リフレイン 01

 目覚めると正午を少し過ぎたところだった。冷たい汗が全身を覆っている。
 俺は自室を出てざっとシャワーを浴びると、そうめんで軽く腹を満たした。付け合わせにハムやキュウリを切り、残りのそうめんと一緒に冷蔵庫のよく見える場所に入れておく。こうしておけば、同居人が気付いて食べるだろう。
 同居人の中戸さんはまだ寝ているのか、彼の使っている洋間からは物音ひとつしなかった。院試が近づいているので、昨夜も遅くまで勉強していたのだろう。俺も人のことはあまり言えないが、中戸さんはかなりの夜型だ。試験中に眠ってしまわなければいいがと、どうでもいい心配をしてしまう。
 バイトまでまだだいぶ時間があったが、俺はさっさと支度して、早めに出掛けることにした。不気味な夢を見たので気分転換をしたかったのだ。
 夢の中で俺は、何かから逃げていた。何からかはよく分からない。ただ、いろんな場所をやみくもに走っていた。大学の構内だったり、バイト先の厨房だったり、ただの暗闇だったり。幼い頃に遊んだ神社や、小学校も出てきた。ともすれば懐かしさに立ち止りそうになる脚を叱咤して走る。
 止まったらだめだ。もし捕まったら喰われてしまう。
 でも、何に?
 後ろを振り向いても、そこには何もなかった。ホラーゲームに出て来るような化け物も、幼い頃恐れていた親父の張り手も、バイト先の偉そうな社員も。
 ただ、漠然とした不安を煽る暗がりだけがあった。明確に見える穴などではない。廊下の隅とか、勝手口の陰とか、境内の下などに凝っているような気のする何かだ。
 それはどこまでも追ってきて、俺は言い知れぬ恐怖に走り続けた。口もない奴に喰われるなんておかしいじゃないかという考えは、過ぎる隙もなかった。
 やっと目覚めた時には、逃げ切れた安堵と夢だったというバカバカしさに溜息を吐いた。なんだか無駄に体力を消耗したようで、ものすごい損をしたような気分にもなった。
 起きて冷静になってみれば、なぜ『喰われる』と思ったのかについては、思い当たる節があった。花火大会の帰りに軽トラの荷台に乗せてくれた男に、「いつか喰われるよ」と言われたのが頭にこびりついているのだ。
 親切にしてくれた人に対して失礼だとは思うが、胡散臭い男だった。よく見れば端整とも言えそうな顔を、わざと崩そうとしているかのように分厚い黒縁眼鏡を掛け、さらに醜く歪めるような引き攣った笑顔を浮かべて、彼は俺に言った。
 ――深入りしないうちに離れた方がいいよ。引き返せるうちに引き返した方がいい。でないときみ、いつか喰われるよ。
 物言いは楽しくて仕方がないといった風だったが、目許がちっとも綻んでいないのが不気味だった。笑顔の能面というものがあれば、あんな感じかもしれない。
 俺は久しぶりにCDショップに立ち寄ってみることにした。一昨日、高校の同窓生に誘われてインディーズバンドを観覧した時の興奮が、まだ少し残っていた。
 外は、太陽の熱で色彩が薄らいでいるかのようだった。マンションを出た途端、一番暑い時間帯に出てきたことに気付いて、しまったと思ったが、部屋まで引き返すのも癪な気がして、強引に駅前まで出た。近場では、例のインディーズを観たファッションビルの中にしか、試聴できるCDショップがないのだ。昔のように贔屓のアーティストもなければ金もない今、無闇に購入する気はなかった。
 隣の本屋はそこそこお客がいるのに、CDショップはガラガラだった。レジにいる店員の視線が自分に集中しているような気がして、少々いたたまれない。それでも聞き覚えのあるCM曲が入った洋楽のアルバムを試聴していると、大きな手で肩を叩かれた。
「あ、やっぱり」
 振り向くと、見上げるほど大きな男が表情をほころばせた。
「蒔田くんだよね? 俺、一昨日会ったんだけど、分かる?」
「木曽さん……でしたっけ」
 男は、俺が一昨日観たバンドで、ベースを担当していた人物だった。






