去りゆく 01

 俺がその噂を耳にしたのは、卒業式から数えて十日目の、木曜日のことだった。
「はぁ!? グンジが男と付き合ってる!?」
 男の友人が男と付き合っているという内容も衝撃だったが、そのことを俺に確認してきた相手も衝撃だった。
「うん……。そういう話をね、聞いたの」
 試験週間に入り早々にひと気のなくなったバス停で、今日の薄曇りの空のように悲しそうにうつむいたのは、グンジの彼女である知佳ちゃんだった。






 知佳ちゃんは、俺やグンジと同じ高校一年生で、隣の女子高に通っている。俺たちの高校もいい加減山の中にあるのだが、彼女の通う学校は、さらに上に位置していた。ほとんど山頂だ。偏差値の高さもそれに比例しているという話だが、男の俺たちはどうやったって入れないことに変わりはない。
 とにかく、結構な山の中にあるふたつの学校へ通う主な交通手段は、市営バスだった。たまにチャリで通う猛者も見かけるが、たいていひと月足らずで挫折する。知佳ちゃんの高校は私立の女子高ということもあり、専用の学園バスを駅から運行させようという動きもあるらしいけれど、今のところ実現には至っていなかった。
 そこで、別々の高校に通い、放課後は部活ばかりのグンジと、塾や習い事で忙しい知佳ちゃんは、毎朝同じバスに乗ることで、恋人らしいひと時を楽しんでいた。らしい。
 というのも、俺は学校の傍の学生寮に住んでいて、バスで登校する必要がないので、二人が仲睦まじくバスに揺られているところを見ることがないのだ。ただ、一度だけ三人で乗り合わせたことがあり、その時の二人は、べたべたくっつくでも睦言めいた会話を交わすでもなく、ただただ嬉しそうだった。恋人というにはよそよそしく、友達というには親密すぎるような。なんだか、仲の良い双子の兄妹といった雰囲気だった。
 そんな二人をバスで見かけた知佳ちゃんのクラスメイトが、知佳ちゃんに言ったそうだ。
 ――バスでよく知佳と一緒にいる人、男の人と付き合ってるんだって。
 そのクラスメイトは、知佳ちゃんとグンジが付き合っていることは知らなかったらしいが、俺はなんとなく悪意を感じてしまった。偏見かもしれないが、女ばかりの園で鬱屈しているその子が、知佳ちゃんだけが毎朝男の子と仲良く喋っているのを見て、僻んで言ったのではなかと。
 しかし、その話の出所は彼女ではなかった。俺たちの高校の生徒がバスの中で話しているのを、知佳ちゃんの友達も聞いていたのだ。
 友達はそれなりに気に病んでいて、知佳ちゃんに話すべきか迷っていたらしい。他のクラスでも隣の高校にホモカップルがいると噂になっているから、知佳ちゃんの耳に入るのも時間の問題かもしれないと思いつつも、知らなければ知らないままの方が彼女にとっては幸せなのではないかとも考えていたそうだ。
 相手が女なら、偽の噂でも「紛らわしいことをするな」と文句のひとつも言ってやればいいけれど、男相手では噂自体が嘘っぽい。これは、実情はともかく、お嬢様校といわれるうちの生徒を彼女にした、知佳ちゃんの彼氏をやっかんだ誰かが流したデマなのではないか。だとしたら、わざわざ知佳ちゃんに報せても、不快にさせるだけかもしれないと思ったと、友達は言ったらしい。
「俺もその友達に賛成だな」
 俺はなるべく明るく聞こえるように言った。
「知佳ちゃん可愛いから、僻まれたんだよ、グンジの奴」
 しかし、知佳ちゃんの表情は晴れなかった。
「でも、気になることがあるの」
「グンジのことで?」
 誰かと二人きりで親密そうにしていたのを見たとでもいうのだろうか。しかし、男同士なら、頭を寄せ合って密談することもあるだろう。二人の頭の下にあるのが携帯ゲーム機か陸上雑誌か、はたまたエロ本かは分からないが。そんな男どもの光景に免疫のない知佳ちゃんから見れば、いちゃついているように見えるのかもしれない。
 今後は俺も気を付けよう。知佳ちゃんの友達あたりに誤解されて、お嬢様校に通う彼女を作るチャンスを逃すのは惜しい。
 それよりも、知佳ちゃんと二人きりでいる今のこの状況の方が、誰かに見られたら誤解されそうだった。今朝、たまたまこのバス停で会って(グンジの朝練がない時にも二人は早いバスで来て、ここでギリギリまで喋ったり勉強したりしている)、「放課後、グンジくんが帰ってから、ここで会ってもらえないかな」とこそっと言われた時には少し胸が高鳴ったが、いざグンジ抜きで話していると、知佳ちゃんをグンジの彼女と知っている奴に見られでもしたらという考えが過ぎって、胸がドキドキするよりも胃がキリキリする。
