうとした俺の腕は、当の中戸さんによって掴まれた。
「俊平くん、この人に心配されたくない気持ちは分からなくもないけど、心配されて当然だよ。俺は、ヤクザと付き合いがあったなんて言われてんだよ? どんな形であれ、誰だってそんなのと関わりがあれば不安になって真相を調べようと思うよ」
「こいつが言ってるのはそういうことじゃないでしょう! それに、そんな権利、こいつらにはない!」
 俺は中戸さんの手を振りほどいて、藪川を指差した。中戸さんは少し悲しそうに俺を見て、そうだねと呟くと、
「藪川さん、さっきも言ったように、そういう心配ならご無用ですから。今日はもうお引取り願えませんか」
 静かに辞去を促した。
 それでも藪川は、まだしつこく居座ろうとした。明日の確約が欲しいのだと言い、俺が最大限の譲歩をして考えさせてくれと言っても、全く聞き入れようとしなかった。それだけでなく、部屋に引き上げようとする俺を自ら引き止めにやってきて、馴れ馴れしくも俺の肩に手をかけやがった。
「俺に触んな!」
 手を振り払い、相手の胸倉を掴む。弱々しそうな表情はしているものの、全く血相を変えない藪川を内心不気味に感じつつ、俺は吼えた。
「出てけっつってんだろ!」
 スッポンのような藪川と、ブチキレを通り越し、脳出血でも起こしそうな俺。その間に入ったのは、やはり中戸さんで。
「一晩くらい考えさせてあげてもいいじゃないですか。俊平くんも、まだ混乱してるし」
「そんなこと言って、彼が我々と行くことになるのが嫌なんじゃないのか、きみは」
「どういう意味だよ!?」
 藪川の言葉に、俺の方が噛み付いた。胸倉を掴む手に力を込め、拳を握って振り上げる。だが、勢いよく繰り出した先にあったのは、藪川の頬ではなく、中戸さんの冷えた掌で。俺の拳は、中戸さんの決して大きくはない手によって、文字通り掌握されてしまった。
 藪川は、俺が途中でやめると思っていたのか、それとも中戸さんが止めに入るとタカを括っていたのか、顔を庇いもしていなければ、逸らしてもいない。もとから貼り付けた泣き笑いの表情のまま、俺を見ている。そのふてぶてしさに余計腹が立つ。
「なんでこんな奴庇うんですか!」
「別に庇ったんじゃない」
 中戸さんはゆっくりと俺の手を下ろさせると、一つ溜息を吐いて、ひどく冷静な顔で藪川の方に向き直った。
「藪川さん、俺はこういう人間だから、たいていの人の性癖は、見れば分かるんですよ」
「それが?」
「藪川さんは、多少なりともその気がおありになりますよね?」
「その気って……。な、何を根拠に……」
 殴られそうになっても変わらなかった弱々しくもふてぶてしい瞳に、明らかに動揺の色が現れた。顔を赤らめる藪川を、中戸さんは淡々と追い詰める。
「普通、全くそういった意識のない男性って、俺の噂聞いても鼻で笑って終わりなんですよ。女性は割りと信じちゃうみたいだけど、男性で完璧にノーマルな人って、そういうこと自体が信じられない。でも、あなたはわざわざ大学の人間に俺のことを訊いて歩いてた……」
 中戸さんはそこで一旦藪川から視線を外すと、藪川の右腕に手を添え、今度は上目遣いで奴を見上げた。その視線は、どこかねっとりと絡みつくような艶があって。
「藪川さんがそれに気付いたのって、あの駅伝の時じゃないですか? あの時俺、すごい舐めるような視線を感じたんですよね」
 藪川は中戸さんから逃げるように目を逸らせた。が、その顔は火傷しそうなほど赤くなっており、手に持った鞄は、中途半端な位置で前を隠していた。
 中戸さんは藪川の腕を離して一歩退くと、いつもの表情に戻ってにっこりと笑った。それはそれは爽やかな笑みで。
「なんて冗談ですよ。走ってる時に人の視線なんて感じません。でも、今日はもうお帰りになった方がいいんじゃありませんか」
 藪川は、明日の朝連絡をしてくるとだけ言ってそそくさと退散していき、俺は、中戸さんがヤクの売人を垂らしこんだ現場を垣間見た気がした。








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