冷たい手 01

 ガタガタと、風が窓ガラスを震わせる音で目が覚めた。枕元の目覚まし時計は、まだ寝てから二時間も経っていない時刻を指している。風は窓ガラスを割ろうとでもしているのか、獣の咆哮を思わせる音をうねらせて、建物に吹き付けている。
 俺はなんとなく心細くなり、布団の上に掛けていた半纏を掴んでそっと起き出した。畳を踏みしめる素足が、急速に冷えていくのを感じる。それもそのはず、袖に腕を通しながら窓の外を窺うと、細い線を描いて粉雪が舞っていた。
 それで思い出した。これは夢だ。寒くなると、寂しくなると、よく見ていた昔の記憶。



 久々に見る、あの夢だ。






 俺は幼い頃から、あまり女性というものに縁がなかったように思う。彼女ができないとか、女友達がいないとかそういうことではない(彼女は人並みにいたし、女友達と呼べる奴もいないわけではない)。女性そのものよりも、母性と呼ばれるものに縁が薄いのだ。
 俺の母親という人からして、そもそも母性の薄い人だったのかもしれない。俺がまだ小学生の頃にアッサリ家出。当人にとってはアッサリではなかったらしいが、俺と縁が薄かったことに変わりはないだろう。
 その後、俺が中学に上がる頃から、親父はちょこちょこと女を連れ込んでいたが、どいつもこいつも「私は一生女であり続けます!」というような女ばかりで(きっと、親父の趣味がそういうのなんだろう)、それはそれで今なら惹かれるものがあるのだが、瘤つきの瘤でしかなかった当時は、訴えかけるものがなくて少々居心地が悪かった。
 ところで、普通男所帯になると、親戚のおばさんとか、どっちかの祖母なんかが子供の世話をしてくれに来てくれるものらしい。しかし、もっと幼い頃に両方の祖母が亡くなっていたうちの場合、俺の面倒を看に来てくれたのは、親父の親父。つまり、父方の祖父という、これまた母性の持ち合わせのない人物だった。
 それでも、早くに連れ合いを亡くし、長年一人暮らしをしていた祖父は、そこそこの物を作って食わせてくれ、ぎこちないながらも俺を精一杯可愛がってくれた。祖父がうちにいたのは一年ちょっとという短い間だったが、俺はこの間に、それまであまり印象になかった祖父を大好きになったような気がする。
 両親からは、祖父は怖い人で、父は体罰も当たり前の環境で育ったと聞いていたが、俺に対する祖父はいつも優しく、この人が怒るなんて考えられないと思うほどだった。
 反対に親父はすぐ手を挙げる人で、俺は何度殴られたか分からない。体罰と大騒ぎするほどではないと思うが、歯までは折れなくとも、頬が腫れたことは何度もある。その度に祖父は冷たいタオルを俺の頬に押し当てて、泣きじゃくる俺に何で怒られたのかと、時に優しく、時に呆れたように訊いてきた。
「今日はまた、何で怒られたんな?」
「か、傘で遊んでて、え、柄が、折れたから」
「そりゃあ、怒られてもしょうがないな。でも、ここまでぶつことはないよなぁ」
「で、でしょ?」
「でも、あれが親なんじゃから、しょうがないな」
「だったらじいちゃん、父さん怒ってよ。じいちゃん、父さんの父さんでしょ? 父さんの親じゃん。俺のことぶつなって怒ってよ」
「ははは。そうはいかん。わしも今はお父さんの家で世話になっとるからの」
 世話してんの、じいちゃんの方じゃん。そう思ったけど、俺は祖父が父に楯突いて殴られたらと思うと、それ以上は言えなかった。
 しかし、祖父が昔、体罰も当たり前の子育てをしていたというのは事実だったようで、俺は父だけでなく、伯父達の体験談を祖父の通夜の席で聞いて、腰を抜かすことになる。
 叔母は柱に紐で括り付けられて叩かれたと言い、叔父達は背中に残った痣を披露。血の気の多かった祖父は、晩御飯のおかずが気に入らないと、窓ガラスを素手で割ったこともあったらしい。
「母さん、よく離婚しなかったよねぇ」
「時代が時代だったからな。今ならDVで捕まってるだろ」
「俺らもよく殴られたしなぁ。はっはっは」
「あら、孫にだって容赦なかったわよ。うちの篤子も小さい頃お風呂場に閉じ込められたのよ。玄関の花瓶割って」
 夜食の寿司をつまみながら展開される大人たちの会話を、俺は信じられない思いで聞いていた。
 俺も孫だが、怒鳴られたこともなければ、風呂場に閉じ込められたこともない。押入れに入れられればこっそり出してくれ、外に締め出されれば勝手口からそっと入れてくれる。それが俺の中の祖父だった。
「篤子姉ちゃん、じいちゃんて、そんなに怖かったの?」
 年の離れた従姉の袖を引っ張って問うと、神妙な顔で怖かったよと返された。
「年取ってから丸くなったけどね。そういえば、一昨年肺に水が溜まってからじゃない?何しても怒らなくなったの」
「面倒看てもらわなきゃいけないっていう引け目ができたからだろ」
 叔父が鮪の握りをつまみながら口を挟んだ。
「シュンの面倒みに兄貴の家に入ってからだって、梗塞で一度入院したしな」
「あの時は肝冷やしたよ。帰ったらじいさんが泡噴いてるんだもんよ」
「でも、シュンくんには甘かったよね、おじいちゃん」
「うちのかみさんが出てったからか。それか年取ってからの孫だったから、何か思うところがあったんだろ。篤子ちゃんはお母さん子で祖父さんに懐かなかったしな」
 俺の頭を撫でる従姉の背中を、親父は二、三度ポンポンと叩き、ひひひと笑って祭壇のある部屋へ移動していった。
 父が女を家に連れてくるようになったのは、この半年ほど後のことである。




