消えゆく 02

 覚束ない足取りで階段を上っていると、踊り場で下って来た人物とぶつかった。いつもなら、かわすかよろける程度で済むのに、もろに壁に激突する俺を見て、相手が足を止めた。心配顔で覗き込んでくる。
「早瀬? どうした、ぼーっとして」
「……義成か。うん、ちょっと」
 義成も同じ陸上部に所属していた三年だ。俺と同じようにタイムで伸び悩み、それでも諦めきれず、これまた俺と同じように陸上の強い大学を狙っている。
「今日もグンジ来てるみたいだけど、部屋主がこんなとこで何やってんだよ」
「さすが義成。グンジの動向はお見通しか」
 嘆息した途端、義成の表情が一転、険しい目で睨まれた。
「すまん! 今のは俺が悪かった! 嫌味言うつもりじゃなかったんだ! ほんと、マジごめんって!」
 そのまま階段を下りて行こうとする義成の腕を縋るように掴む。
 義成は、うちの部のエースだったグンジに、憧れ以上の感情を抱いているのだ。たぶん、ハルタが俺に感じているのと同じ種類の愛情を。






 「すいません! こんな時期にこんなこと言うつもりじゃなかったんだけど。迷惑掛けるだけだって分かってるし。だから精一杯のブレーキのつもりで落書きに止めたのに、先輩犯人捜して来ちゃうし、全然分かってないし。知られない方がいいって分かってるのに、もう我慢できなくて」
 何度も謝りながら、そして再び泣きじゃくりながら訴えるハルタを、何の冗談だと笑い飛ばすことなどできなかった。しかし、いくら真摯な訴えでも、その気持ちに応えることもまた、俺にはできるはずがなかった。
 怖い。
 必死に謝罪を繰り返すハルタが、実は俺よりも身長が高くなっていることに気付いた時、真っ先に浮かんだ感情は恐怖だった。
 ハルタは我慢ができなくなったと言う。では、今ここでハルタが理性を失ったら。出て行こうとして腕を引かれたら。学年の垣根など軽々と飛び越えるハルタ相手に、先輩の権力なんてものがどこまで通用するのか。百八十は裕に超えているこいつに、俺は力で敵うのか。
 俺の想像は飛躍しすぎている。こんなことしか浮かばないのは先週原口の部屋でやったアダルトビデオ鑑賞会のせいだ。盛りのついた思春期未経験の俺にはちと刺激が強過ぎたのだ。あれはベタなドラマで実際にあるわけじゃないと分かっていても、告白されたその場で押し倒される女優の悲鳴が聞こえてくる。あの場面を十四インチの映りの悪いテレビで見た時には、俺の息子は思い切り興奮していたのに、今や恐怖に震えが来そうだ。
 いやいや、ちょっと待て。ハルタはビデオの男優のように卑怯じゃないし、俺はあんな細っこい女じゃない。でも、ハルタは女を見る感覚で俺を好きだと言っている。とすると、俺なんて百八十超えしてるハルタから見れば、そこいらの女子と大して変わらないのかもしれない。身長百八十超えの世界では、百五十も百七十も大した差ではないのかも……。困る。それは非常に困る。
 考えるべきことはもっと他にあると分かっているのに、恐怖ばかりが増大していく。
 縮みあがった俺は、先輩としての威厳も後輩への思慮も、そして好意を寄せてくれた人間への配慮も忘れて自己保身に走った。
「俺、そういうの無理!」
 子どものように叫んだ俺に対し、ハルタは大人だった。
「そう……ですよね。うん、俺、分かってたから。だから言うつもりなかったんですけど。すいません」
 ハルタは涙で顔をぐちゃぐちゃにしながらも、傷ついた顔を笑顔につくりかえようと必死になっていた。それが俺に罪悪感を抱かせないためだったことに思い当ったのは、ハルタの部屋を出た後だった。好きになってくれたことへの礼も、応えられないことへの謝罪も言わないままだと気付いたのも。
 ドアノブを回す手が震えていた。階段を上る足がよろけていた。人に好意を寄せられて恐怖を感じたのは、初めてだった。