 知佳ちゃんは、固いベンチに腰掛けたまま、さらにうな垂れた。耳が赤くなっている。
「私ね、まだ、キスもされたことないの」
 今にも泣きそうな、消え入りそうな、懺悔するような声で、知佳ちゃんは言った。






 グンジの噂の相手は、すぐに分かった。噂の出所だけあって、うちの学校ではもっと広く詳しく――もちろん、盛大な尾ひれもついて――語られていたのだ。耳さえそばだてていれれば、情報はいくらでも入って来た。
 曰く、相手は同じ陸上部にいた木内先輩であること。卒業式の後、柔剣場の裏でグンジから告白していたらしいこと。そして。
「木内先輩がオッケーして、二人はキスしてたってんだろ。俺も聞いたそれ」
 寮の談話室で勉強するふりをして聞き込みをしていると、同じ陸上部の義成が言った。
「どうせ木内先輩かグンジのせいで女に振られた奴が、腹いせにデマ流してんだろ」
「義成もそう思うか」
 俺はやってもいない問題集から身を乗り出した。これは知佳ちゃんを喜ばせられる意見を聞けるかもしれない。
「二人ともモテるからな。二人でくっついてくれりゃ、女子が他の男に目を向ける確率も上がるとか思ってんじゃねぇの」
 義成は英単語を綴りながら応えた。
 俺はさらに身を乗り出す。
「木内先輩はもう卒業したのに?」
「んじゃ、そいつはグンジのせいで振られたんだろうな。相手が卒業生なら当人にあまり迷惑はかからないし、木内先輩はなんたって神だからな」
 義成はさして面白くもなさそうに言ったが、俺は俄然熱が入って来た。
 木内先輩といえば、俺たち男子陸上部員には神と崇め奉られている存在だ。一年時、二年時とインターハイの五千メートルで上位に食い込み、しかも二年生の時には日本人で一位。国体の少年A五千メートルでは高校二年歴代五位のタイムを出し、全国高校駅伝でも、二年で四区を走って区間賞を獲得している。俺たちの学年には、木内先輩目当てでこの学校を受験した陸上部員もいるほどだ。
 しかし、俺たちが入学した時、トラックに木内先輩の姿はなかった。彼は二年生の冬休みに事故に遭い、走れなくなっていたのだ。
 俺たちが初めて実物を目にした時には、歩くのもびっこを引いている様子だった。今も、よくよく注意して見れば、右足をやや庇うようにして歩いているのが分かるだろう。
 でも、木内先輩が神と呼ばれるようになったのは、事故に遭ってからだ。
 木内先輩は陸上の道が断たれたと分かるや否や、猛勉強を始めたらしい。それまで地を這うどころか地中に潜る勢いだった成績を覆し、長期入院していたにも関わらず、留年することなく三年に進級。その時はギリギリだったという話だが、その後も彼の成績面での快進撃は続き、とうとううちの学校では難関の部類に入る国立大学に合格してしまった。
 それも、自分は走れなくなったのに、そのまま陸上部に籍を置き、わりと頻繁に俺たちの指導をしてくれながらだったというのが、またすごい。
 第一志望には落ちたという噂もあるが、学年ブービーから一年足らずで首位タイになるほどの躍進劇は、まさに神がかり的な所業だ。陸上での華々しい成績と併せて見ても、まさに神の称号がふさわしい。
 ちなみに、唯一半年以上チャリで学校に通い続けた、猛者中の猛者でもある。
「陸上部の俺らなら、『抱かれたい!』と思っても不思議はない、と」
 興奮気味に言った俺に、義成はちらりと視線だけ寄越してきた。
「早瀬はそう思うのか?」
「思うかよ! 義成だって信憑性が出るってことを言いたかったんだろ」
 義成がやっと顔をあげた。シャーペンの尻で顎先を突いて、何か考える素振りを見せる。そしてぽつりと言った。
「俺は逆の可能性もあると思ったんだけどな」
「木内先輩への腹いせ?」
 神への冒涜、という言葉が頭に浮かんだ。
 有り得ない。木内先輩は、顔や成績が良いだけでなく、あれだけの華々しい実績を持ちながらも、俺たち一年にまで奢ることなく接してくれる、できた人なのだ。いくらモテるからと言って、彼に恨みを持つ人間がいるとは、俺には考えられなかった。
