アメリカーノ 04

 ミルクを一口、口に含む。嚥下すれば、温かい液体が食道を通過して、胃に浸透していくのが分かる。身体が少しだけ、ほっこりしてくる。
 俺は数十分前の怒りを思考の底に押し沈めながら口を開いた。
「正直、会っても何話していいか分からないんです。今更謝られても、どう対処していいか分からないし。むしろ今は、何も言わないまま済ませてきた親父の方に文句言ってやりたくて」
 少なくとも親父は、俺と同じ立場だと思っていた。下手をすると、俺よりも気の毒な立場であると。
「でも、電話して怒鳴ろうにも、分かってるみたいで電話も出ないし」
 親父は携帯なんて気の利いたもんは持っていないし、さっきからずっと、家の電話は留守電になっている。
「俺、これでも結構我慢してきたんですよ。親父、再婚こそしてないけど、母親出てってから家に女連れてくることとか普通にあったし。中には居座る奴もいて、俺の居場所乗っ取られるんじゃないかとか考えたこともあったし。そのうちに、みんな母親と同じで、いつか気が変わって出てくもんだと思うようになったけど」
 中戸さんは黙って向かいに座っている。さっきまで藪川が座っていた席だ。彼はまたコーヒーを飲んでいるらしく、ほろ苦い香りが仄かに漂ってくる。
「でも親父、再婚しないのは離婚できてないからだと思ってたけど、離婚はしてたんですよね……」
 そうでなくとも、七年経っても連絡が取れなければ、失踪宣告でもなんでもして婚姻の解消はできたはずだ。それをしなかったのは、再婚したいほどの女性と出会っていないからか、女に失望したから。それか、まだ母親のことを忘れられないでいるからだと思っていたのだが。
「まさかあの時に、親父の方から離婚を切り出してたとは」
 ひっくり返された俺の真実。
 母親が浮気をしていたのは事実だが、それに気付いて三行半を突きつけ、家から追い出したのは親父だった。つまり、母親は自ら出て行ったのではなく、追い出されていたのだ。まぁ、その時の浮気相手があの藪川で、そのまま再婚して今に至るのだから、彼らにとっては渡りに船だったのかもしれないが。
「どいつもこいつも自分勝手で。俺の人生なんだと思ってんだか」
 微かな記憶の中の母親は優しい。親父はすぐ声を荒げ、下手をすれば手も出るような人だが、男手一つで俺を育ててくれた。身勝手で腹立たしい人たちではあるが、俺は両親に対してそんなに悪い感情は抱いていなかったのに。
 いや、悪い感情を抱くほど関心を持たなくなっていたのかもしれない。俄かに現実味を帯びて現れた両親の姿が、今まで漠然と思っていたよりも、生々しく自分勝手に映っただけで。
 しかし。
「今回の件でますます親が信じられなくなってきました……」
 結局そこに行き着くのだ。
 整理するところがズレているような気がするが、俺はぼやいて再びミルクを飲み下した。
「いや、母親のことなんて、とっくに信じてなんかなかったんですけど。なんつーか、家自体に裏切られてた気がするっつーか、子供扱いされてるわりに、あの家の子供としての権利剥奪されてる気がするっつーか」
 自分でも言ってることがよく分からない。整理しようとして喋っているはずなのに、どんどん枝葉末節なことに話が及んでいる気がする。
「でも、母親や藪川と一緒に行く気はないんです。これはもう絶対! ……それなのに、親父までその話を了承してるって、どういうことなんだよ……」
 親父の奴、離婚の『り』の字さえ言わなかったくせに、俺を引き渡す話までしていたなんて。もともと父親らしい父親ではなかったけれど、ここまで酷い奴だとは思わなかった。俺の将来が拡がればなんて尤もらしいこと言ったらしいが、子供は物じゃねーっての。
「俊平くん」
 ふいに名前を呼ばれて、顔を上げる。中戸さんは哀れむでも同情するでもない、静かな表情で俺を見ていた。
「お父さんが言ったことは本心だと思うよ。きみの将来が拡がればって、誰もが思う親心じゃないかな。決してきみを邪険に思ってるわけじゃないと思う」
「それにしたって、俺には今まで何も言わなかったんですよ? 自分達だけで勝手に決めて」
「うん、そのことは良くないけど、きっと不器用なだけなんじゃないかな。俊平くんもどっちかっていうと、口で説明したり気持ちを言葉にしたりするの、苦手な方でしょう?」
 それは認める。思っていることをうまく口にできないから冷淡だと思われているところもあるし、弁解するのが面倒ですぐ口を噤むから淡白だと思われている節もある。
