コレット 05

 十一時前くらいにバイトを終えてマンション近くまで帰って来ると、同じように帰宅途中だった中戸さんと出くわした。近道なのか、森林公園の中を突っ切ってくる。俺に気付くと、軽く手を挙げて、小走りでやってきた。
「バイト? お疲れ様」
 俺より少しだけ短い影が、外灯に照らされた公園脇の歩道に落ちる。
「中戸さんもバイト帰りですか?」
「うん。ちょっと時間延長したから遅くなった」
「河瀬くん、ですか」
「あれ? なんで知ってんの?」
 きり、と、胸の奥が疼く。
「会いました、あの日、駅で」
「ああ、それで実家行ったのも分かったのか。それよりあの時の女の子、バイト先の子だったんでしょう? 今日、大丈夫だった? 気まずくなったりしてない?」
「長谷川さんなら大丈夫です。今までどおりに接してくれましたから。ドタキャンのお詫びにジュース奢らされましたけど」
 長谷川さんは今日も、何事もなかったように向こうから挨拶してくれた。俺が昨日のお詫びに今度奢ると言うと、「じゃあジュース買って」と自動販売機を指差し、「蒔田くんがジュース奢ってくれるってー!」とバイト仲間を呼び集めた。おかげで俺は、総勢八人分のジュースを奢るハメになったのだが。
 長谷川さんは、食事をキャンセルしてしまった理由については、何も訊いてはこなかった。
「ごめん。ジュース代、俺払うよ」
「いいですよ。忘れたの俺ですから。そっちはどうだったんですか、河瀬くん」
 中戸さんが「でも」と言いかけたのを見て、すかさず話題を転化する。中戸さんは「うん」と言ってうつむいた。横の髪が前に落ち、細い首筋が顕わになる。
「こっちも前のとおりかな。ちょっとブランクあるから、まだカンが戻りきってないけど」
「嘘」
「は?」
「や、何でも」
 何らかの変化があったことは明白だった。外灯に浮かび上がった首筋には、それを証明するような鬱血の痕があって。
 俺は歩く速度を落としてそこから目を逸らした。疼きが、鈍い痛みに変わる。
 ――だって俊平、グンジ先輩のこと好きだろ。
 今朝の有川の言葉が思い出され、俺は茫然とその場に立ち尽くした。
 そんなわけない。中戸さんが誰を想っていても、今の暮らしが続けていけるならそれでいい。俺はただの同居人で、後輩で、それ以上望むことなんて何もないのだ。こんなの、恋だなんて言うわけがない。
 でも。
「飛行機だ」
 コオォォォと、飛行機が微かな音を立てて飛んでいく。中戸さんは夜空を見上げて、遥か上空で明滅する赤と緑の光を追っているようだ。頭を反らせて少し前を行く後姿に、公園の外灯が弱い光を浴びせかけている。
 まるであの詩みたいだ。
「薄らあかりにあかあかと 踊るその子はただひとり。」
「何、急に? 白秋?」
 口をついて出た詩の一節に、中戸さんが振り向いた。続きを諳んじて、にっこりと微笑む。
「なんか今の俊平くんみたいだね」
「へ? 俺?」
 俺は中戸さんを見て思い出したんだけども。
「ちょうど外灯の下にいるし、踊ってないけどなんか泣きそうな顔してる。消えそうな顔してるよ。なんかあった?」
 心配そうな顔で覗き込まれ、冷たい手が遠慮がちに頬に触れる。長い指先が触れたところがじんじんと脈打ち、熱が生まれる。俺はその手を取って、なんもないですと呟いた。
「なんもないですよ。泣く理由も消える理由もありません」
 手を離して、へらっと笑ってみせる。まだ、思い出にはしたくない。
 同棲していた元カノと別れた時、俺は周囲に言わせると、平然としていたそうだ。でも今、この人から彼女と同じように突然出て行ってほしいと言われたら、きっと平然としてはいられない。
 一日でも長く居たい。一分一秒でも長く、この笑顔の傍に在りたい。そのためなら、どんなことだって、この想いだって押し殺してみせる。
 悔しいけど、有川の言うとおりだ。こんな感情、俺は今まで知らなかった。
 人との付き合いなんて、いつか別れが来るものと諦めていた。人の気持ちがすぐに変わるものだということは、嫌というほど知っているから。でも、分かっていても、諦められない想いがあったんだ。
 歩き出した俺に、中戸さんは尚も心配そうに訊いてくる。
「本当に? 俺でできることがあったら言ってよ? 俺、いっつも迷惑かけたり世話かけたりしてばっかだし」
