リフレイン 06

「いや、別に好きじゃないんで。中戸さんデマ流しただけですよ」
 ビールの缶をカウンターに置いて、コンロの前に戻る。茄子は丁度良い具合に焼けていた。一度取り出して、玉ねぎとにんにくを炒める。
「けど助かりました。もし犬飼が、中戸さんがバイだって知ったら、俺、中戸さんにつく悪い虫と判断されて、犬飼に暗殺されてたかもしれません」
 そうなのだ。高校の奴らにホモ扱いされたところで危害を加えられることはないと高を括っていたが、中戸さんを好きな犬飼こそが一番の危険人物だったのだ。
「あはは。どっちかっていうと、俺が俊平くんにつく悪い虫ってことで襲撃されるんじゃない?」
「んなわけないでしょう。犬飼の奴、中戸さん命ですよ。まぁ、別の意味でなら、中戸さんに奇襲かけそうですけどね、あいつは」
「あ、奇襲って言えば、佐渡っていたじゃん? 去年勘違いして俊平くんに包丁向けた奴」
 うちの包丁を持って震える大柄な男の姿が思い出された。俺を中戸さんの彼氏と思い込んで襲撃してきた、中戸さんの元同棲相手だ。
「前期で正式に大学辞めて、実家に帰ったらしいよ」
「辞めた!?」
 手元が狂って、砂糖を大量に投入してしまった。仕方がないので、しょう油も多めに入れる。
「うん。実家はたしか九州だったと思うから、もうここに現れる心配もないと思う」
 味を調えながらも、四人目、という言葉が脳裏をかすめた。
 いや、ただの偶然だ。去年の暮れに少しだけ中戸さんと付き合っていた渡壁さんという女生徒も元気に大学に来ているし、ゴールデンウィーク頃に恋人だった川崎先輩という卒業生も、おかしくなったなんて噂は聞かない。それに、付き合わないまでも、中戸さんと関係した奴なら、学内にも数えきれないほどいるはずだ。
 それとも、ここで一緒に暮らした奴だけがおかしくなるのだろうか。やはり佐渡も、ラギのように自らの妬心に喰われたのだろうか。そして俺もいつか……。
 いやいや、そんなはずはない。
 俺は心の中でかぶりを振った。だって、最初に中戸さんをこの部屋に住まわせた古川という人は、きちんと卒業している。中戸さんが言うように、実の恋人ではなかったとしても、木曽さんの危惧しているとおりなら、古川さんだっておかしくなったはずだ。
 でも。
 何かあったら相談に乗ると言ってくれた木曽さんの厚意が、中戸さんの人徳によるものなのか、色香によるものなのかは分からない。それでも俺は、「哂ったり怒ったりせずに聞いてくれてありがとう」と眉を下げた彼の不安や心配を、自分には関係ないと無視することはできなかった。
「中戸さん」
 俺は再び茄子を投入してから声を掛けた。
「何?」
 いい匂い、と目を細めていた中戸さんが、どんぐり眼をぱちくりさせる。
「今度もし襲撃されるようなことがあったら、あの時みたいに自分の命を差し出すような真似はしないでください。絶対に逃げるなり抵抗するなりしてください。どんなに負い目を感じる相手であっても」
 たとえ相手が、俺であっても。
「木曽さんに何か聞いた?」
 真剣に言いすぎただろうか。中戸さんの眉宇に不安めいたものが滲んだ。
 俺は一瞬だけ考えて、首を絞められた話を聞いたことは黙っていることにした。
「去年のイブの四人斬りを知って中戸さんを半殺しにしたのはラギだって」
「うわぁ、あの話……」
「木曽さん、中戸さんの状態見て絶句したって言ってましたよ。ラギから全然抵抗もされなかったって聞いて、呆れもしたって」
「あー、あの時はね、うん、イブから検査結果出るまでずっと体調悪いって嘘ついてて、ラギも心配してくれたりしてたから、余計怒ったんだと思う」
