シャケラート 03

 中戸さんはたいてい意識をどこかに飛ばしている(本人談)せいか、常にふわふわ笑っていて、どこか浮世離れした印象を受ける人だ。十人中九人が怒り出すようなことを言っても、普段の彼ならば、穏やかに受け流すか情けなさそうに眉を下げてやり過ごす。
 しかし、彼は決してただ優しいだけの人ではない。中戸さんは時に、ものすごく冷酷に人を切る。そしてその非道い仕打ちはおそらく、彼に好意を持ちすぎてしまった者、彼の内面に踏み込もうとし過ぎてしまった者に向けられる。
 だから俺は、宴会がお開きになって、中戸さんに声をかけられた時、これから切腹の沙汰が下るのだと覚悟を決めた。笑顔で切り出された同居解消の話にかぶりを振れば、いつか俺を中戸さんの新しい男だと勘違いして乱入してきた佐渡という男のように、俺も無表情に切り捨てられるのかもしれない。
 ああ、いくら顔が可愛いからって、なんでこんな人好きになっちゃったんだろう。優しいけど人でなしで。しかも男で。不毛だ。不毛すぎる。
「ちょっと話あるんだ。二次会行かないなら、一緒に帰ろう」
 店を出る時、中戸さんはそう言った。なのに今、話を切り出すこともなく黙々と歩いている。既に日付が変わろうとしているこの時間、繁華街を抜ければ、車のエンジン音さえまばらな道が続く。そこにかすかに響く中戸さんの靴音は、まるで死刑宣告をしにきた刑務官のもののように聞こえた。足音が止まった時が宣告を受ける時なんだ、きっと。
 寿命が縮む思いとは、まさにこういうことを言うんじゃないだろうか。
「新年会、以来ですね。こうやって居酒屋から歩いて帰るの」
 いっそのことさっさと終わらせてしまおうと思ったのか、それとも一秒でも先延ばしにしようと思ったのか、その時の俺の頭がどういう思考を辿ったのかは、自分でも分からない。しかし、先に口を開いたのは俺だった。
 飲みに行こうという話は春休みにも出たのだが、中戸さんが急に帰省したことで流れたままになっていた。
「あの時はうちから二駅先の店だったから、途中からタクシー拾ったけどね。寒かったねー、あの日は。雪降ってたし」
 一言以上の返答があると思っていなかっただけに、言葉の多さに俺は少し安堵した。が、やはりぎこちなく聞こえる気がする。
「今日はちょっと蒸し暑いですね」
「星も出てないし、明日は雨かもね」
 梅雨入りはまだみたいだけど。
 中戸さんはそう言って空を振り仰いだ。それに倣うように、俺も夜空に目を転じた。上弦の月に、黒く靄がかかっている。まだ雨など降っていないのに、歩道を踏みしめる足が水を含んだように重い。それは沈黙のせいだと分かっているのに、続く言葉が浮かばない。それでもどうにか絞り出した話題は、触れまいと思っていた事柄で。
「……川崎先輩と行ってたのかと思ってました。旅行」
 ああ、俺の馬鹿。
「旅行?」
「今週入ってから、ずっといなかったでしょ」
「ああ、旅行じゃないよ。ゼミ合宿だったんだ。ちょっとだけ観光もしたけど」
「そう……だったんですか」
 思わず間抜けな声が出た。俺を避けるためかと思ったとは言えないので、「先輩と別れたって知らなかったから」と濁すと、中戸さんはいつもの調子に戻ったように、ちょっと笑った。
「先輩、サラリーマンだよ? 別れてなくても平日に旅行はしないって」
「そう、でしたね」
 そりゃそうだ。有給もない入社したての会社員が、平日に旅行なんてできるわけがない。少し考えれば分かったはずのこと。自分の早計さにうつむいてしまう。
 その行動がまずかったのかもしれない。またも、気づまりな靄が俺にまとわりついてきた。俺のだけでなく、二人分の足音が重く聞こえる。
 すでに点滅状態になっている交差点を渡る。次の角を左折すれば、もうマンションが見えるはずだ。いつ口火を切られてもおかしくはない。
 森林公園脇の歩道の上。足音を止めたのは、俺の方だった。
「俊平くん?」
 呼びかけから不審に思われていることは分かったが、俺は中戸さんに追いつくことも、彼の顔を見ることもできなかった。自分の足先に視線を落としていると、中戸さんのスニーカーの踵が動いて、つま先がこちらを向いた。
