消えゆく 03

 持っていたコーヒー缶で殴る真似をする俺を片手で制し、義成はコーンポタージュを持った手を拝むように顔の前に立たせた。
「悪い悪い。だって、早瀬からかうのおもしれーんだもん。グンジがおまえにひっついてんのもなんか分かるわ。面倒見良くて反応が面白れーなんて、告って来た奴もツボだったんだろな」
「なんでそこでグンジが出てくんだよ!? しかもツボってなんだよ、俺はコントのネタか!」
「そう怒んなって。褒めてんだよ。や、羨ましいのかな。俺の場合、早瀬みたく懐かれたら、却って困るだろうけど」
 からかい口調から一転、寂しそうにそう言われて、二の句が継げなくなる。ハルタに言ったことがどれだけ残酷だったか、思い知らされるようだ。
 だから泊めたくないんだよと心の中でグンジに愚痴るが、当人に聞こえるはずもない。
 義成は首を反らせて逆さにした缶からコーンを落としていたが、やがて諦めたのか、俺に倣うように屑籠へそれを放った。缶は縁に弾かれながらも、なんとか籠の中に収まっていく。
「ま、そいつも追って来なきゃ忘れられるだろ。人は忘れる生き物だって、ミスチルもアユも歌ってるし」
 義成は存外明るく言った。でも、他人事のような言い方とはうらはらに、その発言には彼自身の願望が混じっているように感じられた。
 俺の手の中では、コーヒーがじわじわとぬるくなっていく。人の熱もこの手で冷ますことができるなら、俺はこの手で義成やハルタを包み、その熱を取り去るのに。
「さみーっ! そろそろ帰らね?」
 肩を抱くようにして立ちあがる義成のウィンドブレーカーが、風を受けて膨らむ。俺も荷物を持って立ち上がり、義成の横に並んだ。






