冷たい手 02

 あの朝、祖父の手は、まだほんのりと温かかった。しかし、今日の夢は少し違うようだ。雪にでも包まれているかのように冷たい。傍らに眠る祖父は、とっくに冷たく固まってしまっているのだろうか。それにしては、手はまだ柔らかさを保っているように感じるのだが。
「じいちゃん・・・・・・」
 目を瞑ったまま、確かめるように空いた右手を伸ばす。と、その手が探り当てたのは、祖父にはないはずのふさふさの髪の毛だった。
「れ?」
 違和感に目を開けると、眼前にはシワシワの祖父の死に顔ではなく、おそろしく整った、まだつるつるした肌の同居人の寝顔。もちろん息はしているらしく、顔に垂れた髪の毛が、彼の寝息で膨らんだり張り付いたりしている。でも、俺の手を包む手は氷のように冷たくて。
 真冬ではないとはいえ、よくこんな手で眠れるな。
 俺はその手を温めようと右手を重ねかけて、慌てて両方の手を引っ込めた。
 何をしようとしてたんだ、俺は。いや、温めようとしただけなんだけども。
 そんな自問自答をしていると、俺が急に手を引っこ抜いたせいか、同居人が空いた手をもぞもぞさせて目を覚ました。長い睫毛が重たげに押し上げられる。
「あ。おはよ、俊平くん。気分どう?」
「き、気分て・・・・・・、何で中戸さんが俺の部屋で寝てんですか!?」
 そう。ここは祖父の部屋ではなく俺の部屋。しかも、あの時使っていた実家の子供部屋ではなく、大学進学に合わせてやってきた地方都市のマンションの一室。いつの間にか、夢ではなく現実に戻ってきていたらしい。
 同居人である中戸さんは、俺の隣に敷いてある布団の上に身を起こして、まだ開ききらない目を擦った。気だるげに横座りしているのが、男なのに妙に色っぽくて、視線を彷徨わせてしまう。
「何でって、三日前からここで寝てるけど?」
「三日前!?」
「俊平くんの熱、なかなか下がんないんだもん。薬飲まないからだよ。喉渇いてない? 何か飲むもん持って来ようか?」
「熱?」
 そういえば俺の布団には、枕ではなくアイスノンが置いてある。そして額には、ペタッと貼るタイプの冷却シート。中戸さんの背後では、俺のものではない加湿器が作動していた。
 茫然としたまま冷却シートの上から額に手を当てていると、向かいからにゅっと腕が伸びてきた。冷たい両手が軽くリンパの辺りを押さえ、俺の首を両側から包み込む。
「良かった。だいぶ下がったみたいだね。顔はまだ赤いけど。何か食べる? レトルトのお粥ならあるけど」
「・・・・・・飲み物、だけで」
 俺は顔を覗きこんでくる中戸さんから逃れるように、俯いて応えた。顔が火照るのが体調のせいだけでないことは分かりきっている。今や中戸さんの両手は俺の頬を包んでいて。心配げな顔は、少し視線を上げれば、下睫毛の生え際まで見えるほどすぐ間近に迫っていて。男とはいえ、中戸さんはすこぶるきれいな顔立ちをしているのだ。こんなことされれば赤くもなるってもんだろう。
 中戸さんは分かったと言ってにっこり笑うと、すっと俺から離れて部屋を出て行った。
 その後姿で思い出す。俺は季節外れのインフルエンザに罹って、何日も寝込んでいたのだ。高熱が出ていた間の俺は、妙に不安で心細くなっていて、部屋を出て行く彼に、何度も行かないでくれとせがんだような気がする。
 そこまで思い出して冷静に冷や汗を掛けるようになった俺は、確実に快復しているのだろう。しかし。
 うわぁ。どうするよ、俺? なんかいろいろ変なこと言わなかったか!?
