アメリカーノ 05

 翌日は快晴になった。露に光る裸の枝を雨上がりの清潔そうな空気に晒す桜の下。濡れそぼって道路に張り付いている薄桃色の花びらを踏みしめながら、俺は三限目の講義を休み、メモにあったビジネスホテルへと向かった。自動ドアを抜け、正面のフロントへは向かわず、右手にある喫茶施設へ入る。彼女は一番奥の壁際に座っているということだった。
 店員について奥へ進みながら、俺は顔が強張っていくのを感じていた。外はまだ肌寒いくらいなのに、メモを握る手に汗が滲む。柄にもなく、緊張している。
「俊平……くん?」
 先に言葉を発したのは、彼女の方だった。涼やかな目元を刻む笑い皺。少し下がり気味の口角。白髪の混じり始めた長い髪。どれもどこかで見たような、初めて見るような、不思議な感覚だった。記憶の中の顔を手繰り寄せようとするが、うまくいかない。
 俺は黙って頷いた。お久しぶりですとか、何で何も言わずに行ったんだよとか、何か言うべきだとは思うのだが、いまいち距離感が掴めなくて言葉にならない。
 藪川の姿はなかった。
 コーヒーを注文し、促されて席に着くも、どう対処していいか分からず、視線を彷徨わせてしまう。相手はそれを何か勘違いしたようで、不安げに訊いてきた。
「やっぱり……怒ってるよね。お母さんのこと、見たくもない?」
「や、そういうわけじゃあ……」
 そう言ったものの、言葉を続けることも、視線を上げることもできない。
 気詰まりな沈黙。
 それを破ったのは、やはり彼女の方で。
「ごめんなさい。藪川から聞いてると思うけど、お母さんも好きで俊平くんを置いて行ったわけじゃないの。本当は引き取りたかったんだけど、お父さんが許してくれなくて」
 通り一遍の謝罪の言葉。しかし、上辺だけではない、心がこもっていることは分かる。分かるけれど、自分に向けて言われているという実感がない。
 俺の耳は、どこか他人事のように彼女の言葉を聞いていた。
「俊平くんのことはずっと気になってたんだよ。本当に一日も忘れたことなんてない。何も言わずに小さなあなたを置いてきてしまったこと、今でも後悔してる。だから、できれば一緒に来て欲しい。やっとお父さんの許可を貰えたから、今からでも親子の時間を取り戻したい」
 親父は、経済上の理由から推すと、今は母親の方に委ねた方が俺の為になると考えたらしい。俺としては、大学二年という中途半端な時期に海外へやられる方が、よっぽど為にならないと思うのだが。見識が拡がるとかそういうことは別にして。
「こんなことで償えるとは思っていないけど、これからできる限りのことはしてあげたいの」
 だったら構わないでくれとは、さすがに言えなかった。もっと母親だと実感できていれば、ひょっとしたら言えたかもしれないが。
「俊平くん、お父さんに似てきたね。ちょっと強面で無愛想なところなんかそっくり。昔はお母さん似だって言われてたのに。目元だけは、今も私に似てると思うんだけどな」
 俺の考えを読み取ったかのように、彼女は唐突にそんなことを言った。血の繋がりがあることを証明するように。
 ちらと視線を遣ると、そうそうその眼つきと微笑まれる。
「目元がいくら私でも、そんな眼つきするのはやっぱりお父さんだね。言い訳になるけど、昔はお父さんのそんな眼が怖かったんだ。お父さん、すぐ怒って声を荒げてたでしょう。ひどい時は物を投げつけてくることもあったし。それで、いつも変わらず穏やかで優しい藪川に惹かれちゃってね」
 いや、いくら親父があんなでも、あれはないだろう。趣味悪いよ、あんた。
 心の中で突っ込むが、やはり口には出せない。
「藪川ってね、あんな気弱そうな顔してるけど、結構人を見る目があってやり手なのよ。よく判らない時は、わざと嫌味なこと言って相手の反応を見たりするから、たいてい最初は嫌われるんだけどね。根は悪い人じゃないの」
 それでも俺は嫌いだ。
「私達に子供はいないから、気兼ねすることもないし。なんなら別々に暮らしたっていい。ただ、少しでも母親らしいことをさせて欲しいの。あなたがもう母親を必要としなくなってることは分かってるつもり。でも、」
 短い間でもいいから、またあなたの母親にならせて欲しいの。
 うっとおしいくらいの真摯な瞳。でも、つっぱねることもできなくて。
「藪川は私のために急かすようなことを言ったみたいだけど、お母さんは急がないから。今すぐなんて言わない。後から来てくれてもいい。向こうの大学は九月が年度替りだし、ゆっくり考えてから決めて」
 テーブルの上で組んでいた手に、手を重ねられる。それは、記憶の中の手よりも痩せ衰え、節ばんでいた。それでも、その温もりには覚えがあって。
