去りゆく 02

 俺は最終手段に出ることにした。当人に突撃するのだ。
 被害者側と見られる木内先輩の方が事実を語ってくれそうな気がするが、卒業していて会えないのだから仕方がない。
 翌日の金曜日、俺が「教えて欲しいことがあるから放課後いいか」と言うと、グンジは試験勉強のことだと勘違いしたらしく、「俺で分かればいいけど」と寮までのこのこついてきた。
「で、何? 英語? 数学? 化学は俺に訊くなよ。微妙だから」
 グンジはこたつに足を突っ込んで、自分の鞄の中をかき回しながら言った。日焼けの引いた白い頬に、睫毛の影が落ちている。
「どれでもない」
 俺の答えに、グンジはきょとんと顔をあげた。じゃあ何? とでも言いたげに、首が傾いでいる。知佳ちゃんと同じような黒目勝ちの大きな瞳が、俺を捉えていた。
 俺は息を吸い込んだ。
「単刀直入に訊くけど、おまえ、木内先輩と付き合ってんのか」
 グンジはきょとんとしたまま応えた。
「んなわけないじゃん」
 知佳ちゃんいるのに、とやっぱりきょとんとしたまま付け加える。
「じゃあ、その、先輩にキスしたのか」
「するわけないじゃん」
 そこでやっとグンジは頭の角度を正面に戻した。つるりとした眉間に皺が寄る。
「おまえ、進級試験が怖くておかしくなったのか?」
 気の毒そうに言われ、俺は「俺が言い出したことじゃない!」と喚いた。
 グンジは自分に関する噂をマジで知らないようだった。俺が噂の内容と、浦原さんという二年の女子が現場を見たらしいという話をすると、「だからか」と得心したような顔つきになった。
「だからだよ。噂を信じてるわけじゃねーけど、守田が卒業式の日に、バス停でおまえに会ったって言うし……」
 知佳ちゃんのことを言おうかどうしようかと言葉を濁していると、グンジがぼそっと呟いた。
「そっちの『だから』じゃなかったんだけど」
「じゃ、どっちの『だから』だよ?」
「この一週間くらいで、三回も男に告られたから」
「えええ!? マジで?」
「マジか冗談かは知らねーよ。でも俺、そっちの人間だと思われたんだろうな。彼女いるって言ったら、すげぇびっくりされたし」
 俺は思わず仰け反ったが、グンジは平然としたままだった。そっちの『マジ』じゃねーよと辛うじてツッコミを入れるも、「現実かって意味なら、マジだよ」と素で返される。
「で、早瀬の『教えて欲しいこと』ってのは、噂の真相だったわけか」
「あ、ああ」
 冷静に話を戻されて、俺は本来の目的を忘れそうになっていたことに気付いた。だって三回告られたって話は噂じゃなくて事実なわけだろ。そっちのがよっぽど衝撃だ。
 けれど、ここは知佳ちゃんのためにも木内先輩との噂を検証しなければならない。告られた三回については、彼女がいるとはっきり言っているようなので、知佳ちゃんの不安の種にはならないだろう。
「卒業式の日に学校に行ってたのは事実なんだろ? 何しに行ってたんだよ」
「木内先輩に参考書貰いに」
「はぁ!?」
 俺は今朝、知佳ちゃんから話を聞いた時よりも驚いた。それじゃあ、浦原さんが見たのはグンジで間違いなかったのか。
「先輩、バレンタインに部室に来てたじゃん。あの時に俺、化学の参考書でいいのあったら教えて下さいって頼んでたんだよ。そうしたら、卒業式のちょっと前に、受験終わったから使い古しでよければやるよって連絡があって」
「卒業式の後に部室棟の裏でって?」
 グンジはうなずいた。
「他に学校行ける日なさそうだからって」
 俺は唸った。たしかにバレンタイン以降で三年生が登校してくる日なんて、よほどのことがなければ卒業式くらいしかないかもしれない。木内先輩は遠方の大学へ進学するから、部屋探しや引っ越しの準備などで忙しくもしていただろう。
「じゃあ、参考書貰っただけなんだな。顔を寄せ合って話したりは?」
 浦原先輩は、知佳ちゃんたちと違って女子高に通っているわけではないが、そういう場面を勘違いしたということはあるかもしれない。
「あー、話はちょっとした」
「どんな?」
 告白と間違えられそうな内容だったとか?