 コーラとコーンポタージュと炭焼コーヒー。自販機のボタンを三つ同時に押して出てきたのは、コーラだった。
「さっすがコカ・コーラの自動販売機。でも、俺が欲しいのはコンポタなんだよな」
 すっかり機嫌の直った義成が、コーンポタージュのボタンを押す。がっこんと派手な音を立てて落ちてきたそれを掴んで、彼はごちそーさんと微笑んだ。続けて俺が、コーヒーのボタンを押す。コーラは俺で、コーヒーは部屋で待っているらしいグンジの分だ。
「で、何だよ?」
 自販機の横にあるバスの時刻表を眺めながら、義成が缶のプルトップを引く。さっき行ったばかりのバスは、あと三十分は来ない予定になっている。
「何か人前で言えない用があったから、寮のじゃなくて、こんなとこの自販機まで引っ張って来たんだろ」
「うっ、よく分かるな……」
 俺の浅はかな思考など、バレバレだったらしい。俺もコーラの缶を開けて、ひと気のないバス停のベンチに腰掛けた。
 階段で義成の腕を掴んだ俺は平謝りに謝り、お詫びにジュースを奢るからと言って、バス停の自販機へ連れてきたのだ。
「男に告白でもされたか」
「へっ!?」
 どこまでバレてるんだ!? 俺はコーラを噴きそうになった。それを見て、義成は噴き出しそうになったらしい。肩を震わせて口元を押さえる。
「早瀬って分かりやすいなー。カマかけただけだよ。今日の早瀬、明らかにおかしいし、階段で俺にあんな嫌味言うし」
 ――さすが義成。グンジのことはお見通しか。
「悪い。あれは……」
「いいんだ。そういう目で見られることは覚悟で話したはずだったんだから。やっぱ気持ち悪いよな。学校だけじゃない、同じ寮に住んでもいるわけだし」
「俺、義成をそんな風に見てるつもりねーよ。相手がグンジじゃしょーがねーっつーか。あいつ、今は女っぽいわけじゃねーけど一年の時は女子みたいだったし、昔、先輩たちがチラッとそんな話してたのも聞いたことあるし」
「先輩たちが?」
 義成が肩眉を上げる。その表情に憤怒を感じて、俺は下を向いた。
「ああ、この世に倫理のブタ原とグンジしかいなくなったらグンジに走る、みたいな話」
 言うだけ言って、思い切りコーラを煽る。咽喉で、炭酸が痛いほど弾けた。
「ふうん」
 義成の相槌にはどこか冷たさが漂っていて、俺はハルタに感じたのとは別の種類の恐怖を覚えた。ランニングシューズのつま先を見つめながら、早口で付け加える。
「だから、その、とにかく軽蔑なんてしてねーよ! してたら相談しようなんて思わねー!!」
 それに俺はたぶん、義成を軽蔑できるような立場じゃない。
 後から考えれば、義成のあの態度は、俺が彼を軽蔑しているかどうかよりも、俺がグンジをどう見ているかに向けられていたのだろう。俺の中のもやもやとしたものを、義成は俺よりも敏感に感じとっていたのかもしれない。しかし、その時の俺には前者を疑っての怒りとしか考えられなかった。それが却ってよかったのか。
「あのさ、人の気持ちなんてそれぞれだから、俺のことを聞いたって、早瀬に告って来た奴の考えが分かるわけじゃないと思うぜ。俺だって男好きになったの初めてだし、周りにもそんな奴いないし」
 義成は元の調子に戻って、ベンチの空いている方へ腰掛けた。
「それでもいいなら、相談乗るけど」
「サンキュ」
 身を切るような北風に、雪が混じって吹きすぎて行く。俺は冷たい飲み物を買ってしまったことを後悔しながら、コーラを飲み干して口火を切った。
「義成はさ、この先どうするつもりなんだ? その、グンジのこと」
「忘れるつもりだけど」
 たどたどしく発した俺の質問に、義成はあっさりと答えた。
「告白とかしねーのか?」
「しねーよ。先がないの目に見えてるし、あいつに軽蔑されたらそれこそ生きてけねー。だから早瀬に、あいつにだけは言わないでくれって頼んだんじゃないか」
「そっか」
 俺はさっき、ハルタの前でどんな表情をしていたのだろう。困惑、驚愕、恐怖。軽蔑の色が少しも滲んでいなかったと言い切れないことに、後悔の念が募る。
 俺はコーラの空き缶を屑かごに投げ、コートのポケットに入れていたグンジの分のコーヒーを包んで手を温めた。義成も、コーンポタージュの缶を大事そうに両手で握り込んでいる。
「……忘れ、られるのか」
「さぁな。でも、これから卒業して顔見ることもなくなれば、忘れられるかなーっと。時間薬ってやつ? 普通の失恋と変わんねーよ」
「俺が卒業したら、俺に告って来た奴も忘れられるかな」
「そいつと志望校違うのか?」
「年下」
「おおー! 早瀬先輩はモテますねー!」
「ちゃかすなよ!」










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