 ひとしきり頭を抱え、とりあえず全部熱のせいにしておこうと決めたところで、中戸さんがポカリと着替えを持って戻ってきた。
「上着てないとだめだよ。今日気温低いから身体冷えちゃう。三月初旬並みだって。それと、汗いっぱいかいてるから、飲んだらこれに着替えて」
 そう言いながら、パーカーを背中に掛けてくれる。
「中戸さんこそ、手、冷たい。死人でももっとあったかい手してましたよ」
 ポカリを受け取りながら反論すると、ちょっとぎょっとされた。
「死人の手、触ったことあるの?」
「昔、祖父が亡くなった時に」
「ああ、お祖父さんが」
「祖父が息を引き取った時、俺、隣で寝てたんです。手、握って。だからってわけじゃないけど、俺が死に水運んだ形になっちゃって」
 祖父はあの時、自分の最期を悟っていたのだろう。彼は自分で自分の死に水を取ったのだ。
「ごめん。何か探すみたいに手が動いてたから握ってて、なんかそのまま寝ちゃったみたいなんだけど、却って辛いこと思い出させちゃったみたいで悪かったね」
「いえ、そんなに嫌な思い出じゃないから」
「そう?」
 不思議そうに首を傾げる中戸さんに、俺はポカリを飲んで頷いた。
 周囲の大人はトラウマにでもなるんじゃないかと心配したようだったが、俺はあの時、隣で手を繋いでいて良かったと思ったし、今でも思っている。隣にいながら気付いてあげることができなかったという無念はあるが、それでも決して一人で逝かせることはなかったのだという安堵の方が大きい。
「なんだったら、中戸さんの死に水は俺が取りますよ」
 何気なく言って、すぐに失態に気付いた。我ながらなんて縁起の悪いことを。これでは中戸さんが早死にするみたいではないか。
 しかし、てっきり嫌な顔をするだろうという予想に反して、中戸さんは真っ赤になって笑い出した。
「死に水って・・・・・・、年寄りのプロポーズみたい」
「プっ!? いやあの、そういう意味じゃなくて!」
 これは、嫌悪感を持たれなかったみたいで良かったなんて息をつける状況じゃない。俺は再び熱が上がってくるのを感じつつ、必死になって弁解した。
 よほどツボにはまったらしい。中戸さんは腹を抱えながら、「分かってる」と頷いた。
「分かってる分かってる。でも、そういうセリフは、七十から八十過ぎの人を口説く時に使うもんだよ。同居を持ちかける時とかも使うかもしんないけど。俊平くんて時々、素で面白いこと言うよね」
「だって中戸さん、結婚しないとか言ってたから、最期に一人だったら寂しいかと思って」
「俊平くんは優しいね。じゃあ、お言葉に甘えて。その時まで交流があればお願いします」
 俺がぶっきら棒に言うと、中戸さんはかしこまってお辞儀した。笑いを堪えるように唇を引き結んで。
「べ、別に優しくなんか・・・・・・」
 優しいどころかやましい。俺は、その唇に水に浸した筆を滑らせる様を想像し、不謹慎にも、あまりのエロさに仰け反りそうになっていたのだ。男の中戸さん相手に何を考えてるんだと自分で自分を叱咤するが、顔が火照るのは止められない。
 悟られないよう、そっぽを向いてぶすっとしていると、再び腹を抱えていた中戸さんが、笑い止めてポツリと言った。
「でも良かった。熱が下がって。昨日は本当に、俺が俊平くんの死に水取らなきゃいけないかと思った」
 しみじみと安堵したような口調と、幾分やつれたような微笑に、ここ数日、彼がどんなに心を砕いて看護してくれたかが窺えた。
 母性ってものとは縁が薄くとも、俺は同居人には恵まれているのだろう。祖父にしても中戸さんにしても、時に生まれながらの家族以上に、俺の心配をしてくれる。
 だから。
「死に水はともかく、完治したらお礼にみそ汁作りますね。祖父直伝の。って言っても、何の変哲もないただのみそ汁だけど」
「ありがとう。楽しみにしてる」
 冷たい手をした同居人は、温かな笑顔でもって返してくれた。未来を思わせる、健やかな笑みで。








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