「じゃあ、ひとつだけ。その首筋のキスマーク、隠すくらいしてください。俺は同居人として恥ずかしい……」
 横に並ぶ中戸さんの髪の中に手を潜り込ませ、耳の付け根あたりにある刻印をぷにっと押す。そして、よよよと泣き真似をすれば、
「げっ、うそ。駅で拾ったあの男だ。うわぁ、今日一日これで歩いてたのか、俺……」
 中戸さんは頭を抱えて蹲った。
「へ? 駅でってあの男? 河瀬くんじゃなくて?」
 昨日は首筋にそんなものなかったような気がすると思い、しかし自分が顔を埋めたのは逆だったと思い直す。あの変態色惚けリーマン、どこがまだ何もしてないだ。あんな人の多いとこで何やってんだか。
 中戸さんは再び立ち上がると、なんでもないことのように言った。
「遼太なら吹っ切れてるよ。でないとまたカキョーしてくれなんて言わないでしょ」
「うわー、鈍感。あの子、吹っ切れてるわけないですって。俺、昨日もすげぇ眼で睨まれたし。あー、でも、これ見てたら誤解してるかも。今度弁解しといた方がいいですよ。虫に刺されたとかなんとか……」
「なんで?」
 自分のことなのに、中戸さんはきょとんとした。
「なんでって……好きなんでしょう? あの子のこと」
「ああ、まだ勘違いしてたんだ。別にそういう意味では好きじゃないよ。そりゃ、教え子として可愛いとは思うけど」
「でも、俺が河瀬くん好きなんでしょって言ったら鋭いって……」
「鋭いって言ったのは、別のこと」
「別のことって?」
 俺、あの時他に何か言っただろうか。
「マジで人好きになったことなさそうって、あれ。あんま考えたことなかったけど、当たってる気がした」
 そういえば言った。河瀬遼太の告白をかわしたと聞いた時、中戸さんは彼のことを好きだからこそ逃げたように思えたから。
「でも、今は好きな人いるんでしょう?」
 俺の友人の告白を、中戸さんはそう言って断っていたし、それは方便だったにしても、彼の心に何らかの変化を及ぼした人物がいるのはたしかで。
 けれど中戸さんは、何故か眉間に皺を寄せ、微妙な応えを寄越した。
「んー、たぶん」
「たぶんってなんですか、たぶんって」
「おそらく。十中八九。好きは好きだよ。けど、よく分かんないんだよね」
 まともに人を好きになったことがないから、恋愛感情かどうかは分からないということだろうか。それでも、『上の空』の中戸さんにしては『好き』という言葉に身が入っているような気がして。これじゃあ安心もできやしない。
 しかし、そんな俺の不安は、まだまだ生温いものだった。現実はもっとずっと、自分の気持ちに気付いたばかりの俺に残酷で。
「ただ、時々すごく苦しくなる」
 それは無意識に発せられた言葉だったのかもしれない。小さくポツリと漏らされた呟きは、軽い調子だったそれまでの喋り方とは一線を画していた。考え込んでいるようだった横顔も、いつになく憂いを帯びていている。その表情は淡々としているのに、遠くを見る眼差しは、見ているこっちまで胸を締め付けられそうなほど切なげで。
 中戸さんの心が、どれだけその人物に占められているのかを突きつけられたような気がした。
 これなら普通に好きな人がいると言われた方がマシなくらいだ。
「河瀬くんじゃないならその人って……」
 誰なんですかと言おうとして、口を噤む。聞いてしまったら、それこそ俺は……。
 微笑んで口を開こうとする中戸さんを見て、耳を塞ぎたくなる。しかし中戸さんは、悪戯っぽく俺の眼を覗き込んで「言わない」と言うと、俺に背を向けて空を仰いだ。
「言わない。よく分かんないけど、まだ、思い出にはしたくないから」
 小柄な身体が、踊るような足取りでマンションを目指す。
 濃紺の空には無数の星。地上にはそれ以上かというほどの家の明かり。その中で、唯一俺だけが、この人と同じ部屋へ帰れる。
 俺は顔を上げて、中戸さんの横に並んだ。
 それでいい。望みはなくても、同じ場所へ帰れるだけで。同じ所を『うち』と呼べるだけで。
 たとえそれが、物理的なことだけだとしても。






 俺は何故、あの白秋の詩を見て中戸さんを思い出したのか分かったような気がした。
 それはたぶん、詩によく似た光景の中に中戸さんがいたからだけじゃない。



 ――あの詩のタイトルは、『初恋』。








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