消えゆく

 「何だ、こりゃ」
 朝の昇降口。俺は、自分の下駄箱の前で、白い息とともに素っ頓狂な声を上げた。
「落書き、だな」
 グンジが横から分かり切ったことを言う。
「んなもん、見りゃ分かるわ。俺が言ってんのは、なんで俺の下駄箱にこんなことが書いてあるのかってことだよ」
「そりゃ単なる悪戯か、本気のSOSのどっちかでしょ」
 グンジは腕を組んで推理とも呼べない当然の回答を述べると、感心したように口笛を鳴らした。
「しっかし、派手にやったなぁ」
 俺の下駄箱の蓋には、隣まではみ出しそうな勢いで『助けて』と大書されていた。






 その日俺は、あの落書きのことで頭がいっぱいだった。明後日から期末試験なのに、ちっとも勉強が頭に入らない。そうでなくても受験生だというのに。
 悪戯なら放っておけばいい。でも、本気で助けを求めているのだったらと思うと、おちおち授業などうけていられないのだ。
 昼休みに、購買のパンをかじりながらグンジにそう言うと、奴は弁当をつついていた箸を置いて、ヨヨヨと泣き真似をした。
「何の真似だ」
「だって早瀬、見ず知らずの他人には優しいのに、最近俺には冷たいもん。今日も泊めてくれないって言うし」
「っかーっ! 試験前だぞ! 家帰って勉強しろよ! おまえといい落書き犯といい、俺に明後日からの期末で赤取らせたいのか!」
「だって今日うち母親や兄貴たちいないんだもん。父親と二人だと晩酌とか付き合わされて試験勉強できないし。明日はまた雪が積もってそうだし。それに二人のが勉強はかどるじゃん。早瀬の苦手な不定積分教えるし」
「ぐっ、」
 俺は、悪意のなさそうな笑顔でブロッコリーを頬張るグンジを睨んだ。
 たしかに俺が赤を取りそうなのは数学だ。そして、グンジにレクチャーしてもらったら、前回の模試で飛躍的に順位が伸びていたのも数学だ。
 グンジのくせに、餌をちらつかせるなんて卑怯だ。
 歯をくいしばって許可を出しそうになる口を引き結んでいると、グンジが急に輝かんばかりの笑顔を上げて言った。
「じゃあさ、俺が今日中にあの落書き犯見つけ出したら、今晩寮に泊まってもいい?」
 グンジのくせに……と思いつつも、俺はその餌に飛びついてしまった。






 犯人を知りたいとは思っていたものの、実のところ、俺はあまりグンジに期待してはいなかった。タイムリミットは今日の六時。グンジはあの話をした後、昼休憩の間から犯人捜しに乗り出していたが、試験週間中で部活動も全面休止になる今、放課後までのわずかな休憩時間だけで犯人を特定できるとは到底思えなかった。
 だから、帰りのホームルームが終わるや否や、グンジが寮に行こうと言い出した時には、何を言うかと一喝した。
「おまえな、あの落書き犯捕まえないと、泊めないって言ってるだろ!」
「だからその犯人を捕まえに行くんだよ、ワトスンくん」
 グンジは涼しい顔で言い、さっさと教室を後にした。