 祖父の中で俺がどういう位置づけだったのか、正確なところは分からない。親戚連中に言わせれば、母親が出て行く前から、俺には格別甘かったそうだ。とはいえ、それは俺が離れた所に住んでいて、たまにしか会うことがなかったせいかもしれず、篤子姉のように小さな頃からずっと近くに住んでいたら、やはり怒鳴られたり閉じ込められたりしていたのかもしれない。
 ただ、うちの母親がいなくなってからの祖父は、どんなに自分の具合が悪くても、俺が頼れば快く懐を開けてくれた。
 あの雪の日のように。






 風の咆哮に耐え切れなくなった俺は、自室を出て階下にある祖父の部屋へ向かった。「じいちゃん」と声を掛けながら襖を開けると、祖父は布団から身を起こして、苦しそうに胸を押さえていた。
「じいちゃん、どうしたの?」
 開けた襖もそのままに、祖父の元に駆け寄る。
「なんでもない。ちっと寒さが堪えただけだ」
 祖父の息は荒かったが、喋る声はしっかりしていて、俺は安心した。
「俊平こそどうした? 風の音が怖くなったか」
「そ、んなことないけど・・・・・・」
「ははは。怖くないなら、すまんがちょっと水を持ってきてくれんか。そうしたら寒いから、一緒に寝よう」
「うん」
 祖父はああ言ったが、彼には俺の本心なんてお見通しだった。ただ、いつもならトイレでも台所でもついてきてくれていたのに、この日だけは違った。それでも、本当は一人で寝るのが怖かった俺は、すぐに台所に水を取りに走った。その水が何を意味するのかを知ったのは、何年も経ってからだ。
 祖父は俺がコップに汲んできた水を一口飲み、残りに指を浸して唇を湿すと、さぁ寝ようかと布団を開けて俺を入れてくれた。俺は電気の紐を引っ張って、部屋を真っ暗にして祖父の隣に滑り込んだ。しかし、部屋が暗くなると、途端に風の音が大きく感じられる。
「じいちゃん、手、繋いでいい?」
「ははは。俊平はいつまで経っても甘ちゃんじゃのう」
 祖父は渇いた声で笑ったが、手はしっかりと握ってくれた。すっかり痩せさらばえた無骨な手に、まだ頼りない俺の手が包まれる。祖父の手は、水に指をつけたせいか、少し冷たかった。
「じいちゃん、明日の朝は俺がみそ汁作るよ。もう一人でできるようになったよ」
 風の音が気にならなくなると、祖父の息の荒いのが気になった。俺は気遣うつもりで言ったのだが、祖父はそうかと言って、ふふふと笑っただけだった。
 また、風の音と祖父の荒い息遣いが部屋を支配する。
「俊平」
 しばらくして、祖父がポツリと呼びかけてきた。
「うん?」
「ありがとうな」
「うん」
 俺はみそ汁のことだと思い、満足して頷いた。




 翌朝俺が目覚めた時、祖父は息をしていなかった。
 苦しんだ様子はなかったものの、祖父の顔はどこか気が抜けているようで、普通でないことはすぐに分かった。いつもより鼻の穴が大きく開いているように見え、きっと鼻の穴から魂が出て行ったのだろうと思ったことを、鮮明に憶えている。





 世界は砂糖をまぶしたチョコレート菓子のように薄っすらと、雪を纏っていた。








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