「そりゃ、卒業おめでとうございますとか、おまえも頑張れよとか。あ、そういえば、コソッと『長距離やれば』って言われた。俺にはそっちの方が向いてる気がするって。その時は、顔近かったかも」
「は!? 長距離やるのか!?」
 その瞬間、俺の頭からは噂なんて吹き飛んでいた。グンジは短距離を、そして俺は長距離を専攻している。グンジが長距離に転向してきたら、俺たちは出場枠を争わなくてはならない。
 が、背筋に緊張が走った俺とは対照的に、グンジはのどかに否定した。
「や、別に先生に言われたわけじゃないし。長距離は人余ってるじゃん」
 短距離の練習しかしていないグンジが、長距離に転向してきたところですぐに脅威になるとは思えない。それでも俺はホッとして、噂の検証中であることを思い出した。
「ということは、人は見間違ってなかったけど、告白やキスは浦原さんの聞き間違い見間違いってことか」
「木内先輩といえば俺らにとっては神だろ。他の部員に見られたら、『俺も俺も』ってなりそうだったから、隠れるみたいにして受け取ったのがまずかったんだな」
 木内先輩自身、使い古しの参考書を欲しがる奴がいるかどうかはともかく、グンジだけを依怙贔屓していると思われてもいけないからと、部室の前ではなく、部室棟の裏を指定して来たらしい。たしかに、グンジが貰ったのが参考書でなく記録を出した時のシューズだったりしたら、グンジばっかりコノヤローということになったかもしれない。正直、シューズやジャージなら、俺だってお守りに欲しい。人気者は大変だ。
「でも俺、そんな噂が広まってるなんて知らなかったな。この前守田に『バレンタインにチョコくれたのは、おまえがチョコ嫌いだからだよな?』って訊かれて、何を今更って思ってたけど、あれってそういうことだったんだな」
 守田は、グンジが「なんで?」と訊いても、「なんとなく」としか答えなかったらしい。
「早瀬はとっくに知ってたのか?」
「いや、俺も昨日知った。でも、俺が訊いて回った奴らはみんな知ってたから、結構広まってるみたいだな」
 少なくとも、陸上部一年の寮生は、全員耳にしているようだった。
「わざわざ訊いて回ってたのか」
「俺はな、知佳ちゃんに頼まれたんだよ!」
 呆れたように言われた俺は、少しムッとして、知佳ちゃんのことを言ってやることにした。もとはといえば、こいつの顔が女っぽくて、行動も紛らわしいのが悪いのだ。
「知佳ちゃん!?」
 グンジが驚いた声を出したので、俺は得意になって続けた。
「いいか。俺がこの話を聞いたのは知佳ちゃんからなんだよ。おまえら、結構長く付き合ってるのに、キスもまだなんだって? そんな状態でおまえが男と付き合ってるって聞いたもんだから、知佳ちゃん不安になってんだよ。知佳ちゃん言ってたぞ。グンジくんて、女の子に興味ないのかなって」
「げ。知佳ちゃんの学校まで広がってるのか、その噂」
「おまえな、もっと他に気にするところがあるだろーが! 彼女にホモかもって疑われてんだぞ!」
「あのさ、俺と知佳ちゃんが会ってるところって、早瀬も知ってるよな」
 激昂する俺をなだめるでもなく、グンジは淡々と確認してきた。
「……バスの中」
「うん。あと今週みたいに朝練ない日は、バス停でも少し話すけど」
 放課後は、グンジの部活が休みでも知佳ちゃんは塾があるから、やはり駅までバスに乗り合わせるのがせいぜいだ。俺らの部活は土日もほとんど休みにならないし、冬休みは知佳ちゃんが家族で海外に行っていたらしい。つまり、彼らはまだ、学校の行き帰りでしか顔を合わせていない。
 俺がやっとそのことに思い当たった時、グンジが溜息を吐くように言った。