 一晩で何人もの知らない男と関係を持った中戸さんは、ラギに性病をうつすことを恐れ、検査結果が出るまで拒むために嘘を吐いていたらしい。その間約ひと月半。ラギが怒髪天を突いてしまったのも仕方がないと言えば仕方がないのかもしれない。
「でも、無抵抗でいることなかったでしょう。ガードすらしてなかったなんて」
 ぽやーっとしているようで、中戸さんは強い。たった一人で三人をのしてしまったこともある。あの時の俊敏さを以ってすれば、反撃しなくとも避けることくらいできたろう。
「だって……」
「だってじゃないですよ」
 言い訳を遮って、コンロの火を消す。
「約束してください。自分が悪いと思う場合や俺が危ない時でも、ちゃんと抵抗するって。俺は自分のせいで中戸さんに何かあるなんて、絶対に嫌ですからね」
 俺は出来上がった甘辛煮を大皿に移すと、ダイニングに回った。
「それに、中戸さんは自分にそんな権利はないって言うかもしれないけど、権利はなくても義務はあるんです!」
 言い切って、ダイニングテーブルにドンと皿を置く。もずく酢を啜っていた中戸さんは、箸を持ったまま固まった。
「義務?」
「ルームシェアしないかって話を俺に持ち掛けてきたのは中戸さんの方ですよ。中戸さんが死んだら俺、ここの家賃一人で払わなきゃならなくなるじゃないですか」
 すっかり気圧されているらしい中戸さんに、とどめを刺すようににっこりと笑って見せる。癒し効果のまるでない俺の笑顔は、ある意味迫力がある、はずだ。
「ルームメイトを一人にしないのは、誘った者の義務だと思いません?」
 けれど中戸さんは、見開いていた瞳をふわりと緩めて。
「……分かった。約束する」
 指切りしよっか、と小指を突き出してきた。結果、動揺したのは俺の方で。
「い、いいですよ、そんな子どもじゃないんだし」
 そう言って中戸さんの手を押し戻そうとした俺はしかし、思わずその手首を掴んで引き寄せていた。中戸さんの背後から、たくさんの手が彼の身体に絡みついているのを見た気がしたのだ。
「何?」
 俺が、力加減ができていなかったので痛かったのだろう。中戸さんはやや顔を歪めて、不思議そうに首を傾げた。俺に引っ張られる格好になったせいで、椅子から腰を浮かせている。
「あ、や、ごめんなさい!」
 俺は慌てて手を離した。
「あの、やっぱり指切りしといてもらおうかな、と」
「なんだ、そんなこと」
 再び笑顔になった中戸さんは、改めて小指を差し出してくる。俺は、ひんやりした細い指に、自分の無骨な指をあてがった。
 中戸さんが軽く指を曲げて楽しげに腕を振り始める。
「ゆびきりげんまん、うそついたら……」
 誰よりも触れたいと思っているはずの人と小指を絡ませながらも、俺の頭の中では、陽気に唄う中戸さんの声ではなく、別の声がこだましていた。
 ――深入りしないうちに離れた方がいい。
 排気ガスの臭いが鼻につく煤けたトンネルの中で見た、あの胡散臭い眼鏡男の声だ。
 ――引き返せるうちに引き返した方がいい。
 トンネル内に響くでも吸い込まれるでもなく、地を這うように俺の耳に届いた哄笑にも似た声。でも、玩具のような黒縁眼鏡の奥の瞳は哂ってはいなかった。
 いやだ。
 俺は心の中でかぶりを振る。この指すらも離したくないのに、他の奴が俺の代わりにこの人と暮らすなんて耐えられない。今以上の関係なんて望まない。ただ傍にいられればそれでいい。そういう意味では、きっともう引き返せるところは過ぎている。
 でも。
 でもこの独占欲に、もっと先があるのだとしたら。
 ――でないときみ、いつか喰われるよ。
 男の吊り上げられた左口角から紡がれた言葉が、警鐘のように鳴り響いていた。












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