「……ごめん。有川から聞いた」
 中戸さんの静かな声が、歩道に落ちた。
 その瞬間、俺は覚悟なんてできていないんだと自覚した。覚悟ができたから止まったんじゃない。怖かったから、同居解消の話なんてとても聞いていられる自信がなかったから、だから足を前に出すことができなくなった。要するに、足が竦んだのだ。
 「俺……」と続けようとする中戸さんを遮るように、俺はうつむいたまま口を開いた。
「あの! 好きっていうのはあくまで同居人としてで! 中戸さん、一緒に住むからって面倒な取り決めとかしないし、先輩なのに偉そうにすることもなくてなんか話しやすいし、病気になったら看病してくれたり追試になったら勉強みてくれたりしたし。だから、その、知人というか、先輩というか、そういう意味での好きであって、川崎先輩みたいなのとは違いますから!」
「……え、俺のこと好きなの? 嫌いじゃなくて?」
「へ?」
 間の抜けた問いかけに、思わず顔を上げる。中戸さんはポカンとして、俺を見ていた。僅かに頭の位置の高い俺を、見上げるというよりは、頭を突き出すようにして見ている。黒目勝ちな瞳の持ち主であるのに四白眼になるほど目を見開いている様は、問いかけに負けず劣らず間が抜けて見えた。もっとも、俺も同じくらい間抜けな顔をしていたに違いないが。
「……有川、なんつったんですか」
「俊平くんが俺を避けてるなら、それは俺が誰かと付き合ってるからじゃないかって」
 脅して縋って泣きついた中戸さんに、有川は怒鳴ったそうだ。
「あーもう! なんでそんなに俊平のこと気にするんすか! グンジ先輩、今誰かと付き合ってんでしょ。だったらそのせいっすよ。間違いないね。はぁ? そんなのあいつ見てりゃ愚問でしょ。好きな人できたんすよ、あいつ。俺に誰かとか訊かないでくださいよ」
 有川に、中戸さんと川崎先輩が付き合っていたことは言っていない。しかし中戸さんの行動は、うちの大学ではどこからかだだ漏れになっている節がある。相手は特定できないまでも、中戸さんが誰かと付き合っているという噂はあったのかもしれない。
「俺は、中戸さんに避けられてるのかと思ってました」
 もちろん、先に避け始めたのは俺の方なのだが、ゼミ合宿に行く前から、中戸さんの様子はおかしかった。俺が帰宅するとダイニングから急いで立ち去る気配がしたこともあれば、エレベーターに乗り合わせそうになった時、忘れ物をしたと引き返して行ったこともある。トイレや風呂だって、俺が部屋に引っ込むのを待ってから使っている節があった。まぁ、俺もそうしていたんだけど。でも、自分がそうしていたからこそ、相手の行動が自分を避けるものであると気付いたわけで。
 中戸さんは、ごめんと呟いて、でも、と唇を尖らせた。
「怖かったんだ」
「怖い?」
 思わぬ理由に、俺は眉をひそめた。たしかに顔を合わせれば不機嫌な表情になっていたかもしれないが(川崎先輩とのあれこれを想像してしまうのだから仕方がない)、それほど態度に出ていただろうか。
「まともに顔合わせたら、また出てくって言われるんじゃないかと思って」
「それはないです!」
 単なる思いすごしかもしれない。でも、左手で右腕を掴み、視線を落とす姿がひどく寂しく見えて。俺は力いっぱい否定していた。驚いたように顔を上げた中戸さんを見てすぐに我に返り、ぼそぼそと後を続ける。
「……俺、人との共同生活なんてそんなに続けられる人間じゃないと思ってたけど、なんか今、一人暮らしすること考えたら無性に心細くなるんです。でも、他の奴と暮らすなんてもっと考えらんなくて。それこそ窮屈で続けられないだろうと思うんですよね。真衣と暮らしてた時だって、好き勝手やってはいたけど、それなりに帰る時間とか気にしてたし」
 それに何より、この人が他の人間と暮らすのが嫌だ。物理的なことだけだとしても、一番近くに居るのは俺でありたい。
