去りゆく 03

「は? でもあいつ、隣の女子高に彼女いて……」
「そうなんだってなー。おまえ、知ってたんなら教えろよー」
 先輩は情けなさそうに言ったが、その表情も声も、どこまでも明るい。
「卒業式の後でやるって約束してたもんがあったから会ったんだけどさ、その時に『好きだ』って言ったら、にこにこしながら『俺もです』って言うから、チュッとやっちゃったわけよ。そうしたら、『彼女いるんで、すみません』って」
「ちょっ、ちょっと待って下さい」
 俺はあくまで、こんな噂が学校で広がってるんですよ、という話をしていただけで、これから、真相はグンジから聞いてるから誤解はしてませんよ、と続けるつもりで、いくら先輩がカッコ良くてグンジが女顔でも有り得ない発想ですよね、と笑うはずだったのに。
 だいたいグンジは否定したはずだ。俺が「付き合ってんのか」と訊いたら、そんなわけないと言い、「キスしたのか」と訊いても、するわけないと答えたのだ。「浦原さんの聞き間違い見間違いだったんだな」と俺がまとめた時も、グンジは同調するような態度だった。
 いや、でも、よく考えたら、あの時は同調するように他のことを言っただけで、はっきり肯定もしていなかった。否定しなかっただけだ。そして付き合っていないのは事実で、キスはしたわけじゃなくされたのだから……。
 嘘は、吐いてなかったのか。
 でも、グンジが嘘を吐いていなかったのが分かったからといって、俺の混乱が治まるわけではなかった。
「先輩って、その、男が……」
「好きなのかって?」
 俺がどう言ったらいいかと逡巡していると、先輩が助け船を出してくれた。手を温めるように、ココアのカップを包んでうなずく。
「どうだろうな。初恋は女の先生だったんだけど」
「じゃあ、あいつが女みたいな顔してるからですか?」
 先輩は、うーんと唸ってコーヒーに口を付けた。
「それでも、女だと思ったことはないんだけどな」
 もし女だったとしても、好みからはかけ離れているのにと笑う。
「俺の好みって、ポチャッとした巨乳だし。でも、バレンタインにグンジにチョコ貰ったら、なんかすげぇ嬉しくなっちゃったんだよ。こいつ俺のこと好きなのかなと思ったら、女子にチョコ貰って告白された時よりドキドキして。ガリチビで高校生男子としちゃ気の毒だなとさえ思ってたのに、そういうところすら愛しく思えてきてさ」
 ああ、俺って、グンジのこと好きなのかな。
 すとんと、何かが腑に落ちるように、そう感じたと言う。
「あ、おまえ、男にバレンタインチョコ貰って本気にするなんて阿呆だと思ってるだろう」
 俺は想定外というよりも、規格外の展開に呆気に取られていただけだったのだが、先輩は「そう思ってる顔だ」と断定してきた。
「そっ、そんなことないっすよ! 他にも勘違いした奴いるし。そいつのには、署名の分かりにくいメッセージカードが入ってて……」
「うわ、マジか」
 先輩は、我がことのように、そいつのことを気の毒がった。それがきっかけで、そいつはメッセージカードの彼女と付き合うようになったのだから、奴にとっては結果的に美味しい話だったわけだが。さすがにそれが守田であることは、先輩には黙っておいた。
 ちなみに、先輩のチョコには、メッセージカードは入っていなかったらしい。
「でも、すごい手の込んだ手作りチョコだったんだよ。それを他の人には内緒でって渡されたら、勘違いもするってもんだろ」
「それ、ラッピングのリボンに造花が挿してあったやつですか」
「そう」
「うちのクラスの女子が、クラスの男子全員に配ったやつです。女子全員からだって」
 俺はさすがに先輩が気の毒になった。それはラッピングの歪さがなければ、どこの店で買ったのかと思うほど手の込んだ見栄えのチョコで、それでも味にはハンドメイドの素朴さが残る、クラス全員に配られていると知らなければほとんどの奴が勘違いしそうなチョコだったのだ。さすがのグンジも、相手は神と呼ばれる先輩だから、気を遣って評判の良いチョコを回したのだろう。
 俺は、グンジが人に流したチョコの残りを全部貰っていたのだが、そういえば、そのチョコは残っていなかった。
「んなもん、俺は知らねーもんよー」
「グンジの奴、チョコ苦手らしくて」
「それも知らねーもん。おまえ知ってたんなら言えよなー。おかげでえらい恥かいたよー」
「グンジのチョコ嫌いは知ってても、先輩がチョコ流されてるのは知らなかったから」
「そりゃそーだ」
 不貞腐れた子どものように口を尖らせていた先輩が、ぷっと笑顔になった。