 しかし、義成はあっさりうなずいた。
「うん。グンジはほら、女顔だし。グンジに彼女がいるって知らない奴なら、相手に据えるのに丁度良いって考えるんじゃないか」
 チビでガリでしょっちゅう女子に間違えられるからと言って、恋愛対象まで女子と同じになるわけではない。しかし、グンジの恋愛対象が女の子だという証拠を知らない奴にとっては、これ以上ない適任に見えたということか。
 ――告白したのも私からだったし、グンジくんてひょっとして、女の子に興味ないのかなって……。
 大きな瞳を揺らめかせて、何かに耐えるように言った知佳ちゃんの顔が思い出された。
 俺は「そんなことないよ」と彼女を励まし、噂の真相についてそれとなく探ってみると約束したのだが。
「ま、それなら木内先輩から告白してこっぴどく振られたっていう方が評判は落とし易そうだから、やっぱグンジを気に食わない奴が言い出しっぺなんだろうな」
 義成がそう結論付けた時、まさに知佳ちゃんが見たらいちゃついているのかと思われそうなくらい頭を寄せ合って話していた俺たちの上に、影が差した。
「俺、その噂の言いだしっぺ誰だか知ってる」
 これまた同じ陸上部の守田だった。
「誰!?」
 俺と義成の声が揃う。
 守田は一瞬気圧されたようだったが、テーブルの上にノートを置いて、俺の隣の椅子を引いた。
「二年の浦原さんて女の先輩。彼女の友達なんだ」
「女!?」
 またしても俺と義成の声が揃った。振られ男の腹いせではなかったのか。
 バレンタインに年上の彼女ができた守田は、言いにくそうに顔を歪めた。
「その人が、グンジが木内先輩に告ってるとこを見たんだって。場所は柔剣場じゃなくて、部室棟の辺りな。で、木内先輩がオッケーしてキスしてたんじゃなくて、グンジが一方的にしたらしい」
 その浦原さんという人は、木内先輩のことが好きで、最後に気持ちを伝えようと先輩を捜していたらしい。そこで件の現場に遭遇し、ショックのあまり声を掛けられなかったという。
「付き合ってるっていうのは、話が広まる途中でそうなっちまったんだろうな」
「なんだそれ」
 義成がシャーペンの尻を顎から外した。
「明らかに、グンジ一人に対する嫌がらせじゃないか」
 俺もそう思う。知佳ちゃんの話がなかったら。
 ――グンジくんてひょっとして、女の子に興味ないのかなって……。
 二人が付き合い始めて、半年以上は経っている。その間、健全な男子高校生が、まったく彼女に手を出さないなんてことがあるだろうか。
「グンジの奴、浦原さんという人に何かしたんじゃないのか」
「俺だって浦原先輩の見間違いだと思ったよ。グンジに彼女いるのも知ってるしよ」
 義成が何故か俺に問いかけるように言い、守田が弁解口調でまくし立てた。声のトーンを落として続ける。
「でも、卒業式の日に、俺、そこのバス停でグンジに会ったんだ。式の後に彼女とバス停で待ち合わせしてたんだけどよ、彼女ちょっと遅れてて。そしたらグンジが学校から出てきて、バスが来るまで少し話したんだ。で、グンジを見送ってたら、彼女が蒼褪めた顔の浦原先輩と一緒に出てきて、浦原先輩がバスの窓越しにグンジを見て言ったんだよ」
 ――あの子だよ、さっき木内先輩にキスしてたの。
「彼女が遅れてたのも、友達数人と、ショックで放心してた浦原先輩を励ましてたからだったんだ」
「じゃあ、噂は浦原さんと守田の彼女と、その友達数人が発端なわけだ」
「だから噂とは言い切れねーんだって!」
 断定した義成に、守田が噛みつくように言った。
「だいたいグンジだって全然否定しねーじゃねーか。耳に入ってないとは言わせねーぞ」
「早瀬は何か聞いてないのか?」
「聞いてるわけねーじゃん。俺自身が今日初めてそんな話があるって知ったのに」
「だったらグンジも知らないのかもな。知ってても、自分の前で話題にされるわけでもないのに否定しにくいしな」
「あのなぁ、グンジはその日、学校に来てたんだぞ。彼女や浦原先輩たちは二年だから式に出るために登校してたわけだけどよ、俺ら一年は、卒業式の日は休みだっただろ」
 俺と義成は顔を見合わせた。
 その日は、部活も休みだった。










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