 中戸さんは次第に靄から解放される月のように、ゆっくりと顔を綻ばせた。肩が上下するほど大きく息を吐き、力が抜けたように両ひざに手を当てて身体を折る。
「良かったぁ。俺、てっきり俊平くんに嫌われたのかと思った。有川もああ言ってたし、俊平くん、俺がバイでも気にしないって言ってくれたけど、やっぱ男と付き合ってるの目の当たりにしたら気持ち悪くなったんじゃないかって。それに、好きな人できたっていうから、よけいに俺みたいのといるのが嫌になったんじゃないかと……」
 中戸さんは俺が、彼といることで相手に軽蔑されると考えて、中戸さんを避けるようになったのかとも思っていたようだ。
「避けてたのは、これ以上嫌われないようにっていうのもあったんだよね」
 へへへと笑って顔を上げた中戸さんは、また踵を返して家路をたどり始めた。
「これ以上って、元から嫌ってませんよ」
 俺も後をついて歩き出す。今度はスムーズに足が前に出た。
「さっきも言ったけど、俺、他の人と同居なんてたぶん無理だし。だから中戸さんは、あの、特別っていうか、貴重っていうか……。要するに、好きってのはそういう意味で……」
 ぎくしゃくと口ごもっていると、小柄に見える背中が「俺も」と振り向いた。
「え、」
 何が? と立ち止まる。中戸さんはひらりと笑うと、
「俺も俊平くん好きだよ。大好き」
 月はまだ靄に覆われている。公園の外灯も木々に邪魔されて届きにくい。でも、そんな光源の薄いこの場所でも、中戸さんの笑顔はとても鮮やかで。だから。
「これらかもよろしく」
 そう言って右手を差し出された時、すぐには自分の手を出せなかった。
 だって、どうしたって、中戸さんの好きは同居人としてで、後輩としてで、ひょっとしたら友人としてっていうのもあるかもしれないけど、それ以上のものが含まれるわけがないのだ。彼は付き合う相手にでさえ、そんなに愛情を抱くことはない。中戸さんの心に存在するのは、入りこめる人は、今のところただ一人。俺の帰省していた間に知り合ったと思われるその相手を、俺は知らない。
 だけど、こんなことされると期待してしまいそうになる。錯覚してしまいそうになる。他の人よりは、俺の存在は彼の心に届いているのではないかと。その一人は、もしかしたら自分なのではないかと。
 俺の反応が遅いためか、中戸さんは少し笑顔を曇らせて首をかしげた。
「あ、こちらこそ」
 慌てて手を出し、ぎこちなく握手をする。
 中戸さんの手はしっとりと冷たい。でも、骨ばっているわりに柔らかくて。俺はそのまま引き寄せたいという衝動を、一瞬だけ強く手を握ることで抑えた。手に伝わる男性の骨格が、理性を働かせてくれると思ったのだ。
 強く握った反動を利用して手を離すと、中戸さんはまたくるりと向きを変えて歩き出した。その足取りは、さっきまでと打って変わって、軽やかで速い。人と歩いていることなど忘れているかのように。
 しかし、角を曲がった時、中戸さんはふと俺の存在を思い出したように歩みを緩め、隣に並ぶ俺を見た。窺うような上目づかいにどきりとする。
 だが、彼の口から出てきたセリフは、
「で、俊平くんの好きな人って誰?」
 この人は筋金入りの鈍感だ。間違いない。そして、やっぱり俺に気のないことも間違いない。でなければ、答えに窮している俺に「俺、協力するよ?」なんて楽しそうに微笑みかけられるわけがない。
「そんなのいませんよ」
 俺はぶっきらぼうに返した。
「有川の勘違いです。もしできたとしても、中戸さんに協力されたら十人中十人が中戸さんの方にいきそうなんで、絶対に教えません」
 けちー、と頬を膨らませる中戸さんを見て、当分この気持ちに気付かれる心配はないなと、俺は安堵とも落胆とも取れない溜息をついた。






 俺はこの先も、この想いが溢れ出てしまいそうになるのを全力で阻止し続けるだろう。
 それでも、もし万が一、この恋が走り出してしまうことがあるとするならば、それはたぶんもっとずっと先の話。








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