「チョコくれた子に知られないようにって配慮だったんだろうけど、秘密にしてくれって言われて、誰にも言わなかったのは俺だしな」
 自業自得だと笑う先輩の口調は、言葉とは不釣り合いなくらいに自嘲の響きが微塵もなく、俺は失礼にあたるかもしれない疑問をするりと口にしていた。
「先輩は、どうしてそんなにオープンに話せるんですか? その、グンジのこと。今まで女の人が好きだったなら、悩んだりしなかったんですか?」
 嫌味とか、反抗的な口調にはなっていなかったと思う。俺は戸惑ってはいたが、不思議なくらい嫌悪感は湧いていなかった。それは、守田も「うちのクラスの女子よかずっと可愛い」と評していたグンジが相手だったからかもしれないし、こんなことで幻滅するほど、先輩への尊敬が薄くなかったからかもしれない。
 それよりも、本当は、走ることを断たれた時に悩まなかったのかと問いたかった。どうしてそんなに明るくいられるのか、落ち込んだならどうやって立ち直ったのか。
「そりゃ悩んだよ。慣れない勉強で、とうとう頭がイカレたのかとも考えた。でも、」
 先輩は言葉を探すように、コーヒーをひとくち飲んで続けた。
「でも、走れなくなったことに比べれば些細な悩みに思えたし、ダ・ヴィンチやカポーティもゲイだったんだよなと思ったら、自分も後世に残るような芸術の才能があるんじゃないかとか、何か偉業を成し遂げるんじゃないかと思えてきて、それはそれでいいかと思っちゃったんだよなぁ」
「え、ダ・ヴィンチって、『モナ・リザ』の人ですか?」
 カポーティは分からないが、そっちなら聞きおぼえがある。
「そうそう」
「ゲイだったんですか」
「らしいよ。俺もよくは知らないけど、入院中に読んだ本に書いてあった覚えがある。あれ? でも、ゲイじゃなくてバイだったかな」
 先輩は、まだ完全に脚が治ると信じていた頃、こんな機会でもないと読書なんてしないでしょ、と姉が持ってきてくれた本を、彼曰く「ちまちま」読んでいたという。
「ま、芸術方面の才能がないのは分かってるけどさ、俺みたいになった奴を治せる技術なら見つけられるかもしれないと思ったんだ。医学部はどこも落ちちゃったけどな」
 先輩は、地方の国立大学の生物学部に進学が決まっていた。
「本当は、私大でもいいから医学部に行って、そういう勉強がしたかったんだ。俺がもう陸上はできないって知って自暴自棄になってた時、本を持ってきた姉貴に『今まであんたはまったく勉強してなかったくせに、スポーツ推薦もない今の高校に入れて、留年もせずに来てるのはすごい。あんたが勉強すれば、自分の脚くらい自分で治せるんじゃないか』って言われてな、俺も単純だから、試しにやってみるかって」
「先輩でも自暴自棄になったんですか」
「なったなった。そりゃなったよ。生活に支障はないって言われても、こっちはいっぱしのアスリートのつもりだったんだからな。医者に怒鳴って看護師に怒鳴って親に怒鳴って、手に届く物は何でも投げつけて、記憶にはないけど、小学生の弟に『おまえの脚寄越せ』っつって、姉貴に引っ叩かれたらしい。事故の相手はムショに入ってたから良かったけど、あの時娑婆にいたら、どうにかして殺してたかもしれねーな」
 弟は怯えて、しばらく見舞いに来なかったそうだ。
「姉貴に言われてからだって、すぐに頭が切り替わったわけじゃないしな。だた、何もせずにいると脚のことばっか考えちまうから、じゃあとりあえず留年しないように勉強するかって。で、ギリギリだけど進級できて、そうしたら周りに奇跡だ天才だって褒めそやされたもんだから、その気になっちゃって」
 ほんと単純なんだよ俺は、と先輩は笑った。
「陸上もな、褒められたから始めて、褒められたから伸びたようなもん。俺をおだてりゃ空も飛ぶって、家族まで言ってるくらいでな。ギリでも国立大入れたのもさ、おまえらが神だなんだって俺のことありがたがってくれたからだよ。すげーって言われると、俺、自分でも不思議なくらい頑張れちゃうから」
 それでも、十分神だと俺は思った。褒められたり期待されたりしたからといって、どれだけの人間が、先輩ほどの努力と成果を上げられるだろうか。褒め言葉や期待をプレッシャーに感じず、力だけに変えてしまうのが、この人の真の才能なのかもしれない。
 先輩が頻繁に俺たちの指導にあたってくれていたのも、先輩を慕う俺たちの様子が、先輩に自分をすごい人間だと錯覚させることができたからだったという。純粋な親切心じゃなくてごめんな、と先輩は謝ってくれたが、少しでも先輩の役に立てていたのかと思うと、俺は嬉しかった。