 拒絶の言葉を、飲み込まれてしまう。
 黒いパンツに白いシャツ、それにソムリエエプロンを着けた店員がやって来て、彼女は手を引っ込めた。
 店員は、それぞれに違ったセットを置き、サイフォンのフラスコからコーヒーを注いで去っていった。砂糖もミルクも入れず、取っ手に指を入れて顔に近づければ、ふわりと香ばしい匂いが拡がる。口に含むと、飲みなれたものよりあっさりしていて、少々物足りない。でもそれは、彼女の手よりも遥かに、今の俺には近しいもので。
「ごめん。俺は行かない」
 今度は言葉がするりと出た。
「お父さんのことなら……」
「や、親父に気兼ねしてるとかじゃないんだ」
「じゃあやっぱり、お母さんのことが許せない?」
「いや、それももう……」
 どうでもいい。いや、ちょっと違う。昨日気付いたことを、どう言えばいいだろう。
「でも、親孝行する気はないんだ。もっと先になったらどう思うか分からないけど。少なくとも今は、あんた達と行きたいとは思えない。留学したいとも思ってないのに、息子を演じるために行くなんて。俺はそこまでお人よしじゃない」
 向かいに座る女の顔が痛々しく歪む。俺は、いい気味だと思う反面、言いたいことはこんなことじゃないという焦燥を覚えた。傷付ける言葉は容易に出てくるのに、伝えたいことはどうしてなかなか言葉にならないのだろう。中戸さんはあんなに簡単に、俺を安心させる言葉をくれたのに。
 俺はコーヒーをもう一口飲んで、今度は慎重に言の葉を紡いだ。
「それに俺、今の生活結構気に入ってるんだ。たしかにバイトバイトで大変なこともあるけど、なんか心が落ち着いてるっていうか、穏やかでいられるっていうか」
 別の意味で心が波打つことも無きにしも非ずだが。
「藪川から聞いた。同居してる人、問題もあるみたいだけど、しっかりしてるみたいだね。老成してるっていうか達観してるっていうか。藪川がどんなに挑発しても、若いのにムキになって乗ってくることがなかったって」
 いい先輩がいて良かったねと、彼女は安堵したように微笑んだ。
 まさか藪川は、俺が同行しないと言うことを見越して、わざとあんなにしつこく食い下がってきたのだろうか。俺の同居人がどんな人間か探るために。この女を、少しでも安心させられるような情報を仕入れるために。なんて、買い被りすぎだと思うけど。
 藪川の不躾な言葉の数々が演技だったとは信じ難いが、奴は見るところは見ていたらしい。あれだけ失礼なことを言われても、藪川の言うことは一理あると言う中戸さんは、たしかに年のわりに老成していると思う。藪川の挑発に乗ってムキになったのは、他でもない俺の方だ。中戸さん自身は、俺が先にムキになったから、自分は冷静でいられたのだと言っていたが。
 藪川は、中戸さんの悪評について詳しいことは話していないようだった。俺との関係を邪推していることも。それに免じて、俺も藪川の去り際の醜態は黙っていてやることにする。
 俺は素直にうんと頷いた。
「今みたいな気楽な共同生活ができるのも、その人のおかげだと思う。でも、それって、今の俺じゃないと出来なかった生活なんだよね。その今の俺を作ったのは、間違いなくあんた達だから」
 中戸さんは、俺が他人に関心が薄いからこそ、同居話を持ちかけてきた。今、目の前に居る女が、幼い俺を残して出て行かなければ、きっと俺はこんな風に育ってはいない。だから。
「だから、そういう点に於いては、すごく感謝してる」
 俺から感謝されるなんて、考えてもみなかったのだろう。彼女は信じられないというように目を瞠っていた。
 ありがとうとはまだ言えない。言うには腹の立つことが多すぎる。でもたぶん、腹が立つのは、また母親だと思えるようになったからで。
「でも、だから俺は行かない。母さん」
 彼女は顔に、ハッとした表情を過ぎらせ、すぐに嬉しそうな、それでいて寂しそうな微笑を浮かべた。






 母親と別れて携帯を確認すると、親父から着信が入っていた。
『……済まなかった』
 何に対してなのか、ちっとも説明がないところが親父らしい。しかし、決して留守番電話にメッセージなど残すような人物ではない親父の気まぐれにしては、あまりにもタイミングが合いすぎていて。中戸さんが俺の実家の番号など知っているはずはないから、先に親父からマンションの方へなんらかの連絡があったのだとは思うが。
 俺は意外とお節介な同居人に、お礼と帰還の言葉を告げるべく、色褪せた花びらの溜まったぬかるみを飛び越えて駆け出した。








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