「おまえ、運転手や他の乗客のいるバスの中とか、いつ誰が来るとも知れないバス停で、そんなことできるか?」
 俺は思わず噴き出してしまった。ずいぶん奥手そうな顔をしながら、さっさと彼女を作ってしれっとしてるかと思いきや、結局そんなことで立ち止まっていたなんて。なんだ見た目どおりなんだ、とか、俺や知佳ちゃんは、そんなことにも気付かず焦っていたのかと思うと、おかしくて仕方なくなったのだ。
 俺は笑いながら言い返した。
「できるんじゃねーか?」
 十年後くらいには。






 その背中を見たのは、あくる土曜日。駅前でのことだった。
 自分で知佳ちゃんに話して誤解をとくと言うグンジに、ちょうど月曜日はホワイトデーだから、バレンタインのお返しでも渡して弁解すれば知佳ちゃんも安心するだろうと言ってやると、数学を教えてやるからお返しを選ぶのを手伝ってくれと泣きつかれた。どうやら、ホワイトデーの存在自体、すっぽり忘れていたらしい。
 そこで昨日は、勉強会と称して急遽グンジを俺の部屋に泊まらせることになり、学校が休みである今日、二人で駅前まで出掛けてプレゼントを物色していたのだった。
 俺の妹が父親にお返しをリクエストしていた店でクッキーを買い、知佳ちゃんが携帯を持っているというので、彼女の好みそうなストラップを一緒に選んでやって、四時前にグンジとは別れた。そして、だいぶ陽が長くなってきたなぁと思いながら、まだ明るいバス停に戻ろうとした時、チケット売り場に並ぶスラリと高い背中を見たのだ。
 その人は、列に従って前に進む時、よく見ると右足を引きずっているようだった。
「木内先輩」
 呼びかけると、先輩は振り向いて、「おう」と手をあげてくれた。あの噂の相手役に選ばれたのも分かる、男でも惚れ惚れするような、真夏の太陽みたいな笑顔だ。二度と走れない元ランナーの表情には見えない。
「早瀬、久しぶりだな。今、試験週間中じゃないのか」
「そうなんすけど、ちょっとヤボ用で。先輩は?」
「夜行バスのチケットを取りにな」
 ここから先輩の引っ越す街まで、長距離バスが運行しているらしい。
 怪しげな噂を聞いてから幾日も経っていないが、それでも木内先輩に会えたのは、素直に嬉しかった。『抱かれたい!』とは思わないものの、俺も先輩には憧れていたのだ。
 俺が内心でしっぽを振って喜んでいるのが分かったのか、先輩は駅前に一件だけあるファストフード店に誘ってくれた。外は肌寒かったので、二人とも温かい飲み物を頼んで、陽のあたる窓際に座る。
「もう向こうに行くんですか」
「まだ自動車学校に通ってるから、本格的に引っ越すのはもうちょっと先」
 木内先輩は今も、教習所の帰りだということだった。右足が悪いのに大丈夫なのだろうかと思ったが、口にはしない。
「行っちゃう前に、一度くらい部活に顔出して下さいよ」
 俺としては、一度と言わず、何度でも来て指導して欲しいくらいだった。
「あ、でも、」
 俺は噂を思い出して、付けくわえた。
「今は来ない方がいいかも」
「試験期間中は部活休みだしな」
 分かってるよと白い歯を見せる先輩に、違うんです、と事情を説明する。先輩が指導に来てくれるなら、俺は試験なんてそっちのけで走り込む所存だ。
 俺が、二年の浦原さんという女子生徒が見たという状況を、念のために彼女の名前を伏せて説明し、それに尾ひれがついて、今は先輩とグンジが付き合っているという話になっていることを話すと、木内先輩はあっけらかんと言った。
「それ、俺とグンジが逆だわ」
「へ?」
「告ったのもキスしたのも俺」










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