リフレイン 05

 木曽さんとはそれから、少しだけ音楽の話をして別れた。
 好きなジャンルを訊かれ、高校の時よく聴いていたアーティストの名を挙げると、木曽さんたちも影響を受けた曲があるという。でも最近は、歌の入っているものは英語詞でさえ気が散るからあまり聴いていないのだという話をすると、木曽さんはインストのアルバムを紹介してくれた。
「あのあたりが好きなら、たぶん気に入ると思うよ」
 ラギはこっちにいた頃の友達の家で潰れて寝ているという話だった。明け方まで飲んでいたらしい。
 中戸さんとはもう関わらない方がいいと思っていたという木曽さんだが、中戸さんのいる街でラギを野放しにしていても、心配しているようには見受けられなかった。本題に入る前ののほほんとした物言いからすると、ラギはもう大丈夫だと判断しているのかもしれない。
 それでも俺は、こうしている間にも、ラギがうちに来て中戸さんの首を絞めていたらどうしようと気が気ではなく、バイトの前に電話を入れようかと何度も思った。一昨日のラギの様子は、吹っ切れているどころか、未練も執着もたっぷりあるように俺には感じられたのだ。
 そして結局、バイト先の更衣室で不安が爆発。中戸さんの携帯に電話を掛けてしまった。
「俊平くん? どうかした?」
 そんな中戸さんの心配そうな声を聞いた時には、安堵よりもどう繕うかで頭がいっぱいになったが。
 咄嗟に、今日の夜食は茄子の煮びたしと甘辛煮と焼き茄子のどれがいいですかと訊いたら、元気よく「甘辛煮!」と言われた。
「用件ってそれ?」
「すいません」
「良かった。俊平くんが電話してくるなんて珍しいから、事故にでも遭ったのかと思っちゃった」
 俺は「すいません」と繰り返しながら、更衣室の掛け時計を見た。時計の針は、木曽さんたちがもうとっくに出発している時間であることを示しており、俺はやっと安心して携帯を閉じた。
 その携帯のメモリには、新たに木曽さんの番号とアドレスが登録されている。俺に今すぐあの部屋を出ろというのは、さすがに無茶な話だと思ったのだろう。木曽さんは、何かあったら相談に乗るからと言ってくれた。