「グンジはそういう、人を褒めるっていうか、おだてるの、本当に上手くてなぁ。普通、男はあんまり言わないような褒め言葉も平気で言うだろ。だから余計、俺に気があるのかと思っちゃったんだよ」
 俺は、「ちょっと分かります」とうなずいた。
 たしかにグンジには、そういうところがあった。さっきも知佳ちゃんのプレゼント選びに付き合ってやりながら、「どうしてこう気の利かないおまえに彼女ができて、俺にできないかね」と俺がぼやくと、「ほんとだよな」と真顔で応じてきた。嫌味かこの野郎と思ったら、「俺が女の子だったら、絶対俺より早瀬にするのに」と真剣な声音で続けられたので、俺は毒気を抜かれたのだ。
 その後も、からかうつもりで「木内先輩と俺だったら?」と訊いたら、少し考えて、「やっぱ早瀬かな」と言っていた。「木内先輩は優しいし頼りになるけど、早瀬といる方が楽しいし安心する」とも。
 男相手に真面目にそんなことを言っても、気持ち悪いと感じさせない雰囲気が、グンジにはあった。これは、言われた奴、みんながみんな同じ意見になるとは言い切れない。しかし、グンジにチョコを流されて誤解したもう一人の人間である守田も、困ってはいたが、嫌ではなさそうだった。
「でも、グンジには悪いことしたな。人に見られない場所を選んだつもりだったんだけど」
 先輩が、憂いを帯びた表情で、薄い唇を隠すように口許へ手を遣った。とびきりのイケメンというわけではないが、何かのポスターのように様になる。
「彼女に誤解されてたら俺のせいだ」
 あの噂は、本当にグンジ一人を標的にした嫌がらせだったのだろう。浦原さんは木内先輩を好きだった。そしてその気持ちは、先輩がゲイであると知ったくらいでは消えなかった。
 だから、男のくせに先輩に好かれ、あっさり振ったグンジに、報復をしたかったのかもしれない。グンジの方をホモに見せかけるような嘘をついたのも、二人の会話からグンジに彼女がいると知り、その相手とぎくしゃくしてしまえばいいと考えたからではないか。
 いや、そもそも、彼女は先輩がグンジを好きであるという事実すら、受け入れたくなかったのかもしれない。
 どのみち、人から人へと伝わる過程で、二人が付き合っている、という彼女にとって面白くないであろう方向へと話が変形していったのは、皮肉としか言いようがない。
「大丈夫ですよ。寮ではちょこちょこ話題になってるけど、彼女は隣の女子高だし、グンジはぼーっとしてるから、まだ噂のこと知らないみたいですよ」
 振られたのにグンジを気遣ってやっているお人好しな先輩が、なんだか気の毒になって、俺は嘘を吐いた。
「そうか」
 俺らの神様は、少しだけほっとしたように微笑んだ。






 月曜日の朝、俺がちんたら登校していると、バス停にグンジがいるのが見えた。バスに乗り込んだ知佳ちゃんに、笑顔で手を振っている。知佳ちゃんは俺に気付いたのか、グンジにではなく、俺の方に向けてVサインを送って来た。その顔が、少しだけ大人びて見えたのは気のせいだろうか。
「よう。うまくいったみたいだな」
 声を掛けると、グンジは人懐っこい笑みを浮かべて振り向いた。
「うん。早瀬のおかげだ」
 男にしてはふっくらとした唇が、微笑んだ形のまま礼の言葉を刻む。それを見ていると、下腹のあたりがざわざわしてきて、俺は目を逸らせた。
「そういやおまえ、カポーティって知ってるか?」
「トルーマン・カポーティのこと? 『ティファニーで朝食を』の原作者だろ。オードリーヘップバーン主演の」
「何で知ってんだよ」
「何でって言われても……」
 木内先輩と話したことがあるのではないかという考えが、頭を過ぎった。告白された時、俺が木内先輩にしたような質問を、こいつもしたのかもしれない。
「早瀬こそ何だよ、急に」
 グンジが訝しむように、唇を尖らせる。
「何でもいいだろ」
 俺は低い位置にあるグンジの頭を、鞄で小突いて走り出した。
 走りながらも、下腹のざわめきは続いていた。
 それが、とうとうグンジが俺より一歩先に進んだかもしれないことに対してなのか、それ以前に木内先輩にキスされていたことを知ってしまったからなのか、それともまた別の何かに端を発したものなのか、俺には分からなかった。






 その日を境に、知佳ちゃんは前よりも彼女らしく振る舞うようになった。そのせいもあってか、木内先輩とグンジの噂は、間もなく沈静化した。
 木内先輩は、三月末に無事免許を取得し、進学した大学のある地方へ旅立って行ったらしい。










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