 油性マジックで書かれた『助けて』の文字はまだ消えていない。俺はその下駄箱に上履きを放り込み、スニーカーを履いてグンジと一緒に寮に戻った。
 グンジは寮に入ると、迷わず階段を登りはじめた。しかし、三年である俺の部屋のある三階には向かわず、二階で足を止める。それから順に部屋の表札を見て回ると、奥から二番目のドアをノックした。陸上部の後輩だった江島晴太の部屋だ。過去形なのは、俺がもう引退しているから。
「ハルタ、帰ってるかー?」
 まさかこいつが犯人?
 俺は自分の目と耳を疑った。見間違い、聞き間違いでないのなら、グンジが思い違いをしているに違いない。
 ハルタは子どもみたいにすぐ泣く奴だが、根はたぶんそんなに弱い奴じゃない。
 ハルタがまだ一年生のころ、購買の前で恥ずかしげもなくポロポロと涙を零しているのを見るに見かねて声を掛けたら、悲愴な面持ちで腹が減って死にそうなのだと言っていた。しかし、金は? という問いには、あっけらかんとした顔で、
「ああ、それなら、さっき頭ツンツンの人に盗られました」
と答えた。
 カツアゲされたことよりも、昼飯が食えないことの方が大問題だと力説する新入生が面白くて、俺は金を貸してやった。するとハルタはまたポロポロと涙を流して、土下座しそうな勢いで頭を下げ、同じ寮だと分かるとその日のうちに金を返してきた。そして翌日には、俺の所属していた陸上部に入部してきた。
「先輩の後追ってきました!」
 なんてヘラヘラ笑って。
 その後は、何かあると俺を頼って来た。部屋にゴキブリが出たなんて些細なことから、ランニングシューズ購入にあたってのアドバイスまで。友人と殴り合いのケンカをしてしまったと、泣きながら部屋を訪ねてきたこともある。上級生の階に下級生が上がってくるなど、普通は呼び出された時しかあり得ない。その不文律を、ハルタは悪びれることもなく堂々と破ってみせたのだ。
 ハルタは、グンジとは別の意味で人懐こく、厚かましいのに憎めない奴だった。そして、グンジに輪をかけて、よく笑っていた。グンジの笑顔はどこか上辺だけに見えることがあるが、ハルタは違う。いつも心の底から笑い、魂を振り絞って泣いているようだった。グンジは泣かない。部活でハブにされていた時も、穏やかな笑みを浮かべていた。あれがハルタなら、泣きながら他の部員たちを問い詰めただろう。
 そんなハルタが、無言で下駄箱にメッセージを残すとは考えられなかった。ハルタは俺になら何でも口で相談できたはずだ。ましてや悪戯なんて、もっと考えられない。
「え、グンジ先輩? ……と、早瀬先輩」
 驚きの声を上げてドアを開けたハルタは、俺たち二人を見て、今にも泣きそうな表情を浮かべた。
「何で……」
「可愛い後輩を想うが故の愛の力」
 ハルタの呟きに、グンジはふざけた調子で胸を張った。
「なんてのは冗談だけど、早瀬が落書きのこと気にしてたのは本当。何か悩みがあるなら話してみろよ。俺がいると言いにくいなら、席外すからさ」
 グンジは少し背伸びして、自分より背の高いハルタの頭を優しく叩くと、俺をハルタの前に押し出して、階段の方へ戻って行った。背後でゆっくりと扉が閉まる。
 とりあえず上がっていいかと問うと、ハルタは無言で頷いた。いつもならどうぞどうぞと背中を押してくるのに、らしくない。
 俺は、部屋に置いてあったこたつに勝手に足を突っ込むと、ハルタにも座るよう促した。ハルタは自分の部屋であるにも関わらず、所在なさそうにうろうろしていたのだ。
「あの落書き、本当にハルタがやったのか?」
 ハルタが座ったのを見届けてから問いかける。信じられない気持はまだ大きかったが、ハルタの不自然な態度が、グンジの推理が正しいことを証明しているようにも思えた。
「そう思ったから、ここに来たんでしょ?」
「いや、グンジはそう思ってるみたいだけど、俺は確信があるわけじゃないんだ。でも、落書きのことは知ってるんだな」
 知らなければ、なんのことですかと訊き返してくるはずだ。ハルタはこくんと頷いた。
「はい。俺が書きました」
「なんで? 何かあったのか? 口じゃ言えないようなことか?」
 今度はふるふるとかぶりを振る。ハルタが頭を振ると、ポロポロと涙が散った。