 木曽さんに時間はあるかと問われ、バイトまではまだ時間があることを告げると、お茶に誘われてしまった。木曽さんとは一昨日一度会ったきりで、その時だって個人的には一言も会話していない。受けるのも何か変だなと思ったが、断るのはそれ以上におかしな気がして、俺は誘いに乗った。
 彼のきぐるみの熊を連想させるような風貌に、警戒するのも馬鹿らしく感じたのもあったし、会ったその日に中戸さんとの同居を決めたことを考えると、警戒すること自体が木曽さんに失礼にあたるような気もした。
 お茶と言っても二人とも大して金がないので、ファッションビルを出て近隣のマクドナルドに入った。木曽さんは社会人だが、稼ぎのほとんどはバンド活動に消費しているため、生活はカツカツなのだそうだ。
「今日帰るんですか?」
 俺は二人分のジュースとLサイズのポテトをひとつ載せたトレイを一つ足のテーブルに置きながら尋ねた。彼らは大阪を拠点にしているのだ。
「うん。夜行バスでね」
 木曽さんがアイスティーのカップにストローを挿しながらうなずく。
 ポロシャツにチノパンという出で立ちの彼は、バンドマンというより休日のサラリーマンといった感じだ。一昨日、ファッションビルの簡易ステージでベースを弾いていた時も似たような格好だったけれど。髪も染めていないので、よけい勤め人のように見える。
「昨日会えなかったから、今日会えてちょうど良かったよ」
「あ、昨日は行けなくてすいませんでした」
 昨夜は彼らのライブがあったのだ。一昨日観たような、ファッションビルの簡易ステージではなく、小さくてもきちんとしたライブハウスでのライブが。
 俺はもともとその時間帯はバイトが入っていると話してあったのだが、それなら打ち上げだけでもおいでと誘われていた。俺に彼らの演奏を聴かせた犬飼という同窓生と、同居人の中戸さんとともに。偶然にも、彼らと中戸さんは旧知の仲だった。
「いいよいいよ、気にしないで。バイトの延長頼まれたんだって? ぶっ続けで大変だっただろう」
「あはは。ちょっと」
 気遣わしげな視線に罪悪感が湧く。バイトの延長を頼まれたというのは嘘だった。
「せっかく誘ってもらったのに、すいません」
「いいって。犬飼さんは来てくれたし」
「え、犬飼行ったんですか?」
 俺が行かなければ、犬飼だって行かないだろうと思って彼女に嘘を吐いたのに。でも考えてみれば、俺がバイト延長で行けなくなったと言った相手は犬飼しかいない。俺の嘘を木曽さんが知っている時点で気付くべきだった。
「うん。職場の先輩だっていう女の人と一緒に来てくれたよ。ライブも途中から観てくれたみたい。ラギがすごく喜んでたよ」
 木曽さんは俺の動揺になど気付かない様子で気安く言った。
 ラギというのは彼らのバンドのギター担当で、本名を蕪木という。犬飼のお気に入りで、俺の使っている部屋に昔住んでいた人間である。
「そうですか」
 木曽さんほどではないが背が高く、金に近い茶髪を逆立てたラギは、バンドの中では一番それらしく見えた。
 俺は気分を落ちつけようとコーラを口にしながら、紙コップに浮きつつある水滴のように冷や汗が出てくるのを感じていた。
 こんなことなら嘘なんか吐かずに、俺も行っていればよかった。
 中戸さんはバイセクシュアルだ。学内では中戸さんがセクシュアルマイノリティであることは都市伝説化しているような話だが、うちの学生でない犬飼はまだ知らなかった。俺が彼女に変に思われないよう、中戸さんが隠してくれていたのだ。俺も、同居人がバイだなんて犬飼に知れたら、高校の同級生全員にホモだと思われそうな気がして、中戸さんの好意に甘えさせてもらっていた。
 しかし、今度ばかりはバレただろう。昨日は中戸さんも行かなかったのだ。
 隠す人間がいなかった上、かつて中戸さんと住んでいたラギがいたのである。共通の友人の話題として、彼らの間で中戸さんの名前が上るのは当然の成り行きのように思えた。
 特にラギは、純然たる同居人の俺とは違い、中戸さんとは同棲の類だったと推測される。あまり楽しくない推測だが、ラギの言動を見る限り事実だろう。言動から簡単に推測できるのだから、ラギが中戸さんと恋仲だったことを隠そうともしていないことも明らかだ。むしろ積極的に話しそうな気もする。
 でもまぁ、大学の友人の大部分にはすでにホモだと思われているのだし、今更高校の奴らにもそう思われたところでどうということもないか、という気分になりかけた時、木曽さんが言った。
「安心していいよ」
 何をだろうと顔を上げると、木曽さんは柔和な笑みを浮かべていた。
「グンちゃんのこと、犬飼さんには言ってないから。グンちゃんに頼まれてたんだ」
「中戸さんに?」
 この人、鈍感なんだか敏感なんだかよく分からないなと思いながら問い返す。
「うん。きみが犬飼さんを好いてるから、きみが彼女に誤解されるようなことは言わないでくれって。同居人がゲイだって知られたら、きっときみも同類だと思われるだろうからって」
 それを聞いて、少しだけ「だからか」と思った。木曽さんはたぶん、犬飼が女の先輩と一緒だったと言うことで、俺を安心させたつもりでいたのだ。しかし、俺が黙り込んでしまったから、中戸さんの頼みを思い出した。
「ありがとうございます」
 でも、ラギもかつてはうちの大学に籍があったというから、ラギの大学時代の友人が行っていて、中戸さんの性癖を犬飼に吹き込んでいる可能性もある。
 もっともその場合、俺が一緒に行っていたら、同じ大学の奴らに声を掛けられる確率もずっと高くなっていたはずだ。何しろ中戸さんの新旧の男(と思われているであろう人間)が会することになっていたのだから。












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