 部屋に帰るとカメがいた。甲羅の代わりにこたつを背負い、頭だけ出してうたた寝している。俺はその頭を蹴って目覚めさせると、すっかり冷めてしまった炭焼コーヒーを突き出して言った。
「これをやるから今日は帰れ」
「やだ。眠いし寒い。つーかコレ、冷めてんじゃん」
 ちょこっと缶に触れただけで、グンジは再びこたつに手を引っ込めた。座布団を枕に壁の方を向き、長い睫毛を伏せて寝る体制に戻る。柔らかそうな肌の上を、さらさらと髪の毛が流れた。
「そこで寝てっと襲うぞ」
「何、そういう用事だったわけ?」
 グンジは目を閉じたまま、さして興味もなさそうな言い方をしたが、俺は飛び上がりそうになった。なんでこいつにまでバレるんだ!?
「そういうっていうか、何ていうか……。俺ってそんなに分かりやすいか?」
 思わず枕元に正座して訊いてしまう。グンジは億劫そうに目を開けると、ごろりと仰向けになって俺を見上げた。
「そうやって答えに詰まるから、早瀬はすぐにバレるんだよ」
「うっ、」
「誰かにバレたのか?」
「義成に。ここに戻る途中でばったり会って。相手がハルタだってことはバレてねーけど」
「義成なら口外したりしないでしょ」
 大丈夫だよと眠たげながらも柔和な笑みを浮かべるグンジに、落ち着かない気分になる。その信頼感はどこから来るのか、義成がおまえにどんな感情を抱いているのか知ってもそうやっていられるのかと問い質したい。このまま唇を塞ぎ、その笑顔を凍りつかせ、これが義成の考えていることだと知らしめてみたい。
 俺はコーヒーの缶を握りしめ、別の質問をすることでその衝動を堪えた。
「どうして落書き犯がハルタだって判ったんだ?」
「ああ、それなら……」
 グンジは再び壁の方へ寝返りを打ち、目を閉じて答える。
「文字だよ」
「あの落書きの?」
「そう。あれ見た時、どっかで見た筆跡だと思ったんだ。犯人が先生ならともかく、俺が他の生徒の字を目にする機会なんて限られてるだろ。それで、学級日誌とクラブ日誌を片っ端から繰ってみたわけ」
 学級日誌は日直が、クラブ日誌は一年から三年までが持ち回りで書くことになっている。
「学級日誌の方は他の人のまで目を通すことないから、クラブ日誌で見た文字だろうって当たりはつけてたんだけどさ。早瀬は部活の後輩に人徳あるし」
「んなもんねーよ!」
 計らずも、大きな声が出た。びっくりしたのか、グンジが目を開けてこちらを振り返る。今度はちゃんと肘をつき、上体だけ起こして俺を見た。
「俺、ハルタのこと傷つけたかもしんねー。無理って、それしか言えなかった。それでもハルタは俺のこと気遣って笑おうとしてたのに、俺、怖くて。女を好きになるみたいな意味で好きだって言われたら、怖くなってごめんの一言も言えなかった……」
 情けない。不甲斐ない。可愛がってきた後輩のはずなのに、こんな時に限って慮ってやれない。こんな奴のどこがいいのか。俺は慕われるべき人間じゃない。ハルタは間違ってる。こんな俺にグンジのことを打ち明けてきた義成も、泊めてくれと頼ってくるグンジも。
「義成は、俺が卒業して会うことがなくなれば忘れるだろうって言った。でも、本当にそう思うか? 二年も想い続けてたのを、すぐ忘れられると思うか?」
 グンジはもぞもぞとこたつから這い出して来ると、俺が膝の上で握っていたコーヒーに手を伸ばしてきた。
「忘れるよ」
 俺の手から、するりとコーヒーの缶を取り上げる。
「二年だろうが三年だろうが十年だろうが、何年想い続けてても、離れれば忘れる。気持ちなんて消えていく。義成の言う通りだよ」
 グンジは俺と向かい合う形で座り、コーヒーの缶を手の中で転がしていたが、やがてぴたりと動きを止めると、缶に落とすように呟いた。
「そうじゃなきゃ困る」
 そしてくるりと向きを変えると、壁際に置いていた鞄をひっぱって、こたつ机の上に出していたテキスト類を仕舞い始めた。ついでのように、コーヒーを中に突っ込む。
「これ、貰っとくな。まだバスあるし、やっぱ今日は帰るよ。早瀬に襲われたんじゃ、ここに泊まる意味ないし」
「なっ、どういう意味だよ」
 自分で言った言葉だが、なんとなく生々しく聞こえて赤面してしまう。ひょっとして、こいつは知っているのだろうか。義成の気持ちも、時々俺を襲う衝動も。
 しかし、俺に比べて、グンジはからりとしたものだった。
「ここにいても試験勉強できないのは同じって意味だよ。早瀬、今日はそれどころじゃないだろ」
「なっ? そんな時こそ一緒にいてやろうとか思わないわけ!?」
「帰れっつったの早瀬じゃん。一人になりたいのかと思って、俺なりに配慮しようとしてんだけど。何? ひょっとしてハルタが襲って来るんじゃないかって怖い? なら一緒にいてやろうか?」
 ニヤニヤと流し目を寄越してくるグンジに、怖いわけあるか馬鹿! と一喝。帰れ帰れと手を振ると、奴はそうするよと微笑んだ。何故かその笑顔が痛々しく見えて、思わず前言撤回しそうになる。いいよ、やっぱここにいろよ。好きなだけ泊まってけばいいから。
 俺が言いあぐねている間に、グンジが鞄のファスナーを閉めてこちらに向き直り、口を開いた。
「でもさ早瀬、俺、付き合ってた女の子の合意なしでセックスしたいと思ったことないんだ」
「何だよ、急に」
 グンジを含めて猥談の類をしたことは何度もある。しかし、二人きりで、しかもグンジ自身の口からセックスなんて単語を聞いたのは初めてだったような気がして、俺は面食らった。
「うん、俺が淡白なのかもしれないし、どっかに欠陥があるのかもしんない。けど、とにかく俺、相手がその気になってもいないのに、そういうことしたいと思ったことないんだ」
 赤面しているであろう俺を前に、グンジは淡々と続ける。
「まぁ俺のことは別にしても、相手のことを大事に想ったり、相手に嫌われたくないって気持ちがあったりしたら、その人の嫌がるようなことをいきなりするってことはないと思う。もちろん、例外もいるだろうけど」
 グンジの言うことは、もっともだと思えた。義成がグンジに告る気がないと言ったのも、ハルタが俺に何も言わないつもりだったのも、そういう気持ちがあるからこそなのだろう。
 グンジは俺の考えを肯定するように莞爾と笑うと、俺に向かって右手を突き出してきた。
「だけど、少なくともハルタはそうなんじゃないかな。それでも怖いなら、やり返すって手もあると思うよ?」
 グンジの手には、黒の油性ペンが握られていた。






 翌日、朝のジョッグに出た俺は、学校の昇降口まで足を延ばして、ハルタの下駄箱の蓋に汚い文字で落書きをした。どうせ俺はチキンだ。笑ってくれて構わない。
「ごめん。ありがとうな」
 拙い文字を指で辿りながら書いた文言を呟けば、指に黒いインクが滲んだ。針のような空気が火照った顔を刺す。
 俺の書いた謝罪も礼も、ハルタのSOSも、まだ目に痛いほど鮮やかだ。これらの文字が薄れて消えていく頃、俺たちが今感じているこの気持ちも、風化していくのだろうか。
 文字も心も、少しずつ輪郭を失って判読できないくらい剥落して。最後には跡形もなく消えてなくなってしまえばいい。
 そう思った。










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