 それにしたって、親父のダンマリは行きすぎだ。中戸さんもそうは思っているのか、「まぁ、もうちょっと話す努力はして欲しかったよね」と付け足した。
「でも、大切だからこそ言い辛くて先延ばしにしちゃうこともあるんだと思うよ」
「そ、うでしょうか」
 親父は親父なりに悩んでいたのだろうか。話そうとして、でも幼すぎる俺に機を逸して、そのまま十何年も。今回のことも、どう話そうか迷っているうちに藪川が行動を起こしてしまったと?
 他人に言われるからなのか、それとも相手が中戸さんだからなのか、穏やかに言われるとそうかもしれないという気がしてくる。親父をまるきり許せるわけではないけれど、少しだけささくれがやわらぐような。
 中戸さんは相変わらずの穏やかさで、でも、少しだけ悲しそうな表情になって続けた。
「それに、藪川さんの言うことも一理あるよ。たしかにうちにいることは、きみの将来にプラスになるとは思えない。今回のことで俺もよく分かった」
「中戸さん……」
 彼は暗に、ここを出て行けと言っているのだろうか。俄かに不安が頭をもたげる。
 しかし、予想に反して中戸さんの口から出てきたのは、俺を安心させるような言葉で。
「でもね、俊平くんが望むなら、ここはいつまでも俊平くんの家だよ。帰るところに困ったらいつでも……ここを出てってからでも、帰ってくればいい。少なくとも、俊平くんが大学卒業するまでは俺、ここにいるし」
「そんなこと言って。俺、就職してもずっとここに居座るかもしれませんよ」
 つい泣きそうになってしまって、俺はわざとぶっきらぼうに言った。
「それもいいよ。俺はこんなだから一生結婚する気ないし。こっから俊平くんをお婿に出してあげる」
「俺、一人息子だから嫁取りなんですけど」
「あ、そっか」
 中戸さんは声を立てて笑うと、俺を真っ直ぐに見据えた。
「俺、いつでも待ってるから。俊平くんが帰ってくるの。藪川さんたちと行くにしても行かないにしても、ここで待ってる」
 人の心なんてすぐに変わるものだ。中戸さんの心だって、いつか変わってしまうかもしれない。いや、きっと変わるだろう。現に彼は、誰も好きになれなかったはずなのに、今は想いを寄せる人がいる。
 だけど、穏やかな微笑みは、俺の中の不安を緩やかに解かしていって。
 俊平くんの居場所はここにあるから。だから、安心して会っておいで。
 そう言われた気がして、俺はこくりと頷いた。
「ありがとうございます。俺、母親に言うこと、一つ見つけられた気がします」
 中戸さんは何だろうという顔をしたが、敢えて訊いてはこなかった。ただ、笑みを深めただけだ。
 そこで俺は、出し抜けに「でも」と付け足した。二度とあんなことはしないよう、強い口調で言う。
「でも、目的のために手段を選ばないのは、いい加減やめてください」
 人を追い出すのに色仕掛けを使うなんて、何をやってくれるんだこの人は。ああいうことをするから、ここにいるのがマイナスだと思われるんだ。
 それに、いくら俺のためだったとはいえ、あんな中戸さんは見たくない。あんな意図的に男を誘うような、媚びるような中戸さんなんて。
「や、あれは……その……ごめんなさい。以後気をつけます」
 すぐに何のことか思い当たったらしく、中戸さんは俺から目を逸らすと、小さくなって頭を下げた。心なしか、顔が赤い。自分でも望まぬ手段だったのか。
「中戸さん、頭良いんだから、もっと別の方法考えてください」
「ごめんなさい。今後しないように気をつけます」
 腕を組んで睨みつける俺に、中戸さんは座ったまま平身低頭。
「気をつけるじゃなくて、しないでください」
「はい。二度としません」
「俺が見てないところでもですよ?」
「しないって! これ以上悪評立てられたらまずいってよく分かったから」
「ったく、恋愛に主体性がないとか言って、よくあんなこと……」
「うあー! 頼むからもう言わないで」
 俺がしつこくぶつくさ言うと、中戸さんは羞恥心からか、真っ赤になって懇願してきた。あの妖艶な色香を匂わせたのと同一人物とはとても思えない。が、これはこれである意味そそられるものがある。どっちが地なのか分からないが、どちらにしろ、凶器に為り得る気がして恐ろしい。
「まさか、その顔も演技じゃないでしょうね?」
 有川たちと話しているのを見ると、案外全部が演技なんじゃないかと思えてくる。
 思わず出た俺の失礼な問いに、中戸さんは「へ?」と涙目で顔を上げた。






 俺は翌朝、藪川からの電話に了承の意を伝えた。








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