 ベランダは、まだむっとした熱の残滓が残っていた。夏至の頃にはもう東の空がうっすらと白み始めていた時間帯だが、今日はまだ夜が横たわっている。暑さは引かなくても、陽は確実に短くなっているようだ。
 エアコンの室外機の上に置いた段ボールから、茄子をいくつか掴んで室内に入る。軽く洗って包丁を入れていると、中戸さんが部屋から出てきた。
「おかえり。バイトお疲れ様。そうめん貰って食べたよ。ご馳走様でした」
「いえいえ、お粗末さまでした」
 前は俺が帰宅しても部屋から出てくることはなかった中戸さんだが、俺が彼に夜食を作るのはお節介かもしれないと悶々としていたことがバレてからは、こうして顔を出してくれるようになった。
「何か手伝おうか?」
 俺の手元を見る眼は、どこか興味深そうだ。自分が子どもの頃、祖父が料理するのをじっと見ていたことを思い出す。俺は魚を捌くのを見るのが好きだった。
「いいですよ。勉強しててください。できたら呼びますから」
 シンクの下の収納からボウルを出す隙に、中戸さんの首に視線を走らせる。丸首Tシャツを着た彼の喉仏付近に、傷痕は見られなかった。
 そ? と言いながらも、中戸さんはなかなかその場を動こうとしない。俺に気がねしているのだろう。しかし、あまり見られると緊張するので、俺はいつも、なんとかして彼を追いたてていた。
「なんだったら寝ててください」
「んー、でも、俊平くんが料理してるの見るの、なんか好きなんだよね」
「俺は緊張するんで、せめて向こうに座っててください」
 顔を上げずに言うと、中戸さんは「けちー」と言いながら、渋々離れていった。
 ひょっとして俺は、十分『おいしい思い』をしているのだろうか。今のセリフをラギが聞いたら、俺はくびり殺されてもおかしくなかったかもしれない。とはいえ、中戸さんが料理中の俺を見たがるのは、俺が祖父の手元を飽かずに眺めていたのと同種の興味から来るものなのだが。
 それでも、包丁を使っている時にあまり刺激の強いことを言わないで欲しい。玉ねぎと一緒に指を切るかと思った。
 中戸さんは椅子を引きながら、「減るもんじゃなし」とぶつぶつ言っている。フライパンに油を敷きながら、「味が減りますよ」と言おうかと思ったが、今度は火傷するような言葉が返ってくるかもしれないのでやめておいた。
 中戸さんにおかしくなる男が多いのは、見た目のせいだけじゃなく、この人が無意識に発するこっ恥ずかしい褒め言葉のせいもあると思う。褒めている自覚さえないところがまた厄介だ。
「そういえば今日、木曽さんに会いました」
 俺はこれ以上何か言われないうちにと先手を打った。褒めてもらえるのは嬉しいが、反応に困るのだ。
「中戸さんが痩せたって心配してましたよ。夏バテしてたけど今は快復傾向にあるって言ったら、なら良かったって言ってましたけど」
 木曽さんは、中戸さんの元気な様子にホッとしたものの、ハグした時のあまりの細さに驚き、これはもうやばいことになっているのかもしれないと焦って俺に話したらしい。俺が、中戸さんには何も言っていないししていないことを告げ、「でないと中戸さんが、俺が好きなのは犬飼だと思い込んでるはずがないでしょう」と言うと、安堵とも驚愕とも取れない、複雑な表情で謝っていた。
「そうなの? ラギと暮らしてた頃と比べたら、考えられないほどまともな食生活送ってるんだけどなぁ。俊平くんのおかげだけど」
「どんな食生活送ってたんですか」
 今だって、なるべく食べさせるようにはしているが、まともとは言い難い。こんな夜中に食べているから夜食と呼んでいるが、中戸さんにとってはこれが夕飯みたいなもんだ。おそらくこれ以外の固形物は、今日はそうめんしか食ってないだろう。
「うちの実家から送って来たキャベツやレタスを水洗いしただけで、そのまま葉っぱを毟りながら食べるとか」
 食器を洗うのも面倒臭いと言って、お皿すら出していなかったという。
「なんか、草食動物みたいですね」
「うん。兎といい勝負だったよ」
「麦の炭酸水を飲む兎ですか」
「よく分かるね」
「今日も飲みますか」
「うーん、飲んじゃおうかな」
「じゃあ、はい」
 俺は茄子を蒸し焼きしている間に切ったオクラと、もずく酢を混ぜ合わせて、缶ビールと一緒に中戸さんの前に置いた。
 中戸さんが、瞳をキラキラさせて、感嘆の声をあげる。
「うわぁ」
「お通し二百円になります」
「出世払いでお願いします」
「いつ出世するんですか」
「えーっと、十年後くらい?」
 俺は笑いながらキッチンスペースに戻ると、冷蔵庫を開けて自分の分も缶ビールを取り出し、ひと口飲んだ。そうしないと、中戸さんは遠慮して口をつけない。
「今回は特別に無料にしときますよ」
 十年後も交流が続けられるような申し出は、冗談でも受けておきたいけれど。
「木曽さんから聞きました。バイってこと、犬飼にバレないように頼んでくれてたんですね。ありがとうございました」
 案の定、俺が飲むのを見てからプルトップを開けた中戸さんは、「そんなのいいよ」と缶を持っていない方の手を振った。
「犬飼さんに誤解されたら、俊平くんが出て行かないとも限らないし。でも、勝手に犬飼さんを好きなことバラしちゃってごめん」












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