「……俺、寂しくて」
「え?」
 思わず「そんなこと?」と言いそうになって、口を噤んだ。ハルタは簡単に泣く奴だが、簡単にあんな落書きをするような奴じゃない。よくよくのことがあるはずだ。
 グンジは寂しいなんて口にする奴じゃないが、俺は奴の躓いたことがあるものを参考に質問を重ねてみた。
「クラスや部活で、友達とうまくいってないとか?」
「ちが……」
「親と喧嘩でもしたか」
 もう声にならないのか、ハルタはしゃくりあげながらかぶりを振る。
「じゃあ、何で寂しいなんて……」
 この三つではないとすると、グンジでは参考にならない。寂しいというからには、人間関係なのだろう。奴が属していない人間の集団というと……。
「あ、寮の奴らとうまくいってないのか!?」
 同じ寮に住んでいても、違う階で起きている小さな小競り合いなど、あまり耳には入って来ない。特に俺らは今受験で頭がいっぱいだから、情報が閉じている可能性もある。俺は今度こそ当たりだろうと手を打った。
 しかし、ハルタはそれにもかぶりを振った。
「違う……。早瀬せんぱ……に、会えないから」
「俺?」
 ハルタはまた、子どものようにこくんと頷く。
「早瀬先輩引退して、最近は、全然クラブにも顔出してくんなくて。部屋に行こうかって考えもしたけど、受験勉強大変なのかなとか、今日もグンジ先輩来てるのかなって思ったら、それもできなくて。でも、受験終わって卒業しちゃったら、もっと会えなくなるって思ったら、どうしようもなく寂しくて苦しくて、も、どうしたらいいかわかんなくなって……」
「それで、『助けて』なんて書いたのか」
 ハルタはもう一度、力なく頷いた。
「なんだ、もっと深刻なことかと思ったら」
 俺は思わず笑ってしまった。俺に会えなくて寂しかったなんて、可愛いこと言ってくれるじゃないか。
「グンジが居ても、来りゃ良かったのに。おまえが遠慮なんてらしくもない。勉強が大変な時は大変だってこっちから追い出すから、ハルタが先回りして気遣いする必要ねーんだよ」
 寂しかったらいつでも来いよと頭に手を載せると、乱暴ににその手を払われた。
「グンジ先輩が来てる部屋になんて行けるわけないじゃないですか。俺は、先輩がグンジ先輩と仲良くしてるところなんて見たくない!」
 初めて見るハルタの激した様子に、俺は面食らった。
「なんで? ハルタだって、グンジとはよく喋ってたじゃねーか」
 ハルタがグンジを嫌っているとは考えにくい。グンジは二年の頃、部活で急に頭角を現し、追い越された俺たちクラブメイトに総スカンを喰らっていたことがある。そんな時でも、ハルタは積極的に話しかけていたのだ。
 そうでなくても、気のいいハルタが人を嫌うということ自体、俺には考えられなかった。
「先輩は判ってない! 先輩、グンジ先輩と気まずくなってから、ずっと調子崩してましたよね」
「え、そんなこと……」
「あります! 先輩、グンジ先輩が長距離に転向してから、故障こそしてないけど、全然タイム伸びてないんですよ。二年の五月に計ったのが最高で、喋らなくなった当初はガタ落ちしてたくらい。それって、先輩にとってグンジ先輩がすごく大きな存在だってことでしょう!?」
「そりゃ……ま、親友だし……。でも、タイムにまで影響するほどじゃねぇよ」
 総スカンからこっち一年くらいは喋らない時期が続いたが、別に俺の中でグンジの存在が消えていたわけではなかった。むしろ、消えないからこそ、話すに話せなくなっていたのだ。しかし、俺の調子とグンジのことは別問題だと思う。
「そりゃ、最初は多少影響してたかもしんねーけどさ。だいたい俺の最高記録が去年の五月だなんて、おまえよく覚えてたな」
 それだけじゃない。グンジと疎遠になり始めた頃の俺のタイムが急降下したことも。
 俺は少々感心して、パーカーの袖で涙を拭うハルタを見つめた。
「だって俺……ずっと、見てたから」
 ハルタは涙を拭っていた袖口で、そのまま顔を覆い、震える声で続けた。
「俺、初めて会った時から、早瀬先輩のことマジで好きだったから……」










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